筑前・大野城(ちくぜん・おおのじょう)・その2
●所在地 福岡県大野城市・宇美町・太宰府市
●登城日 2013年2月3日
◆解説
前稿に引き続いて筑前・大野城をとりあげるが、今稿は多くある遺構のうち、北方にある「百間石垣」を中心に取り上げたい。
【写真左】百間石垣・その1
上流部始点にある石垣で、比較的良好に残っている。
現地の説明板より・その1
“特別史跡 大野城跡 百間石垣(ひゃっけんいしがき)
大野城の城壁は土を高く盛り上げた「土塁」で囲まれているが、起伏の激しい地形のため谷間は土塁でなく石を積み上げたダムのような石塁とし、急傾斜部は石垣を作るなど工夫をこらしている。
この「百間石垣」の名称は、四王寺川の部分を石塁とし、それに続く山腹部を石垣とした城壁で、長さが180mほどであることから名づけられたものである。平均4mくらいの高さが残っており、川底部では石塁幅は9mほどある。外壁面の角度は75度前後である。
この川の中から今までに3個の礎石などが発見されており、川に近い場所に城門があったと考えられる。”
【写真左】百間石垣の位置を示した地図
大野城の北端部にあり、当時はこの位置が尤も海岸部(玄界灘)に近いため、重要な場所だったと思われる。
このためか、この区域では外周部の土塁とは別に、百間石垣を含めて東西にもう一つの土塁が配置されている。
また、南側も大宰府政庁があることから、二重の土塁が構築されている。
現地の説明板より・その2
“百間石垣
百間石垣は大野城の北の要(宇美口)に位置し、石垣の全長は150m以上あり城内最大の規模を誇ります。
石垣の大半は頑強な岩盤の上に構築され、裏込めに栗石を使用した透水性の高い断面構造をなし、石垣の南側には地下水を排出するための吐水口が設置されるなど、水に配慮した当時の技術の高さを窺い知ることができます。
【写真左】下流部から見たもの。
百間石垣は、この写真の右側にあるが、四王寺川の西(左)に道路が走り、さらにその左にはもう一つ別の「北石垣」もある。ただ、この日は雨が降っていたため滑りやすく、こちらの方は踏査していない。
昭和48年の水害によって、百間石垣の前を流れる川が氾濫、土砂崩れも重なり石垣は大きな被害を受けました。
復旧工事に併せ発掘調査を行ったところ、石垣の基礎や川の中から城門の礎石と考えられる石材が発見されました。平成13年度からは石垣の保存のために修理が始められ、この時行われた工事で中央の石垣の裏から版築状の盛土が発見されるなど新たな知見を得ることが出来ました。
ところが、平成15年7月の集中豪雨によって山林が崩壊、この土砂災害によって百間石垣は甚大な被害を受けます。工事は一時中断しましたが、復旧に取り組んだ結果、現在のような姿によみがえりました。
【写真左】中央部付近を下から見上げる。
切り立った崖に構築されている。登り口は上下両方から向かうことができるが、先ず上の方から向かう。
【写真左】上から見たもの
上手側から登り坂となっていくが、整備されているのは途中までとなっている。
【写真左】上部
右側側面に百間石垣が積み上げられている。
この付近は、中世城郭的定義でいえば、郭段に当たる個所で、平坦に仕上げられている。
【写真左】埋もれていた石垣
上部の方に設置されているもの
【写真左】さらに上に向かう
この辺りの石積みは施工が困難だったと思われる。
【写真左】上から側面部の石積みを見る。
あえてこうした急傾斜に石積みを施すことによって、より要害性を高めたのだろう。
【写真左】再び道路側から見る
【写真左】北石垣へ向かう階段
道路を挟んだ反対側にも石垣があるが、この日は向かっていない。
【写真左】羅沙門堂へ向かう分岐点
この付近は、大野城の西方にあたり、この先には「八ッ波建物群」と呼ばれる跡が残る。
前稿で紹介した高床式倉庫跡といわれる建物14棟の礎石が残っているというが、この日は時間がないため向かっていない。
●所在地 福岡県大野城市・宇美町・太宰府市
