筑前・岩屋城(ちくぜん・いわやじょう)・その1
●所在地 福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋
●築城期 不明(天文年間 1532~55ごろか)
●築城者 高橋鑑種
●城主 高橋氏
●高さ 標高281m(比高230m)
●遺構 郭・堀切等
●備考 大野城
●登城日 2013年2月3日
◆解説(参考文献『戦国九州三国志・学研』等)
岩屋城は、前稿まで紹介してきた古代朝鮮式山城・筑前大野城の城域南端部に築城された戦国期の山城で、九州における島津VS大友両軍における有名な「岩屋城の戦い」の激戦地となったところである。
【写真左】本丸跡に建つ岩屋城の石碑
この石碑は昭和30年に建立された。
現地の説明板より
“岩屋城跡(本丸跡)
岩屋城は16世紀半ば(戦国時代)宝満城の支城として豊後大友氏の武将高橋鑑種(あきたね)によって築かれた。
同12年彼は主家大友宗麟に叛き城を追われ、代って吉弘鎮理(しげまさ)(後の名将高橋紹運(じょううん))が城主となった。
紹運は天正14年(1586)九州制覇を目指す島津5万の大軍を迎え撃ち、激戦10余日、秀吉の援軍到着を待たず玉砕した。
太宰府市”
【写真左】岩屋城及び高橋紹運の墓の位置
この図は前稿まで紹介した大野城のものだが、岩屋城は大野城の南方大宰府口城門跡よりさらに南に下った位置にあり、さらにその下には高橋紹運の墓がある。
高橋紹運
天正15年(1587)に秀吉が九州を制圧する直前までの当地における版図は、概ね次の三将で支配されていた。
大野城(四王寺山)に登る車道があり、その途中から岩屋城に登る道がある。ただ、車で行くと、この道路付近には余り駐車スペースはないので、注意が必要。
駐車ができない場合は、もう少し上まで行った大宰府口城門に駐車場があるので、そこから歩いて下っていくとたどり着ける。
なお、大野城内の専用駐車場は時間制限があるようなので事前に時間を確認しておいた方がいい。
ところで、本ブログのサブタイトルにも載せている辞世の句、
“かばねをば 岩屋の苔に埋てぞ 雲井の空に 名をとどむべき”
は、この岩屋城で3~5万余の大軍で攻撃してきた島津軍に対し、わずか700余名の守備兵とともに、壮絶な戦いの末討死した城主・高橋紹運のものといわれている。
紹運は、当時「豊州三老」と呼ばれた大友義鎮の三家老の一人・吉弘鑑理(あきただ)を父として、天文17年(1548)に生まれた。幼名は千寿丸で、後に吉弘鎮理(しげまさ)と名乗った。紹運は晩年の出家後名乗った法名である。混乱を避けるため本稿では紹運で統一して紹介する。
【写真左】道路側にある登城口
ここから歩いて2,3分で本丸にたどり着ける。なお、この付近は本丸から南に下ると、のちほど紹介する紹運の墓地がある。この墓地も元は二の丸と伝えられている。
紹運が高橋を名乗ったのは、高橋家に養嗣子として入ったことによる。その前の高橋家当主は、高橋鑑種(あきたね)であったが、彼は主君であった大友氏に叛いて毛利氏や秋月氏に属し、反旗を翻したため、最後は大友氏に攻められ、降伏後豊前小倉に移された。そして、そのあと代わって、高橋家に入ったのが紹運である。
なお、鑑種自身も、もとは大友家一族であった一万田家の親敦の子で、のちに高橋家に養子に入っている。結果として、2代続けて高橋家は、養嗣子でつないだことになる。これは同家が筑前では名家であったことから、鑑種が小倉に移される際、家臣らは鑑種に随従することを拒み、高橋家の再興を熱心に大友宗麟に懇願した結果、宗麟が紹運を高橋家に養子の形として入ったためである。
【写真左】本丸跡・その1
本丸の東側の箇所で、奥には櫓台跡が残る。
本丸の規模はおよそ20m四方の大きさで、この下には腰郭が取付く。
さて、紹運はこの結果、岩屋・宝満両城の城督となり、もう一人の猛将で鬼道雪といわれた立花道雪(立花山城(福岡県新宮町・久山町・福岡市東区)参照)とともに大友宗麟を支えていくことになる。宗麟はこうして最盛期には豊前・豊後を含め九州北部の6カ国まで版図を拡大していった。
しかし、天正6年(1578)11月、宗麟が日向高城川において、島津軍と激突した「耳川の戦い」で敗れると、次第に勢威は衰え、北上してきた島津軍の攻撃を受けることになる。
【写真左】本丸跡・その2 櫓台付近
上述したように、奥には高さ約2m程度高くなった櫓台が残り、そのまま尾根筋を北に進むと、登城口付近にある堀切に至る。
また、さらにそのまま進むと大野城の大宰府口城門跡にたどり着く。
