2015年2月13日金曜日

越前・大野城(福井県大野市城町)

越前・大野城(えちぜん・おおのじょう)

●所在地 福井県大野市城町
●指定 県指定史跡
●高さ 249m(比高90m)
●築城期 天正3年(1575)
●築城者 金森長近
●城主 金森氏・松平氏・土井氏など
●城郭構造 梯郭式平山城
●天守構造 複合連結式二重2階
●遺構 石垣・堀など
●登城日 2014年6月17日
 
◆解説
 越前・大野城(以下「大野城」とする)は、以前取り上げた平泉寺白山神社(福井県勝山市平泉寺町平泉寺56河上)から南西に約10キロ向かった越前大野市にあって、復元された天守を持つ近世城郭である。
【写真左】越前・大野城遠望
 北西麓側から見たもの。かなり離れた場所から撮ったものだが、小さいながらも天守が確認できる。



 現地の説明板より

“金森長近
 織田信長の部将です。軍功により天正3年(1575)に信長から大野郡の3分の2を与えられ、越前大野城を築城しました。
 越前大野城は平山城の形式で、亀山の山頂に本丸が置かれ、亀山の東麓に二の丸や三の丸、内堀や外堀が配されました。
 また長近は、城下町の建設も行い、亀山の東側に今の町割りの木曽となる街路や水路を整備しました。
 本能寺の変後、豊臣秀吉に仕え、天正14年(1586)、飛騨国を与えられ、大野から飛騨高山へと移り、その地で再び城と城下町を建設しました。”
【写真左】亀山公園(大野城)案内図
 大野城は南西側から北東部に向かって細長い小山・亀山に築かれている。
 登城口は、この日登城口とした「南登り口」と、「西登り口」、「北登り口」の3か所ある。
 なお、東麓部には武家屋敷跡や藩主隠居跡などがあるようだが、これらについては当日探訪していない。



天空の城・越前大野城

 このところ、但馬竹田城が「天空の城」として有名になり、急激に多くの観光客が訪れるようになったが、この越前大野城もまた「天空の城」と呼ばれるようになった。当城は但馬竹田城とは違って、雲の上に天守閣が聳えるものである。
【写真左】「南登り口」付近
 大野城の規模は、面積約11.4haで、東斜面は急斜面が多い。







 標高249mで、比高は80~90mとさほど高くないが、他のサイトで紹介している雲海の中に浮かんだ当城の姿は、天守を見せていることもあって、但馬竹田城とはまた別の趣がある。
 ただ、この雲海が姿を見せる時期は一年のうちでも11月ごろに限られているようで、管理人が訪れたこの時期(6月)などは無理のようだ。
【写真左】百間坂
 江戸期、大野藩の家臣達が本丸に向かう際、使われた坂で、写真の右側の道。
 今でも使用できるが、傾斜や階段が多いため、この反対側の整備された道(明治時代以降に造られた)を進む。(下の写真参照)


金森長近

 築城者は信長の家臣であった金森長近である。美濃土岐氏の庶流とされる大畑氏が、近江国野洲郡金森(現・守山市金森)に居を構え、当地名から金森を名乗ったのに始まるという。長近の父金森宗近が18歳になったとき、近江を離れ、尾張の織田信長の父・信秀に仕え、その後息子長近も信秀から信長へと仕えた。
【写真左】南側の道
 ブロックなどで整備された道だが、一般の者は車などでは通れない。右側の石積も近代になって改修されたもののようだ。

 なお、この日城内を何度もウオーキングしている人たちがいたが、高低差がかなりあるのでいい運動になるだろう。



 多くの戦歴を持つ武将で、特に天正3年(1575)、越前の一向一揆を降したあと、その武功が認められ、当地大野郡の3分の2を与えられた。
 信長亡き後は、賤ヶ岳の戦いとなったとき、柴田勝家に属していたが、途中から前田利家らと共に秀吉に従うことになり、天正13年(1584)の佐々成政らによる「富山の役」において、成政方だった飛騨の三木自綱を下し、その後飛騨3万3千石で越前大野城から、飛騨高山へと転封された。
【写真左】「大野丸」のレリーフ
 登城道の途中には、江戸末期に建造された帆船「大野丸」のレリーフが建立されている。

