黒谷・横山城(くろたに・よこやまじょう)
●所在地 島根県益田市柏原町
●築城期 鎌倉~南北朝期
●築城者 菖蒲五郎真盛(実盛)、波多野彦次郎、波多野彦三郎
●城主 波多野彦六郎等
●標高 350m
●比高 210m
●指定 益田市指定文化財
●登城日 2010年1月16日
◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」「日本城郭大系第14巻」その他)
前稿嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)でも少し紹介したとおり、当城も特に南北朝期、激しい戦いが繰り広げられた山城である。横山城または、黒谷城と呼ぶ。
所在地は現在の柏原町としているが、西側の桂平町、南の愛栄町に挟まれた東西に伸びる峰を利用した城砦である。
【写真左】黒谷横山城遠望
北西麓の桂平小学校付近から見たもの。
現地の説明板より
“益田市指定文化財
史跡 横山城跡
指定 昭和50年4月21日
横山城は、標高350mの山頂に築かれた中世の山城です。本丸は全長67m、幅16mの平坦地で、本丸の東端には5段の空堀が残り、本丸の南斜面には全長67m、幅3~6mの帯状の二ノ丸があり、厩(うまや)の段と称されています。
この城は、鎌倉時代に幕府から美濃地・黒谷地頭に任命され、関東から下ってきた菖蒲(しょうぶ)五郎真盛(実盛)が築城したと考えられていますが、定かではありません。
【写真左】登城口付近
南側の道からあがった峠付近になる。
この位置に、「山頂まで233m」という案内が設置してある。
この脇に車2台分程度の駐車スペースが確保されている。
南北朝時代には、南朝方と北朝方の間で、またその後は、益田氏と津和野の吉見氏が美濃地・黒谷の領有をめぐって当城の争奪を繰り返しました。
安土桃山時代には、完全に益田氏の支配下に置かれましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れた益田元祥が、須佐に移ると、時の城主喜島(きじま)備後守宗勝も、長門国市見に移り、横山城は廃城となりました。
平成17年3月 益田市教育委員会”
【左図】黒谷横山城の図(「益田市誌・上巻」より転載)
この図では、左が東で、右が西となる。
現在、桂平町の南にある金ヶ峠より分岐し、北の野中地区に向かう途中の道から、黒谷城南麓を通り、東の大久保地区に向かう道が整備されている(ただし車1台分の幅員)。
比高210mとしているが、これは北麓の桂平町からの登山道からの設定で、上記のルート(南麓)を使えば、比高は100m弱となる。
当地・美濃地黒谷に地頭として入った菖蒲(波多野)氏については、貞応元年(1222)とされている(益田市誌上巻)ので、いわゆる承久の乱による論功行賞によるものだろう。
萩閥益田家文書に下記のものが見える。
“菖蒲五郎真盛自関東所給預也
但於未知福地地頭職者、雖被載于御下文、先度他人給之事、可令存其旨之状如件。
貞応元年(1222)九月十八日
武蔵守 平判(北条泰時)
相模守 平判(北条時房)”
【写真左】登城路
登城口から、東の方に向かって斜めに登るコースが造られている。ほとんど直線だが、傾斜はさほどなく、歩きやすい。
ところで、この黒谷横山城から北へ約3キロ向かったところに、横尾という地区がある。この地区には横尾墓の台と呼ぶ田圃の中に、「横尾右衛門 法名黒谷院殿請求大居士の墓」というのがあり、彼をこの土地の開拓始祖とし、田中明神として尊崇しているという。
「益田市誌・上巻」では、彼が没した時期が嘉暦元年(1225)であることから、菖蒲五郎真盛とは、この横尾右衛門のことではないかとしている。
この墓は探訪していないが、黒谷横山城の北麓を流れる上黒谷川を挟んで、北方にある上黒谷や美濃地にかけては、この外に原城(黒周 原 H160m)、朝柄山城(有福城:黒周 H220m)、美濃地城(桜田城:美濃地 H145m)もあり、横尾右衛門が菖蒲五郎真盛でないとしても、これら三城の城主と関わりがあった武将と思われる。
