2010年2月4日木曜日

尾高城(鳥取県米子市尾高)

尾高城(おだかじょう)

●所在地 鳥取県米子市尾高
●登城日 2007年9月3日、2017年11月2日
●形式 平山城
●築城年 鎌倉時代
●築城者 行松氏
●城主 行松正盛、吉田光倫、杉原盛重、吉田元重
●別名 泉山城
●標高 40m

◆解説(参考文献「続・因伯大名の戦国時代」中村忠文著等)
 
 鳥取県米子市の米子自動車道米子ICを降り、大山に向かう米子大山線(24号線)と、淀江岸本線(53号線)が交差する南東部に突き出た丘陵地に尾高城跡がある。
【写真左】石碑
前回の登城から10年経った2017年再訪した。
撮影日 2017年11月2日

 尾高城の別名「小鷹泉山城」と筆耕され、下には「杉原盛重居城址 鳥取県知事平井伸治書」と刻まれた石碑が建つ。
 平井知事名なので、最近建立されたようだ。



 現在この周囲は大幅に改変され、現地に明瞭に残っているのは、下段に示す「南大首郭」といわれるところである。

 概要については、現地に点在する遺構の説明板から転載しておく。

“米子市指定史跡
尾高城跡

 ここは、中世の東西交通路をおさえる西伯耆の軍事上の中心地であった。城郭は、鎌倉時代から築かれたようであり、室町時代山名氏支配下では、城主は行松氏が、尼子氏が進出すると城主は、吉田氏が、16世紀後半になって毛利氏支配下時代には、杉原盛重が城主であった。

 江戸時代初期、米子城築城によってこの城は廃城となった。城跡は、北から二の丸・本丸・中の丸・天神丸・後方の館跡など8つの郭があって、堀や土塁で守られ、平常の生活を営む館と城とが繋がっている中世の城郭遺跡である。

 尼子回復戦のおり、尼子の勇将山中鹿助が囚われ、この城にいたとき、腹痛といつわって汲み取り口から脱出したという物語は有名である。
米子市”

【写真左】南大首郭跡












 説明板から転載する

尾高城跡 南大首郭

 天神丸郭と方形館跡の間に位置する西側には中の丸郭がある。四方を空堀により区切り、60×40mの規模で、四つの平坦面を持つ。

 発掘調査により、南、東側には土塁があったことが確認されている。東側堀には橋脚柱穴が発見され、木橋が架けられていたと思われる。

 郭の北西の角には掘立柱建物跡が見つかり、隅櫓的な建物が建っていたことが判明している。
米子市教育委員会”



 さらに、これとは別に、「米子市勤労総合福祉センター案内図」という看板があり、現在と当時の遺構名を併記してあるが、この看板は相当古く、文字もかすれ判読に難渋するものの、右欄には当城の略歴も追記してあるので、上段の説明板と重複する内容もあるが、転載しておく。

“米子勤労総合福祉センター(愛称米子ハイツ)は、尾高城跡を中心とした約8万平方メートルの敷地内に建設されています。

 この尾高城は室町、戦国時代には行松氏累代の居城でしたが、1524年(大永4年)尼子方部将吉田光倫が変わって城主となり、その後伯耆因幡制覇をめざす毛利方の勇将杉原播磨守盛重が備後から転城し、伯耆守護の要害とされました。

 尼子方の部将で「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った山中鹿助幸盛は、幾度の戦後、この城の虜因となり、数拾度の厠(かわや)通いで城兵の油断を誘い、汲取り口から脱出したとの史実があります。
【写真左】米子勤労総合福祉センター案内図











 関ヶ原の戦ののち、伯耆18万石の領主となって入府した中村一忠は、現米子市城山の久米城が完成するまで尾高に在城しました。また、土塁と堀に囲まれ、方形館跡と、北から二の丸、本丸、中の丸、天神丸と続くこの城跡は、中世の城の偉容が偲ばれます。

 現在、城跡は米子市の文化財に指定されています。米子ハイツは、背後に大山を控え、前面には日本海が迫った風光明媚な尾高の地に、城跡の地形を十分に生かして梅園、桜の園、あじさい園、武家屋敷跡基礎復元、日本庭園、自由広場等を整備し、四季とりどりの草花木を植え、自然に親しむ憩いの場として、また体育館、テニスコート、ゲートボール場などの体育施設も設け、勤労者の総合的な福祉の向上に寄与することを目的として、昭和51年6月に建設開業されたものです。”


 現地を訪れた時、周辺の建物や公園などが目立ち、山城遺構としては、上段に示した「南大首郭」と「中の丸」だけが管理保存されていたように見えた。

 当該センターの説明板にある「城跡の地形を十分に生かして…」というコンセプトも理解できるが、城跡全体の遺構保存からいえば、もう少し工夫の余地がなかったのか、と思える。

 昭和51年に当センターが開設され、各施設の老朽化が目立ってきている。予算的な余裕がなくなってきた今日であるから、このままいくと、城跡もセンター施設も共に朽ち果てていくような感じである。ちょうどこの日訪れていた時、南側の旧天神丸周辺は福祉施設のような建物が建ち、天神丸の遺構もほとんど消滅しそうな状況に見えた。

 せめて残っている「南大首郭」「中の丸」そして、森と化している「本丸」「二の丸」だけは手をくわえないでほしいものだ。
【写真左】五輪塔群
 前回訪れたとき気づかなかったが、尾高城跡には「大高小学校」という学校があったらしく、その奥に「学校跡」の碑も建っている。
【写真左】南大首郭付近
 堀跡にかかる橋が少し見えるが、その下に橋脚柱穴があったという。








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大林寺(島根県出雲市平田町496-2)

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