●登城日 2013年2月3日
◆解説
前稿に引き続いて筑前・大野城をとりあげるが、今稿は多くある遺構のうち、北方にある「百間石垣」を中心に取り上げたい。
【写真左】百間石垣・その1
上流部始点にある石垣で、比較的良好に残っている。
現地の説明板より・その1
“特別史跡 大野城跡 百間石垣(ひゃっけんいしがき)
大野城の城壁は土を高く盛り上げた「土塁」で囲まれているが、起伏の激しい地形のため谷間は土塁でなく石を積み上げたダムのような石塁とし、急傾斜部は石垣を作るなど工夫をこらしている。
この「百間石垣」の名称は、四王寺川の部分を石塁とし、それに続く山腹部を石垣とした城壁で、長さが180mほどであることから名づけられたものである。平均4mくらいの高さが残っており、川底部では石塁幅は9mほどある。外壁面の角度は75度前後である。
この川の中から今までに3個の礎石などが発見されており、川に近い場所に城門があったと考えられる。”
【写真左】百間石垣の位置を示した地図
大野城の北端部にあり、当時はこの位置が尤も海岸部(玄界灘)に近いため、重要な場所だったと思われる。
このためか、この区域では外周部の土塁とは別に、百間石垣を含めて東西にもう一つの土塁が配置されている。
また、南側も大宰府政庁があることから、二重の土塁が構築されている。
現地の説明板より・その2
“百間石垣
百間石垣は大野城の北の要(宇美口)に位置し、石垣の全長は150m以上あり城内最大の規模を誇ります。
石垣の大半は頑強な岩盤の上に構築され、裏込めに栗石を使用した透水性の高い断面構造をなし、石垣の南側には地下水を排出するための吐水口が設置されるなど、水に配慮した当時の技術の高さを窺い知ることができます。
【写真左】下流部から見たもの。
百間石垣は、この写真の右側にあるが、四王寺川の西(左)に道路が走り、さらにその左にはもう一つ別の「北石垣」もある。ただ、この日は雨が降っていたため滑りやすく、こちらの方は踏査していない。
昭和48年の水害によって、百間石垣の前を流れる川が氾濫、土砂崩れも重なり石垣は大きな被害を受けました。
復旧工事に併せ発掘調査を行ったところ、石垣の基礎や川の中から城門の礎石と考えられる石材が発見されました。平成13年度からは石垣の保存のために修理が始められ、この時行われた工事で中央の石垣の裏から版築状の盛土が発見されるなど新たな知見を得ることが出来ました。
ところが、平成15年7月の集中豪雨によって山林が崩壊、この土砂災害によって百間石垣は甚大な被害を受けます。工事は一時中断しましたが、復旧に取り組んだ結果、現在のような姿によみがえりました。
【写真左】中央部付近を下から見上げる。
切り立った崖に構築されている。登り口は上下両方から向かうことができるが、先ず上の方から向かう。
【写真左】上から見たもの
上手側から登り坂となっていくが、整備されているのは途中までとなっている。
【写真左】上部
右側側面に百間石垣が積み上げられている。
この付近は、中世城郭的定義でいえば、郭段に当たる個所で、平坦に仕上げられている。
【写真左】埋もれていた石垣
上部の方に設置されているもの
【写真左】さらに上に向かう
この辺りの石積みは施工が困難だったと思われる。
【写真左】上から側面部の石積みを見る。
あえてこうした急傾斜に石積みを施すことによって、より要害性を高めたのだろう。
【写真左】再び道路側から見る
【写真左】北石垣へ向かう階段
道路を挟んだ反対側にも石垣があるが、この日は向かっていない。
【写真左】羅沙門堂へ向かう分岐点
この付近は、大野城の西方にあたり、この先には「八ッ波建物群」と呼ばれる跡が残る。
前稿で紹介した高床式倉庫跡といわれる建物14棟の礎石が残っているというが、この日は時間がないため向かっていない。
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