【写真左】登城到達地点に見える堀切
上掲した図で示された、本丸と二ノ丸の間にある堀切で、この写真では左側に本丸が造られている。
さて、これまで石見における南北朝争乱については、度々関係した諸城でとりあげてきたが、大雑把な時系列でいえば、建武2年(1335)から康永2年(1343)の約9年間がもっとも激しい戦いのあった時期といえる。
黒谷・横山城の戦い
「久利家文書」に、以下のような記録が見える。
その日の10日から11日の2日間、頼兼の旗下にあった吉川経明らの軍と山の手において激戦に及んだ(吉川家什書)。
「日本城郭大系第14巻」によれば、宮方であった城主・波多野彦六郎が敗れ、当城は北朝方(武家方)の将・石見守護上野頼兼の手におちたとある。宮方軍のうち、波多野彦六郎が先にこの黒谷城に拠っていたことになる。
翌年の建武4年には、しかし宮方軍が一旦挽回するものの、その年の後半と思われるが、再び北朝軍が奪回している。
【写真左】本丸跡に建つ「喜島備後守追悼の碑」
この脇に石塔があり、次のように記されている。
“記
此の喜島備後守追悼之碑は、昭和17年5月10日、発起人大石要吉氏が建立経費三百二十円外諸経費一切を負担し建立した。
昭和60年6月吉日 大石敏登、青木義友 之建”
室町期の黒谷
その後、室町期に入ると次のような動きが記されているが、複数の史料で差異がみられる。
「益田市誌・上巻」によると、黒谷の地に菖蒲氏が入部してから、180年後の応永9年(1402)、時の七尾城主・益田兼世が周防入道大内源征との契約によって、黒谷の地頭を兼ねた(益田兼明蔵「本宗益田家系図」)、とあるが、「益田家文書」では、時期がこれより下る。すなわち、
応永12年(1405)1月5日付で、
“石見守護・山名氏利が、益田兼世に石見国長野荘内黒谷郷の地頭職を安堵する。”
とある。
さらに、応永18年(1411)、黒谷は13代益田秀兼の弟・氏秀が所有した。氏秀は彦次郎氏兼と称し、波多野姓を名乗った、とあるが、これも、益田家文書では、その時期は逆にさかのぼった応永14年(1407)12月11日とし、
“石見国守護・山名氏利、益田兼家に石見国の所領を、波多野氏秀に長野荘内黒谷郷の地頭職を安堵し、兼家の公田に段銭を課すことを許可する。”
とある。
【写真左】本丸北面
本丸の西端部から、北東方面を望んだもので、中央奥に益田市街地、及び日本海が望める。
なお、当城の本丸北面は全体に切崖になっており、吉見氏側が拠った場合には、北東から攻めてくる益田氏に対して有利になるが、益田氏が拠った場合には、南側は切崖が少ないので、不利になっただろうと思われる。
波多野氏
ところで、黒谷城に関わってきた波多野氏については、敵味方にそれぞれ存在している。
応永18年、益田秀兼の弟・氏秀がのちに波多野姓を名乗ったとあるが、益田氏や吉見氏のどちらかが、領有してきても、当城の城主は波多野氏となっているふしがある。
このことから想像すると、断片的な記録しかないため、断言はできないが、黒谷横山城をめぐっては、相当早くから波多野氏一族内で、益田派と、吉見派に分裂していたのではないだろうか。そして、最後の応永18年には、同氏の嗣子が途絶えたか、あるいは、益田氏が半ば強制的に支配し、同氏へ養子として入ったのではないだろうか。
【写真左】本丸南下の郭
整備されていないので、状況は分かりづらいが、幅5m、長径20m程度だろうか。本丸との高低差は5m程度だろう。
なお、この日登城した登城路の途中にも、不揃いながら、郭が数カ所点在していたが、遺構としてまとまっているのは頂部である本丸・二ノ丸付近が多い。
さて、このような状態で益田氏と吉見氏の抗争が続く。最終的に当城が益田氏の支配に落ち着いたのは、文明6年(1474)7月の足利義政の袖判御教による。その主な内容は、益田貞兼に石見国長野荘高津など七郷の地頭職等を安堵する(萩閥7)、というものである。
