2009年2月16日月曜日

戸倉城(出雲市稗原町)

戸倉城跡 (とくらじょうあと

登城日 2008年10月10日(金曜日)曇りのち雨
所在地 出雲市 稗原町 戸倉
時代 中世 
指定 未指定
標高 300 m
備考 要害山城跡。戦国時代、古志氏が築城。
構種別 溝 その他  郭 堀切
【写真左】戸倉城遠景・その1
 この山の隣にある「大袋山」という山の頂上には、昭和35年に出雲市指定史跡とされた「土椋烽(とくらのろし)跡」がある。
【写真左】その2
 北東側から見たもの

 出雲風土記に記録されている史跡で、天平5年(732)のころであるが、当時からこの付近は、出雲中央部の情報連絡基地的な役割を果たしてきた場所であるようだ。



【写真左】登城途中の堀切











【写真左】本丸跡その1
 南北にやや長くなった形で、特に西側突端部や、南側などには大きな岩が屹立し、先まで行くと、足がすくんでしまう。

 本丸北側にはベンチが設置され、北の方向に見える出雲平野、周辺の主だった山並の位置図が描かれているが、だいぶ古くなっていて一部読みづらい。

 この場所からは前記した「大袋山」がすぐ北西に見え、戸倉城の標高300mよりも高い。このため、西南方向からの敵陣を見るときには、おそらく大袋山に登ってみていたのではないかと思われる。





【写真左】本丸跡その2
 登城途中から本丸を見上げたもの











解説(現地の説明板より)

戸倉城跡由来

  ポツンと孤立した急峻なこの要害山は、標高300メートル。山麓(現在地)から約200メートルの山である。山頂と東下の尾根の平地が、古城の名残である。
【写真左】戸倉城主の石碑
 北東側を走る道路の脇に建立されている。


現地の説明板より


〝戸倉城主の石碑
 向いの山「要害山」には戦国時代尼子の武将古志氏の出城があり、元亀元年(1570)戸倉攻防戦で戸倉城主古志貞信氏の戦死の場所が、この付近(昔の地名・捲林)であったと言い伝えられ、石碑を建立して「要害山城主 古志六郎左衛門尉貞信」と刻してある。
 平成18年12月 稗原クラブ”




 この戸倉城は、古書に「十蔵城」「十倉城」とも書かれ、戦国の頃、かなり有力な城であった。

 いつ誰の築城か明らかでないが、初は尼子の武将・古志氏の出城であり、後は毛利氏の将が占拠したらしいが、城郭廃止の時も不明である。(稗原まちづくり事業推進協議会)“
【写真左】戸倉城本丸から城下の稗原地区を見る
【写真左】本丸跡から北西の方向を見る
 奥にかすんで見える山並には、斐川町にある城平山城・高瀬城などがある。














築城期

 前稿の栗栖山城の説明板に

  「…この山は南北朝の元弘・建武年間(1331~1335)に、古志氏が居城を浄土寺山から栗栖山・櫃森山に移し、12代城主・古志重信が元亀元年(1570~72)後、居城を稗原の要害山に移すまでの古志氏縁りの城山である。」


 「元亀元年(1570)12代・重信は、毛利の軍門に降り、稗原の土蔵(戸倉)に移城し、4,500人はいたと考えられる。家臣は離散し出雲古志氏の時代に終わりを告げた。」

 
と書かれている。


 築城期が不明なため、古志氏が最初からこの城の城主だったかははっきりしない。ただ、上記にあるように、古志氏の家臣が4,500人もいたということであれば、常識的には突然元亀元年に栗栖城から移ってきたとは考えにくい。

 
 ところで、戸倉城のある地域を元々治めていた一族に朝山氏がいる。
この一族は、鎌倉時代以来から「国衙在庁官人」として社家奉行だったが、南北朝期を境に、応永元年(1394)に召し放たれて「幕府御料所」となり、朝山氏自身は室町幕府将軍直属の奉公衆となって京都において活躍している。

 また、「大社町史」に室町期社家奉行一覧表(杵築大社)というのがある。
これによると、応永28年(1421)から応永33年(1426)まで、古志慶千代、古志代四郎の名が記録されており、これ以後古志氏の名が出てこない。そのあとは、奥出雲に拠点を置く三沢氏や、神西氏、牛尾氏などの名が見える。

◆以上のような記録をもとに考えられることは、古志氏は栗栖山城に移った元弘・建武年間(1331~35)後(朝山氏が京都に移った後)、幕府御料所となった朝山・稗原地域を実質上、知行(直接には古志氏の宗家である塩冶氏から)のような形で受け、特に戸倉城周辺もそのころから整備し始めたのではないか。

そして戦国期には居城を、栗栖山城から戸倉城に完全に移した、という流れではないかと思われるのだが。

◆なお、朝山氏の本城はまだ取り上げていないが、位置的には古志氏の栗栖山城と、稗原の戸倉城のほぼ中間地点にある「姉山城」という山城である。

古志氏の動きについては、このほかに「備後・古志氏」もあり、この「出雲・古志氏」との流れの中でどのような変遷をたどっていったのか、日を改めて整理してみたい。

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