播磨・尼子山城(はりま・あまごやまじょう)
●所在地 兵庫県赤穂市高野
●別名 雨乞城
●高さ 259m(比高249m)
●築城期 天文7年(1538)
●築城者 尼子晴久
●城主 尼子晴久、義久
●遺構 郭、土塀等
●登城日 2017年5月11日
●別名 雨乞城
●高さ 259m(比高249m)
●築城期 天文7年(1538)
●築城者 尼子晴久
●城主 尼子晴久、義久
●遺構 郭、土塀等
●登城日 2017年5月11日
◆解説(参考資料 『尼子氏の城郭と合戦』寺井毅著 戎光出版等)
播磨・尼子山城は、以前紹介した児島高徳の墓(兵庫県赤穂市坂越)がある坂越の北隣高野の北方に聳える尼子山に築かれた城郭で、出雲の尼子氏が築いたといわれる。当城の西麓は千種川が流れ、赤穂の港に注ぐ。
南側から見たもので、写真には写っていないが、左側には千種川が流れている。
現地には尼子山城についてまとめた説明板はなく、登城ルートの各所に標柱が建てられ、その柱面に小文が記されている。以下それらをまとめて紹介して置く。
標柱より
❝尼子山城跡
標高259mの尼子山にある。城主は尼子詮久(後の晴久)の長子・尼子義久といわれている。1563年に落城したとされる。❞
❝海抜259mの山上には、東西35間、南北40間の本丸跡のほか、外郭に屋敷跡の遺構が残っている。❞
❞尼子山城は尼子将監義久の居城であったが、永禄6年(1563)毛利元就に背後から攻められ落城❞
登城口のある南麓には尼子神社が祀られている。祭神は尼子氏嫡流最後の当主・義久とされている。
創建年代など不明だが、おそらく尼子氏が滅亡したあと地元の人々によって祀られたのだろう。なお、これとは別に当社の奥宮が後段で紹介するように主郭跡に祀られている。
尼子晴久(詮久)播磨国に入る
出雲・尼子氏が播磨国に触手を伸ばしたことは以前にも少し触れているが、このことについて改めて推考してみたい。
天文6年(1537)12月8日、尼子詮久は本願寺光教に馬代等を贈った。それから6日後の14日、尼子詮久軍は播磨国に入り、本願寺の光教は、播磨守護であった赤松政村の動向を詮久に問い、詮久の勝利を祝している(『証如日記』)。
尼子神社の参道前から登城道が始まるが、しばらく進むと、尼子将監の墓がある。
義久の墓とされるが、義久は実際には長門(尼子義久の墓(山口県阿武郡阿武町大字奈古 大覚寺)参照)で亡くなっている。
墓石は近世の様式となっていることから新たに建立されたものだろう。
尼子将監の墓を参拝したあと、再び登城開始。
中腹までは歩きやすいが、後半になると岩場が多く出てくる。
詮久とは後の晴久のことで、この年(天文6年)、祖父経久は隠居の形をとり、孫の晴久が尼子家の家督を継ぎ当主となった。
また、赤松政村とは、播磨・備前・美作の守護であった赤松氏第11代当主で、別名赤松晴政(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)参照)である。
右から左に流れているが、下流部には赤穂の町が控えている。
『証如日記』によれば、天文7年11月5日、祖父経久が播磨国に入り、赤松晴政は淡路に奔った。同日記には孫の晴久の名は見えていないようだが、おそらく経久と同行していたと思われる。尼子氏の勝利に対し、証如は祝いの品を送った。
天文8年(1539)11月25日、再び晴久は播磨国で赤松晴政を破った(『証如書札集』)。この戦いは尼子氏が播磨に侵攻した最大のもので、最初に龍野城を陥落させ、さらには東に進んで別所就治の三木城を攻めた。当城には度々尼子に追討されていた赤松晴政が別所氏に匿われていたが、別所氏がその後尼子氏についたため、今度は晴政は堺へ逃亡するはめになる。
岩場の多くなった道を進むと、ここで分岐点に差し掛かる。右に行くと上高野に降りて行く。
赤松討伐と将軍義晴
以上がこの頃の尼子氏の主だった動きである。ではなぜ、尼子氏が播磨国に侵攻してきたのだろうか。それについては二つのことが考えられる。
一つは赤松氏と対立した浦上氏からの要請である。もともと浦上氏は播磨・備前守護であった赤松氏の守護代としてその任にあったが、いわゆる下剋上の時代である、浦上氏は赤松氏と対立、西播磨を支配下に治めていく。しかし、浦上氏の圧迫を受けた赤松氏もその後度々浦上氏と抗争を広げていった。こうした中、浦上氏は尼子氏にさらなる支援を求めた。
この辺りからはほとんど岩場となり、傾斜もきつくなるが、視界が広がっているので気持ちがいい。
もう一つの理由は、当時の室町幕府将軍足利義晴が、主として西国各地にいる盟主に対し、上洛を求めていたことである。当時の幕府は極めて脆弱で、そのためにも義晴は彼ら西国の強豪に対し、在京を条件とし幕政に参加を求め、幕府の再興を求めていたのである。