【写真左】本丸西端から本丸を見る
石碑が建っている個所が主郭部分であるが、その位置から西端まではおよそ50m程度ある。その先端部は伐採されていないが、切崖状態に見えた。
なお、石碑の先に登ってきた堀切が2段にくまれ、その先東方へ向かって長い二ノ丸が続く。
戦国期
戦国期以降については、天正年間、益田元祥の命によって、下黒谷城(原城:黒谷城より北方3キロにあった山城)の城主藤原宗秀の孫・宗勝が城主となり、後に宗勝は喜島(きじま)氏を名乗っている。
関ヶ原の戦いでは、益田元祥(毛利方)に従い、敗れた後、元祥に随従したまま当城を離れたため、廃城となった。
【写真左】本丸から南方に津和野方面を見る。
眺望がこれだけ良好であることを考えると、いかに両者(益田氏・吉見氏)が当城を確保したかったか、よくわかる。
【写真左】本丸から北方を見る。
北麓の上黒谷町となるが、中央部に先鋒した山が浄土寺山(250m)で、その手前の中腹部に先述した原城があり、右側峰奥には朝柄山城(220m)がある。
なお、この写真の左側は山口県になる。
【写真左】馬場跡か
本丸下の二段の堀切を抜けて東方に進んでいくと、二ノ丸になる。全体に痩せ尾根ながら、長さは数百メートルと長大だ。
郭としては300m程度までだが、仏峠といわれる個所直前までの鞍部が城域として使用されたと考えられる。
この写真は平坦面の精度がよい個所で、50m程度確保されていた。おそらく馬場跡だったのだろう。
【写真左】途中に見えた尖った岩
二ノ丸は痩せ尾根個所が多く、南北にわたって切崖個所が長く伸びている。
この写真は北側の個所だが、この上から落ちたらひとたまりもない。
まさに天険の要害である。
なお、二ノ丸をさらに東方に下って行くと、おそらく上図に示した北側からの登山口に向かうと思われる。
●所在地 島根県益田市柏原町
●築城期 鎌倉~南北朝期
●築城者 菖蒲五郎真盛(実盛)、波多野彦次郎、波多野彦三郎
●城主 波多野彦六郎等
●標高 350m
●比高 210m
●指定 益田市指定文化財
●登城日 2010年1月16日
◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」「日本城郭大系第14巻」その他)
前稿嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)でも少し紹介したとおり、当城も特に南北朝期、激しい戦いが繰り広げられた山城である。横山城または、黒谷城と呼ぶ。
所在地は現在の柏原町としているが、西側の桂平町、南の愛栄町に挟まれた東西に伸びる峰を利用した城砦である。
【写真左】黒谷横山城遠望
北西麓の桂平小学校付近から見たもの。
現地の説明板より
“益田市指定文化財
史跡 横山城跡
指定 昭和50年4月21日
横山城は、標高350mの山頂に築かれた中世の山城です。本丸は全長67m、幅16mの平坦地で、本丸の東端には5段の空堀が残り、本丸の南斜面には全長67m、幅3~6mの帯状の二ノ丸があり、厩(うまや)の段と称されています。
この城は、鎌倉時代に幕府から美濃地・黒谷地頭に任命され、関東から下ってきた菖蒲(しょうぶ)五郎真盛(実盛)が築城したと考えられていますが、定かではありません。
【写真左】登城口付近
南側の道からあがった峠付近になる。
この位置に、「山頂まで233m」という案内が設置してある。
この脇に車2台分程度の駐車スペースが確保されている。
南北朝時代には、南朝方と北朝方の間で、またその後は、益田氏と津和野の吉見氏が美濃地・黒谷の領有をめぐって当城の争奪を繰り返しました。
安土桃山時代には、完全に益田氏の支配下に置かれましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに敗れた益田元祥が、須佐に移ると、時の城主喜島(きじま)備後守宗勝も、長門国市見に移り、横山城は廃城となりました。
