竹生島・宝巌寺(ちくぶしま・ほうごんじ)
●所在地 滋賀県長浜市早崎町
●面積 0.14㎢
●最高所 197.3m
●所在海域 琵琶湖
●寺社 宝厳寺・都久夫須麻神社等
●創建 伝・神亀元年(724)
●開基 伝・行基、聖武天皇(勅願)
●参拝日 2015年10月24日
◆解説(参考資料 宍道町史、HP『江のふるさと滋賀』等)
竹生島は琵琶湖の北に浮かぶ神秘の島として知られ、今風にいえばパワースポットとして多くの参拝者で賑わう。
2015年10月24日、玄蕃尾城(福井県敦賀市刀根)の登城を終え、南下し昼食は長浜港近くのホテルで湖北の名物「サバそうめん」を食べた。何度か北近江は探訪しているが、いつも山城登城を優先していたため、琵琶湖の湖岸道路を走るたびに、竹生島の姿が車中から見えていたものの探訪を保留していた。今回時間が取れたので、竹生島クルーズの一つ長浜航路(長浜港⇔竹生島往復)で向かうことにした。
【写真左】竹生島遠望
フェリーの桟橋から見たもの。
面積は僅か0.14㎢で、琵琶湖の中では沖島についで2番目に大きい島。この付近では水深70m前後と深い。恐らく湖底から見ると切り立った山に見えるだろう。
現地の説明板より
“宝厳寺弁才天堂 昭和17年建築
竹生島宝巌寺の本尊は「弁才天」。寺伝によると神亀元年(724)、聖武天皇が天照皇大神の神託により僧行基に勅命し弁才天を祀ったのが始まりと言います。本尊の弁才天像は、江戸時代まで島の東側の弁財天社(現、都久夫須麻神社本殿)に安置されていました。
しかし、明治時代の神仏分離によって弁財天社は都久夫須麻神社本殿と定められたため、明治4年(1871)、やむなく弁才天像は塔頭妙覚院(たっちゅうみょうかくいん)の仮堂に仮安置されました。以来66年間、弁才天堂の造営は未着手のまま時が流れましたが、昭和12年(1937)6月、ようやく起工式を執り行うまでに至りました。
【写真左】山本山城を遠望する。
フェリーの船上から撮ったもので、客室内部からガラス越しに撮ったため、反射して分かりずらいが、山本山城の姿が見えた。
山本山城の向背には浅井氏居城の小谷城が控える。
【写真左】小谷城から竹生島を遠望する。
2014年に登城した近江・小谷城から見たもので、竹生島を挟んで、東岸には山本山城、中島城、丁野山城などが配置する。
しかし、翌月には盧溝橋事件が発生。日中戦争が勃発し半ば事業も中止状態になってしまいます。この事態を憂慮した東京在住の事業家滝富太郎は、自ら再建局長の任に着き、広く篤志を募る一方、巨万の私財を投じ遂に昭和17年(1942)10月、太平洋戦争中にも拘わらず完成させたのが現在の弁才天堂です。なお、設計・監督は文部省の乾兼松。堂内の壁には、法隆寺金堂壁画模写事業の主任画家を務めた荒井寛方筆の飛天が描かれています。”
【写真左】竹生島が見えてきた。
この日利用した長浜航路(長浜港⇔竹生島港)では、乗船時間は30分程かかる。
出雲尼子氏の竹生島造営奉加帳
竹生島・宝厳寺の由来などは上掲した説明板にある通りであるが、戦国期には小谷城主・浅井長政の父・久政が、長政の家督相続をめぐって家臣団に一時幽閉されている。また、その後浅井氏を倒した織田信長が参詣したり、豊臣秀吉が亡くなったあと、秀頼が秀吉の霊廟の門を竹生島に寄進などしている。
【写真左】宝厳寺本堂に向かう。
竹生島にある主だった史跡としては、宝厳寺本堂(弁才天堂)・三重塔・宝物殿・観音堂・唐門・船廊下・都久夫須麻神社本殿、そしてかわらけ投げで有名な龍神拝所などがある。
狭い島の一角に集中して建てられているため、急勾配の階段が多い。
ところで、これらの出来事に先立つ天文年間、出雲の尼子氏が竹生島の社殿造営に関わり奉加していることが知られる。
【写真左】尼子氏の居城・月山富田城
南側から見たもの。
天文9年(1540)、竹生島の自尊上人は出雲の尼子氏のもとに向かった。目的は、勧進を依頼する、即ち寺院の改築費用を依頼するためであった。竹生島はこのころ浅井長政の祖父・亮政(小谷城・その1(滋賀県長浜市湖北町伊部)参照)が庇護につとめていた。おそらく、自尊上人は亮政に最初に相談に行き、亮政から勧進者の一人として、出雲尼子氏の名を挙げられたのだろう。