ところが、尼子氏が播磨を席巻し始めると、義晴は次第に尼子氏の武威に警戒するようになった。そして、大内氏に対し尼子氏の勢力を削ぐように仕向けている。
左右の柱に文字が刻まれているが、かなり劣化しているため解読は困難。麓の尼子神社の奥宮として建立されたものだろう。
この鳥居を過ぎるといよいよ城域に入る。
根城・城山城と尼子山城
このように尼子氏による播磨国進出を見たとき、同国内に尼子氏が拠点とする城郭、すなわち根城を確保していたことは当然と思われる。
伝承では、初期の龍野城攻めの際、たつの市新宮町馬立の城山城(亀山城)を足掛かりとし、この城を2年にわたって修復、播磨支配の根城としたといわれる。
因みに、当城もまた赤松氏の居城であったところで、嘉吉の乱(嘉吉元年・1441年)に落城後、廃城となっていた城である。城山城は揖保川沿いにあり、ここから南西へおよそ25キロ向かった千種川沿いにあるのが今稿の尼子山城である。
最高所(259m)に当たる位置で、規模は長径(東西)80m×短径(南北)20m前後。東方で少し南に屈折している。
赤い鳥居の奥に尼子神社(奥宮)が鎮座している。
前段で述べた尼子氏の播磨侵攻の記録から考えると、初期の城山城は天文6年・7年(1537~38)頃の在城と考えられ、尼子山城は城山城を根城としつつ、天文7年・8年(1538~39)頃にかけて築城されていったものと思われる。
これら二つの城を築城した目的は前述したように、播磨守護を奪還しようとした赤松氏に対するもので、尼子氏が具体的に攻略した城郭は、既述した龍野城、三木城の他、以前紹介した赤松祐尚の播磨・小谷城(兵庫県加西市北条町小谷字城山)が記録されているが、これ以外の赤松氏絡みの城郭もあったものと思われる。
左面には、冒頭で紹介したように、「城主は尼子晴久の長子・尼子義久といわれている」と書かれている。
尼子山城の落城
ところで、現地の標柱に❞尼子山城は尼子将監義久の居城であったが、永禄6年(1563)毛利元就に背後から攻められ落城❞と記されている。
傍証となる史料などが付記されていないため、なんとも判断がつかないが、出雲国における尼子氏のこの当時の状況を記した文書を見る限り、永禄6年に尼子氏並びに毛利氏が播磨国において戦っている記録は皆無である。
義久自身この前年から毛利方による出雲国侵攻に対する防戦に追われ、元就が翌6年10月29日、月山富田城の尼子十旗の第一旗・白鹿城(島根県松江市法吉町)を攻略している。こうしたことから、仮に尼子山城が落城したとすれば、これ以前と考えられる。
【写真左】主郭東側 右に見える建物が尼子神社奥宮。尼子氏時代にも物見櫓のような建物が建っていたのかもしれない。
【写真左】石積 主郭北側(奥宮裏)には石積が残る。
主郭からは雑木があるため余り視界はよくないが、それでも播磨灘が確認できる。
このあと、主郭の西側に回り込み、北側に配置された郭段に向かう。
郭段の構成は、主郭から北に向かってまとまった郭が約5段の形で下に向かっている。
この写真は最初のもので、長径60m前後、奥行は5~10m程度のもの。
次の段に降りて上を見たもの。
更に下の段へ降りる。
3段目あたりだったと思うが、この個所の郭間の区画ははっきりしている。
【写真左】北側の郭・その6
更に下の段を見る。下に行くに従って段の区切りとなる縁が劣化し、郭平面が北に向かって下がる傾向となる。
このあと、東側に回り込み主郭に向かって登って行く。
【写真左】主郭の東側 踏査した印象では東側にもともと犬走のような道があったように見えた。
写真はその道筋をたどって一旦上を目指した個所で、上段に小屋(トイレか)が見える。
上述したトイレのある箇所で、帯郭のような遺構。
先ほどの位置からさらに東に進むと、下方に郭段らしきものが見えたので、再び降りて行く。
このあたりも小郭の段がある。
【写真左】郭 右側に踏み跡の道を発見したので、その道を降りて行くと、御覧の郭
中央の樹木に「➡」マークがついている。この先にも遺構があるという意味か。
さらに降りて行く。
主だった郭段の下部に当たる箇所で、北の方へ下がった面になっているが、規模は大きい。
ほぼ最下段の位置と思われるが、削平が丁寧な郭だ。
郭段の東側に「尼子山湧泉」の案内板が設置してある。100mほど下がったところにあるようだが、この時点で大分疲労していたので向かっていない。
おそらく尼子山城時代にはこの湧泉は「水の手」として使われていたのだろう。
【写真左】主郭の南東部 再び主郭に戻るため、東側の方から登ると、南東側に伸びる郭にたどり着いた。
この個所も広い。
西麓の上高野付近から見たもので、こちらの面は岩塊が目立つ。
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