説明板より

“大野丸

 旧大野藩主土井利忠は早くから北辺開発の雄図を抱き、安政3年(1856)内山隆佐らに蝦夷地を探検させ、同5年幕府の許可を得て、サハリン(樺太)の開拓に従事した。

 北海は風波が荒く、丈夫な船でなければ通航が自在でないので、武蔵国羽田において、2本マストの西洋型帆船を造らせた。
【写真左】土井利忠像
 南側登城道の南端部に差し掛かると、幕末期の藩主土井利忠の像が建立されている。


 船は安政5年6月に竣工し、大野丸と名付けられた。長さ18間(約32.4m)、幅4間(約7.2m)深さ3間(約5.4m)。乗員は30名であった。同年8月吉田拙蔵が船長となり、神戸、下関を経て敦賀に回航されたが、各地から来観するものが多く、賞賛のまととなった。
 大野丸は、安政6年3月から敦賀蝦夷地間を往来し、早川弥三左衛門らの力もあずかって、開拓の事業は大いに進展した。
 同年8月には、奥尻洋で座礁したアメリカ船を救い、幕府の褒賞と米国の感謝を受けた。
 元治元年(1864)8月、根室沖で遭難した大野丸は、建造後6年有半で惜しくも沈没した。”
【写真左】尾根南端部から本丸方面を見る。
 ここから北東方向に伸びる尾根が続き、その方向に向かうと本丸に至る。
【写真左】北側の休憩所付近
 本丸の東側に北東に向かって道が伸び、一旦この休憩所までくると、ここから向きを変えて南西方向に向かって少し坂道が続く。この道を進むと本丸に至る。
 右側には「越前大野城」と刻銘された石碑が建つ。
【写真左】金森長近像
 休憩所付近には築城者であった金森長近の像が建立されている。
 出家している姿だが、これは柴田勝家が賤ヶ岳で敗れると、秀吉に降伏した際、剃髪したといわれている。

 それにしても異常に頭が大きく、胴体と比べるとアンバランスに見える。
【写真左】大野城天守
説明板より

“越前大野城跡(福井県指定史跡)

 越前大野城跡は、大野盆地の西側い位置する標高約250mと、その東側に縄張を持つ平山城跡です。織田信長の部将・金森長近により天正年間(1573~93)の前半に築城されました。

 越前大野城は亀山を利用し、外堀・内堀をめぐらし石垣を組み、天守閣を構えるという中世の山城にはみられなかった新しい方式の城でした。

 江戸時代の絵図には、本丸に望楼付き2層3階の小天守・天狗櫓などが描かれています。本丸の石垣は、自然石をほとんど加工しないで積み上げる「野面積み」といわれるものです。
 江戸時代には町の大火により、城も幾度か類焼し、安永4年(1775)には本丸も焼失しましたが、寛政7年(1795)に再建されました。廃藩後、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残されました。”
【写真左】野面積み
 大阪城などに使われているような大きな石はないが、この工法は水はけが非常によく、堅固な造りだとされている。
【写真左】天守に向かう階段付の坂
【写真左】虎口
 上の坂道とは別に、西側に設けられたもので、山城的には食違い虎口の形態か。
【写真左】権現宮跡
 天守に入る前の郭段に権現宮という祠があったようだ。
【写真左】大野城から戌山城(いぬやまじょう)を見る。
 天守閣から西方1キロに戌山(犬山)城が見える。

 康暦の政変(土居構(愛媛県西条市中野日明)参照)で細川氏を放逐した斯波義将が、畠山氏の越中守護職と交換し、越前守護職を得た際、義将は弟の義種に大野郡を任せた。そして、義種は犬山にこの戌山城を築城した。
 その後、朝倉氏の時代になると殆ど使われていなかったが、金森長近が大野城を築城する前、短期間居城としていたという。

 管理人は登城していないが、サイト「城郭放浪記」さんの写真を見ると、見ごたえのある遺構が残っているようだ。この近くに登ると、「天空の城・大野城」が見られるらしい。標高324m。比高160m。
【写真左】大野城から朝倉義景の墓を遠望する。
 南麓には次稿で予定している「朝倉義景の墓」が見える。
【写真左】東方を俯瞰する。
 奥の山並みを超えると岐阜県の郡上市に至る。
【写真左】北方を俯瞰する。
 大野城の東方を横断する大河・九頭竜川が右手に流れているが、この川を下ると、平泉寺白山神社(福井県勝山市平泉寺町平泉寺56河上)などがある勝山市に繋がる。

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