【写真左】浅井氏三代の墓
所在地 長浜市平方町872(徳勝寺境内)
参拝日 2016年6月29日
写真左から、長政、亮政、久政
浅井氏三代の墓が祀られている徳勝寺は、元は「医王寺」と号して東浅井郡湖北町上山田にあった。その後、永正15年(1518)、小谷城主浅井亮政が城下の清水谷に移して同家の菩提寺とした。
しかし、姉川の合戦で小谷城が落城し、豊臣秀吉が居城を長浜に移した際、文禄4年当院も長浜城内に移築、亮政の法号に因んで「徳勝寺」と改称。
慶長11年(1606)、内藤信成が長浜城主となったとき、一時田町(現朝日町)に移築、さらに寛文12年(1672)彦根藩主井伊直孝によって現在の地に移され今日に至っている。
亮政が出雲尼子氏の名を挙げた理由は、その4年前のことからも推察できる。すなわち、天文5年(1536)12月26日、尼子経久は備中・美作の戦況を近江の浅井亮政に報告(『江北記』)している。
以前にも述べたが、元々出雲尼子氏の主君は京極氏である。しかし、その後京極氏の没落と浅井氏の台頭によって、事実上出雲国の守護職は京極氏から浅井氏に代わっていた時期と考えられ、守護代であった尼子氏も守護職を浅井氏と位置付けていたものと思われる。
京極氏館跡(滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺)の稿でも紹介したように、出雲尼子氏と京極氏の繋がりは極めて強く、尼子経久が当時又四郎と名乗っていた少年期、同氏館周辺の北近江や京での生活が約5年間続いた。
この時期、京極氏の譜代家臣だったのが浅井氏である。又四郎(経久)が、同族(佐々木京極氏)であった主君京極氏や、同氏譜代家臣であった浅井氏と改めて強い絆を育んだことは想像に難くない。
【写真左】宝厳寺・本堂
二つの長い急傾斜の階段を登りきると、宝厳寺・本堂が現れる。
西国三十三所観音霊場・第三十番札所で、本尊は日本三弁才天の一つである弁才天(大弁才天)と千手観音。
さて、竹生島自尊上人の出雲尼子氏による勧進は、自尊の思惑通りにはいかなかった。
このため、尼子経久の孫・晴久は、天文11年閏3月29日付書状で、勧進の協力がうまくいかないことを詫びている。
これと併せて新宮党頭首尼子国久も、上人の長期逗留並びに帰国延引きを浅井氏に詫びている。結局、上人は天文9年の出雲入国から天文11年まで当地に留まっている。
【写真左】石造五重塔
宝厳寺の傍らには、鎌倉時代のものといわれる五重塔が建立されている。
五重塔で重要文化財の指定を受けているのは全国で7基しかなく、そのうちの一つで、材料となった石材は比叡山中から採石された小松石という。
この理由は、勧進の遅延もあっただろうが、尼子経久が天文10年(1541)11月3日に亡くなっているので、上人としても経久の葬儀や菩提を弔うなど予想外の出来事が生じたこともその一因かもしれない。
しかし、結果として尼子氏は一族・家臣ら併せて121名(又は117名)による奉加を竹生島へ納めている。因みに、日付は天文9年(1540)8月19日となっているが、前述したような経緯があったので、竹生島宝厳寺・社殿造営の行事日程を遵守するため、記録上はこの日とし、実際に金品が奉加されたのは、上人が竹生島に戻った天文11年のはじめごろではないかと考えられる。
【写真左】三重塔
建立されたのは1484年といわれるから、室町期の文明16年である。ただ、江戸時代初期に落雷で焼失したため、2000年に地元郷土史料「浅井郡誌」に基づき再建された。
【写真左】宝厳寺側から竹生島フェリー乗り場を見る。
ご覧の通り急傾斜の階段である。
【写真左】唐門・観音堂
国宝となっている唐門や、観音堂は残念ながらこの日探訪したときは改修工事で内部の一部は見えたが、全体は見ることは出来なかった。
【写真左】船廊下の懸造り
観音堂と都久夫須麻神社を結ぶ廊下で、写真はその下にある懸造り(崖造り)。
【写真左】桟橋から見る。
奥の最高所に三重塔や宝物殿が見え、その下に改修中の唐門・観音堂などの建物が見える。
【写真左】龍神拝所先端部
かわらけ投げの尖端部にあたるが、写真左上隅に拝所が見え、その右下に的となる鳥居が見える。