島津氏が攻めたてた時、北方からも侵入したといわれているので、戦国期はこの大野城の城域も、いわば再利用されたと思われる。
岩屋城の戦い
九州制圧にむけて島津軍は北上していくが、同軍の編隊は概ね二つのグループに分けられていた。
しかし、島津軍は一気に岩屋城攻撃はしなかった。というのも、僅か700余騎であった岩屋城を指揮していた紹運の武名の高さは島津方にも知られていたからである。しかも、その前段では、筑紫広門攻めにおいて、大軍を擁していた島津軍は、勝利したものの、当初の予想を大幅に超える負傷者を出していた。
【写真左】本丸下の郭・その1
東側から見たもので、右上の段が本丸に当たる。
岩屋城麓に着陣してから3日後の14日、島津軍は最初の攻撃を開始した。予想通り、紹運らの守備は堅牢で、緒戦において島津軍は多くの負傷者を出した。
その後何度か攻撃を繰り返しながら、22日になると、島津軍の援軍である宮崎衆が到来すると、岩屋城の外堀を埋め、また塀も崩し岩屋城攻めの体制を構築していった。そしてその頃、島津軍は総勢5万の大軍を整え、27日、ついに最後の総攻撃を開始した。
この結果、700余騎を従え驚異的な籠城戦を戦い抜いてきた名将・紹運も、最期は本丸にて討死した。
【写真左】岩屋城から宝満山城を遠望する。
紹運が岩屋城と併せて城督となった山城で、島津軍による岩屋城攻めの際、この城には紹運の嫡男・統虎(むねとら・のちの立花宗茂)が拠っていた。
島津軍の動きや勢力を周知していた紹運に対し、宗茂は再三宝満城に退くよう父・紹運に説得していたが、紹運はこれを拒否し、最期まで岩屋城で戦った。
●所在地 福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋
●築城期 不明(天文年間 1532~55ごろか)
●築城者 高橋鑑種
●城主 高橋氏
●高さ 標高281m(比高230m)
●遺構 郭・堀切等
●備考 大野城
●登城日 2013年2月3日
◆解説(参考文献『戦国九州三国志・学研』等)
岩屋城は、前稿まで紹介してきた古代朝鮮式山城・筑前大野城の城域南端部に築城された戦国期の山城で、九州における島津VS大友両軍における有名な「岩屋城の戦い」の激戦地となったところである。
【写真左】本丸跡に建つ岩屋城の石碑
この石碑は昭和30年に建立された。
現地の説明板より
“岩屋城跡(本丸跡)
岩屋城は16世紀半ば(戦国時代)宝満城の支城として豊後大友氏の武将高橋鑑種(あきたね)によって築かれた。
同12年彼は主家大友宗麟に叛き城を追われ、代って吉弘鎮理(しげまさ)(後の名将高橋紹運(じょううん))が城主となった。
紹運は天正14年(1586)九州制覇を目指す島津5万の大軍を迎え撃ち、激戦10余日、秀吉の援軍到着を待たず玉砕した。
太宰府市”
【写真左】岩屋城及び高橋紹運の墓の位置
この図は前稿まで紹介した大野城のものだが、岩屋城は大野城の南方大宰府口城門跡よりさらに南に下った位置にあり、さらにその下には高橋紹運の墓がある。
高橋紹運
天正15年(1587)に秀吉が九州を制圧する直前までの当地における版図は、概ね次の三将で支配されていた。
- 島津氏 勢力範囲 薩摩を本拠とする南地域
- 大友氏 勢力範囲 豊後を本拠とする北東部
- 龍造寺氏 勢力範囲 肥前を本拠とする北西部
このうち、今稿で取り上げる岩屋城の城主・高橋氏は当初大友氏の忠臣で、戸次(立花)氏とともに同氏を支えた一族である。
【写真左】岩屋城遠望大野城(四王寺山)に登る車道があり、その途中から岩屋城に登る道がある。ただ、車で行くと、この道路付近には余り駐車スペースはないので、注意が必要。
駐車ができない場合は、もう少し上まで行った大宰府口城門に駐車場があるので、そこから歩いて下っていくとたどり着ける。
なお、大野城内の専用駐車場は時間制限があるようなので事前に時間を確認しておいた方がいい。
ところで、本ブログのサブタイトルにも載せている辞世の句、
“かばねをば 岩屋の苔に埋てぞ 雲井の空に 名をとどむべき”
は、この岩屋城で3~5万余の大軍で攻撃してきた島津軍に対し、わずか700余名の守備兵とともに、壮絶な戦いの末討死した城主・高橋紹運のものといわれている。
紹運は、当時「豊州三老」と呼ばれた大友義鎮の三家老の一人・吉弘鑑理(あきただ)を父として、天文17年(1548)に生まれた。幼名は千寿丸で、後に吉弘鎮理(しげまさ)と名乗った。紹運は晩年の出家後名乗った法名である。混乱を避けるため本稿では紹運で統一して紹介する。