平成17年3月 益田市教育委員会”
【左図】黒谷横山城の図(「益田市誌・上巻」より転載)
この図では、左が東で、右が西となる。
現在、桂平町の南にある金ヶ峠より分岐し、北の野中地区に向かう途中の道から、黒谷城南麓を通り、東の大久保地区に向かう道が整備されている(ただし車1台分の幅員)。
比高210mとしているが、これは北麓の桂平町からの登山道からの設定で、上記のルート(南麓)を使えば、比高は100m弱となる。
当地・美濃地黒谷に地頭として入った菖蒲(波多野)氏については、貞応元年(1222)とされている(益田市誌上巻)ので、いわゆる承久の乱による論功行賞によるものだろう。
萩閥益田家文書に下記のものが見える。
“菖蒲五郎真盛自関東所給預也
但於未知福地地頭職者、雖被載于御下文、先度他人給之事、可令存其旨之状如件。
貞応元年(1222)九月十八日
武蔵守 平判(北条泰時)
相模守 平判(北条時房)”
【写真左】登城路
登城口から、東の方に向かって斜めに登るコースが造られている。ほとんど直線だが、傾斜はさほどなく、歩きやすい。
ところで、この黒谷横山城から北へ約3キロ向かったところに、横尾という地区がある。この地区には横尾墓の台と呼ぶ田圃の中に、「横尾右衛門 法名黒谷院殿請求大居士の墓」というのがあり、彼をこの土地の開拓始祖とし、田中明神として尊崇しているという。
「益田市誌・上巻」では、彼が没した時期が嘉暦元年(1225)であることから、菖蒲五郎真盛とは、この横尾右衛門のことではないかとしている。
この墓は探訪していないが、黒谷横山城の北麓を流れる上黒谷川を挟んで、北方にある上黒谷や美濃地にかけては、この外に原城(黒周 原 H160m)、朝柄山城(有福城:黒周 H220m)、美濃地城(桜田城:美濃地 H145m)もあり、横尾右衛門が菖蒲五郎真盛でないとしても、これら三城の城主と関わりがあった武将と思われる。
上掲した図で示された、本丸と二ノ丸の間にある堀切で、この写真では左側に本丸が造られている。
さて、これまで石見における南北朝争乱については、度々関係した諸城でとりあげてきたが、大雑把な時系列でいえば、建武2年(1335)から康永2年(1343)の約9年間がもっとも激しい戦いのあった時期といえる。
黒谷・横山城の戦い
「久利家文書」に、以下のような記録が見える。
- 建武3年・延元元年(1336)5月12日付で、赤波朝房が石見国上黒谷城での軍忠状を上野頼兼に提出する。
その日の10日から11日の2日間、頼兼の旗下にあった吉川経明らの軍と山の手において激戦に及んだ(吉川家什書)。
「日本城郭大系第14巻」によれば、宮方であった城主・波多野彦六郎が敗れ、当城は北朝方(武家方)の将・石見守護上野頼兼の手におちたとある。宮方軍のうち、波多野彦六郎が先にこの黒谷城に拠っていたことになる。
翌年の建武4年には、しかし宮方軍が一旦挽回するものの、その年の後半と思われるが、再び北朝軍が奪回している。
【写真左】本丸跡に建つ「喜島備後守追悼の碑」
この脇に石塔があり、次のように記されている。
“記
此の喜島備後守追悼之碑は、昭和17年5月10日、発起人大石要吉氏が建立経費三百二十円外諸経費一切を負担し建立した。
昭和60年6月吉日 大石敏登、青木義友 之建”
室町期の黒谷
その後、室町期に入ると次のような動きが記されているが、複数の史料で差異がみられる。
「益田市誌・上巻」によると、黒谷の地に菖蒲氏が入部してから、180年後の応永9年(1402)、時の七尾城主・益田兼世が周防入道大内源征との契約によって、黒谷の地頭を兼ねた(益田兼明蔵「本宗益田家系図」)、とあるが、「益田家文書」では、時期がこれより下る。すなわち、
応永12年(1405)1月5日付で、
“石見守護・山名氏利が、益田兼世に石見国長野荘内黒谷郷の地頭職を安堵する。”
とある。