●所在地 滋賀県長浜市早崎町
●面積 0.14㎢
●最高所 197.3m
●所在海域 琵琶湖
●寺社 宝厳寺・都久夫須麻神社等
●創建 伝・神亀元年(724)
●開基 伝・行基、聖武天皇(勅願)
●参拝日 2015年10月24日
◆解説(参考資料 宍道町史、HP『江のふるさと滋賀』等)
竹生島は琵琶湖の北に浮かぶ神秘の島として知られ、今風にいえばパワースポットとして多くの参拝者で賑わう。
2015年10月24日、玄蕃尾城(福井県敦賀市刀根)の登城を終え、南下し昼食は長浜港近くのホテルで湖北の名物「サバそうめん」を食べた。何度か北近江は探訪しているが、いつも山城登城を優先していたため、琵琶湖の湖岸道路を走るたびに、竹生島の姿が車中から見えていたものの探訪を保留していた。今回時間が取れたので、竹生島クルーズの一つ長浜航路(長浜港⇔竹生島往復)で向かうことにした。
【写真左】竹生島遠望
フェリーの桟橋から見たもの。
面積は僅か0.14㎢で、琵琶湖の中では沖島についで2番目に大きい島。この付近では水深70m前後と深い。恐らく湖底から見ると切り立った山に見えるだろう。
現地の説明板より
“宝厳寺弁才天堂 昭和17年建築
竹生島宝巌寺の本尊は「弁才天」。寺伝によると神亀元年(724)、聖武天皇が天照皇大神の神託により僧行基に勅命し弁才天を祀ったのが始まりと言います。本尊の弁才天像は、江戸時代まで島の東側の弁財天社(現、都久夫須麻神社本殿)に安置されていました。
しかし、明治時代の神仏分離によって弁財天社は都久夫須麻神社本殿と定められたため、明治4年(1871)、やむなく弁才天像は塔頭妙覚院(たっちゅうみょうかくいん)の仮堂に仮安置されました。以来66年間、弁才天堂の造営は未着手のまま時が流れましたが、昭和12年(1937)6月、ようやく起工式を執り行うまでに至りました。
【写真左】山本山城を遠望する。
フェリーの船上から撮ったもので、客室内部からガラス越しに撮ったため、反射して分かりずらいが、山本山城の姿が見えた。
山本山城の向背には浅井氏居城の小谷城が控える。
【写真左】小谷城から竹生島を遠望する。
2014年に登城した近江・小谷城から見たもので、竹生島を挟んで、東岸には山本山城、中島城、丁野山城などが配置する。
しかし、翌月には盧溝橋事件が発生。日中戦争が勃発し半ば事業も中止状態になってしまいます。この事態を憂慮した東京在住の事業家滝富太郎は、自ら再建局長の任に着き、広く篤志を募る一方、巨万の私財を投じ遂に昭和17年(1942)10月、太平洋戦争中にも拘わらず完成させたのが現在の弁才天堂です。なお、設計・監督は文部省の乾兼松。堂内の壁には、法隆寺金堂壁画模写事業の主任画家を務めた荒井寛方筆の飛天が描かれています。”
【写真左】竹生島が見えてきた。
この日利用した長浜航路(長浜港⇔竹生島港)では、乗船時間は30分程かかる。
出雲尼子氏の竹生島造営奉加帳
竹生島・宝厳寺の由来などは上掲した説明板にある通りであるが、戦国期には小谷城主・浅井長政の父・久政が、長政の家督相続をめぐって家臣団に一時幽閉されている。また、その後浅井氏を倒した織田信長が参詣したり、豊臣秀吉が亡くなったあと、秀頼が秀吉の霊廟の門を竹生島に寄進などしている。
竹生島にある主だった史跡としては、宝厳寺本堂(弁才天堂)・三重塔・宝物殿・観音堂・唐門・船廊下・都久夫須麻神社本殿、そしてかわらけ投げで有名な龍神拝所などがある。
狭い島の一角に集中して建てられているため、急勾配の階段が多い。
ところで、これらの出来事に先立つ天文年間、出雲の尼子氏が竹生島の社殿造営に関わり奉加していることが知られる。
【写真左】尼子氏の居城・月山富田城
南側から見たもの。
天文9年(1540)、竹生島の自尊上人は出雲の尼子氏のもとに向かった。目的は、勧進を依頼する、即ち寺院の改築費用を依頼するためであった。竹生島はこのころ浅井長政の祖父・亮政(小谷城・その1(滋賀県長浜市湖北町伊部)参照)が庇護につとめていた。おそらく、自尊上人は亮政に最初に相談に行き、亮政から勧進者の一人として、出雲尼子氏の名を挙げられたのだろう。
【写真左】浅井氏三代の墓