【写真左】道路側にある登城口
ここから歩いて2,3分で本丸にたどり着ける。なお、この付近は本丸から南に下ると、のちほど紹介する紹運の墓地がある。この墓地も元は二の丸と伝えられている。
紹運が高橋を名乗ったのは、高橋家に養嗣子として入ったことによる。その前の高橋家当主は、高橋鑑種(あきたね)であったが、彼は主君であった大友氏に叛いて毛利氏や秋月氏に属し、反旗を翻したため、最後は大友氏に攻められ、降伏後豊前小倉に移された。そして、そのあと代わって、高橋家に入ったのが紹運である。
なお、鑑種自身も、もとは大友家一族であった一万田家の親敦の子で、のちに高橋家に養子に入っている。結果として、2代続けて高橋家は、養嗣子でつないだことになる。これは同家が筑前では名家であったことから、鑑種が小倉に移される際、家臣らは鑑種に随従することを拒み、高橋家の再興を熱心に大友宗麟に懇願した結果、宗麟が紹運を高橋家に養子の形として入ったためである。
【写真左】本丸跡・その1
本丸の東側の箇所で、奥には櫓台跡が残る。
本丸の規模はおよそ20m四方の大きさで、この下には腰郭が取付く。
さて、紹運はこの結果、岩屋・宝満両城の城督となり、もう一人の猛将で鬼道雪といわれた立花道雪(立花山城(福岡県新宮町・久山町・福岡市東区)参照)とともに大友宗麟を支えていくことになる。宗麟はこうして最盛期には豊前・豊後を含め九州北部の6カ国まで版図を拡大していった。
しかし、天正6年(1578)11月、宗麟が日向高城川において、島津軍と激突した「耳川の戦い」で敗れると、次第に勢威は衰え、北上してきた島津軍の攻撃を受けることになる。
【写真左】本丸跡・その2 櫓台付近
上述したように、奥には高さ約2m程度高くなった櫓台が残り、そのまま尾根筋を北に進むと、登城口付近にある堀切に至る。
また、さらにそのまま進むと大野城の大宰府口城門跡にたどり着く。
島津氏が攻めたてた時、北方からも侵入したといわれているので、戦国期はこの大野城の城域も、いわば再利用されたと思われる。
岩屋城の戦い
九州制圧にむけて島津軍は北上していくが、同軍の編隊は概ね二つのグループに分けられていた。
- 西側ルート 島津忠長・伊集院忠棟隊 肥後八代で豊後と筑後へと分かれる
- 東側ルート 島津家久隊 日向から豊後へ北上し、一部は豊後・岡城で合流
このうち、岩屋城攻めに向かったのは、1、の西側ルートを北上してきた島津忠長・伊集院忠棟らである。
【写真左】本丸下の郭・その1
南から西にかけて本丸の下には腰郭が残る。
最大幅10m×長さ30m程度の規模で、さらにこの下にも郭があるかもしれないが、整備されていないため不明。
島津忠長らが筑前に侵入してきたのは、天正14年(1586)7月11日である。この時の兵力は約3万で、岩屋城南麓にあった大宰府は数日で占領された。【写真左】本丸下の郭・その1
南から西にかけて本丸の下には腰郭が残る。
最大幅10m×長さ30m程度の規模で、さらにこの下にも郭があるかもしれないが、整備されていないため不明。
しかし、島津軍は一気に岩屋城攻撃はしなかった。というのも、僅か700余騎であった岩屋城を指揮していた紹運の武名の高さは島津方にも知られていたからである。しかも、その前段では、筑紫広門攻めにおいて、大軍を擁していた島津軍は、勝利したものの、当初の予想を大幅に超える負傷者を出していた。
【写真左】本丸下の郭・その1
東側から見たもので、右上の段が本丸に当たる。
岩屋城麓に着陣してから3日後の14日、島津軍は最初の攻撃を開始した。予想通り、紹運らの守備は堅牢で、緒戦において島津軍は多くの負傷者を出した。
その後何度か攻撃を繰り返しながら、22日になると、島津軍の援軍である宮崎衆が到来すると、岩屋城の外堀を埋め、また塀も崩し岩屋城攻めの体制を構築していった。そしてその頃、島津軍は総勢5万の大軍を整え、27日、ついに最後の総攻撃を開始した。
この結果、700余騎を従え驚異的な籠城戦を戦い抜いてきた名将・紹運も、最期は本丸にて討死した。
【写真左】岩屋城から宝満山城を遠望する。
紹運が岩屋城と併せて城督となった山城で、島津軍による岩屋城攻めの際、この城には紹運の嫡男・統虎(むねとら・のちの立花宗茂)が拠っていた。
島津軍の動きや勢力を周知していた紹運に対し、宗茂は再三宝満城に退くよう父・紹運に説得していたが、紹運はこれを拒否し、最期まで岩屋城で戦った。
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