さらに、応永18年(1411)、黒谷は13代益田秀兼の弟・氏秀が所有した。氏秀は彦次郎氏兼と称し、波多野姓を名乗った、とあるが、これも、益田家文書では、その時期は逆にさかのぼった応永14年(1407)12月11日とし、
“石見国守護・山名氏利、益田兼家に石見国の所領を、波多野氏秀に長野荘内黒谷郷の地頭職を安堵し、兼家の公田に段銭を課すことを許可する。”
とある。
【写真左】本丸北面
本丸の西端部から、北東方面を望んだもので、中央奥に益田市街地、及び日本海が望める。
なお、当城の本丸北面は全体に切崖になっており、吉見氏側が拠った場合には、北東から攻めてくる益田氏に対して有利になるが、益田氏が拠った場合には、南側は切崖が少ないので、不利になっただろうと思われる。
波多野氏
ところで、黒谷城に関わってきた波多野氏については、敵味方にそれぞれ存在している。
応永18年、益田秀兼の弟・氏秀がのちに波多野姓を名乗ったとあるが、益田氏や吉見氏のどちらかが、領有してきても、当城の城主は波多野氏となっているふしがある。
このことから想像すると、断片的な記録しかないため、断言はできないが、黒谷横山城をめぐっては、相当早くから波多野氏一族内で、益田派と、吉見派に分裂していたのではないだろうか。そして、最後の応永18年には、同氏の嗣子が途絶えたか、あるいは、益田氏が半ば強制的に支配し、同氏へ養子として入ったのではないだろうか。
【写真左】本丸南下の郭
整備されていないので、状況は分かりづらいが、幅5m、長径20m程度だろうか。本丸との高低差は5m程度だろう。
なお、この日登城した登城路の途中にも、不揃いながら、郭が数カ所点在していたが、遺構としてまとまっているのは頂部である本丸・二ノ丸付近が多い。
さて、このような状態で益田氏と吉見氏の抗争が続く。最終的に当城が益田氏の支配に落ち着いたのは、文明6年(1474)7月の足利義政の袖判御教による。その主な内容は、益田貞兼に石見国長野荘高津など七郷の地頭職等を安堵する(萩閥7)、というものである。
石碑が建っている個所が主郭部分であるが、その位置から西端まではおよそ50m程度ある。その先端部は伐採されていないが、切崖状態に見えた。
なお、石碑の先に登ってきた堀切が2段にくまれ、その先東方へ向かって長い二ノ丸が続く。
戦国期
戦国期以降については、天正年間、益田元祥の命によって、下黒谷城(原城:黒谷城より北方3キロにあった山城)の城主藤原宗秀の孫・宗勝が城主となり、後に宗勝は喜島(きじま)氏を名乗っている。
関ヶ原の戦いでは、益田元祥(毛利方)に従い、敗れた後、元祥に随従したまま当城を離れたため、廃城となった。
【写真左】本丸から南方に津和野方面を見る。
眺望がこれだけ良好であることを考えると、いかに両者(益田氏・吉見氏)が当城を確保したかったか、よくわかる。
【写真左】本丸から北方を見る。
北麓の上黒谷町となるが、中央部に先鋒した山が浄土寺山(250m)で、その手前の中腹部に先述した原城があり、右側峰奥には朝柄山城(220m)がある。
なお、この写真の左側は山口県になる。
【写真左】馬場跡か
本丸下の二段の堀切を抜けて東方に進んでいくと、二ノ丸になる。全体に痩せ尾根ながら、長さは数百メートルと長大だ。
郭としては300m程度までだが、仏峠といわれる個所直前までの鞍部が城域として使用されたと考えられる。
この写真は平坦面の精度がよい個所で、50m程度確保されていた。おそらく馬場跡だったのだろう。
【写真左】途中に見えた尖った岩
二ノ丸は痩せ尾根個所が多く、南北にわたって切崖個所が長く伸びている。
この写真は北側の個所だが、この上から落ちたらひとたまりもない。
まさに天険の要害である。
なお、二ノ丸をさらに東方に下って行くと、おそらく上図に示した北側からの登山口に向かうと思われる。
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