所在地 長浜市平方町872(徳勝寺境内)
参拝日 2016年6月29日
写真左から、長政、亮政、久政
浅井氏三代の墓が祀られている徳勝寺は、元は「医王寺」と号して東浅井郡湖北町上山田にあった。その後、永正15年(1518)、小谷城主浅井亮政が城下の清水谷に移して同家の菩提寺とした。
しかし、姉川の合戦で小谷城が落城し、豊臣秀吉が居城を長浜に移した際、文禄4年当院も長浜城内に移築、亮政の法号に因んで「徳勝寺」と改称。
慶長11年(1606)、内藤信成が長浜城主となったとき、一時田町(現朝日町)に移築、さらに寛文12年(1672)彦根藩主井伊直孝によって現在の地に移され今日に至っている。
亮政が出雲尼子氏の名を挙げた理由は、その4年前のことからも推察できる。すなわち、天文5年(1536)12月26日、尼子経久は備中・美作の戦況を近江の浅井亮政に報告(『江北記』)している。
以前にも述べたが、元々出雲尼子氏の主君は京極氏である。しかし、その後京極氏の没落と浅井氏の台頭によって、事実上出雲国の守護職は京極氏から浅井氏に代わっていた時期と考えられ、守護代であった尼子氏も守護職を浅井氏と位置付けていたものと思われる。
京極氏館跡(滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺)の稿でも紹介したように、出雲尼子氏と京極氏の繋がりは極めて強く、尼子経久が当時又四郎と名乗っていた少年期、同氏館周辺の北近江や京での生活が約5年間続いた。
この時期、京極氏の譜代家臣だったのが浅井氏である。又四郎(経久)が、同族(佐々木京極氏)であった主君京極氏や、同氏譜代家臣であった浅井氏と改めて強い絆を育んだことは想像に難くない。
【写真左】宝厳寺・本堂
二つの長い急傾斜の階段を登りきると、宝厳寺・本堂が現れる。
西国三十三所観音霊場・第三十番札所で、本尊は日本三弁才天の一つである弁才天(大弁才天)と千手観音。
さて、竹生島自尊上人の出雲尼子氏による勧進は、自尊の思惑通りにはいかなかった。
このため、尼子経久の孫・晴久は、天文11年閏3月29日付書状で、勧進の協力がうまくいかないことを詫びている。
これと併せて新宮党頭首尼子国久も、上人の長期逗留並びに帰国延引きを浅井氏に詫びている。結局、上人は天文9年の出雲入国から天文11年まで当地に留まっている。
【写真左】石造五重塔
宝厳寺の傍らには、鎌倉時代のものといわれる五重塔が建立されている。
五重塔で重要文化財の指定を受けているのは全国で7基しかなく、そのうちの一つで、材料となった石材は比叡山中から採石された小松石という。
この理由は、勧進の遅延もあっただろうが、尼子経久が天文10年(1541)11月3日に亡くなっているので、上人としても経久の葬儀や菩提を弔うなど予想外の出来事が生じたこともその一因かもしれない。
しかし、結果として尼子氏は一族・家臣ら併せて121名(又は117名)による奉加を竹生島へ納めている。因みに、日付は天文9年(1540)8月19日となっているが、前述したような経緯があったので、竹生島宝厳寺・社殿造営の行事日程を遵守するため、記録上はこの日とし、実際に金品が奉加されたのは、上人が竹生島に戻った天文11年のはじめごろではないかと考えられる。
【写真左】三重塔
建立されたのは1484年といわれるから、室町期の文明16年である。ただ、江戸時代初期に落雷で焼失したため、2000年に地元郷土史料「浅井郡誌」に基づき再建された。
【写真左】宝厳寺側から竹生島フェリー乗り場を見る。
ご覧の通り急傾斜の階段である。
【写真左】唐門・観音堂
国宝となっている唐門や、観音堂は残念ながらこの日探訪したときは改修工事で内部の一部は見えたが、全体は見ることは出来なかった。
【写真左】船廊下の懸造り
観音堂と都久夫須麻神社を結ぶ廊下で、写真はその下にある懸造り(崖造り)。
【写真左】桟橋から見る。
奥の最高所に三重塔や宝物殿が見え、その下に改修中の唐門・観音堂などの建物が見える。
【写真左】龍神拝所先端部
かわらけ投げの尖端部にあたるが、写真左上隅に拝所が見え、その右下に的となる鳥居が見える。
0 件のコメント:
コメントを投稿