2009年2月26日木曜日

葛西氏・城平山城(その2)

城の形状

 今回の登城で現地を確認した限りでは、雰囲気が播磨の感状山城のようなつくりで、さほど石垣を駆使した形跡がなく、かぎりなく自然の形状を要害化したような造りである。
 南西の位置にある城平山が本丸で、北にある郭頂部はそれを補完するような感じだが、二の丸的な役目もあったかもしれない。空から見るとL字を左右反対にしたレイアウトになるが、敵の来襲を北西に見定めているような配置である。

光明寺との関係

 繰り返すが、城下の光明寺は地元では相当有名だが、残念ながら、これまで何度も寺が焼失にあっているため、寺の具体的な史料がないようだ。このため、寺の上に聳えている城平山城とのかかわりも記録にない。

 しかし、当城と光明寺の位置関係を考えると、寺は城の真下になり、直線距離では南西の本丸と思われるところから300メートル程度しか離れていない。

 光明寺の創建時期がおそらく城よりも大分古いと思われるので、城ができていた時は当然この寺が存在していたことになる。どのような関わりがあったのかは不明だが、相互の関連性は十分に想像できる。

【写真上】城平山城の郭付近


【写真左】斐伊川南岸の上之郷城麓(上島町)から見た城平山城遠望
 この角度から見ると、富士山の小型版にも見える。
【写真左】城平山城の麓・中腹にある「光明寺の朝鮮鐘」
 この鐘は、西日本でも数少ないもので、朝鮮から持ち込まれたものという。30年ぐらい前に、作家の司馬遼太郎がこの寺院を訪れ、「街道をゆく」シリーズで取り上げている。


追加資料
 2008年6月8日(日曜日)に、斐伊川を挟んで南にある出雲市上島町の上之郷城を訪れた際、帰りに延命寺に立ち寄った。
【写真左】延命寺門前
 本堂や境内が想像以上に小規模だった。すぐ東に大きな寺があったので、そちらが延命寺かと思ったが、全く別の寺だった(確か全昌寺とかいう名前だったと思う)。
【写真左】境内にあった縁起
 これを読むと、開山は正中元年(1324)とあることから、正中の変が起きた年である。即ち、9月、京都の六波羅探題が後醍醐天皇の討幕計画を察知して、関係者を処罰する正中の変が起こる。


 また、「当山は阿宮城(葛西城主?□□)の祈願所として、又、松江城主・松平直政公の命により…」とある。

 この寺について、「島根の寺院第2巻」によると次の通り。

花高山 延命寺
 縁起 当寺は斐川町阿宮にあり、真言宗総本山醍醐寺(京都市伏見区)に属す三宝院末の古刹である。


 開創年月は定かでないが、正中元年(1324)造営の棟札があり、金光山長福寺と号し、本尊薬師如来(脇侍に阿弥陀如来、観音大師)を安置する。

 中興の祖快弁法印が祐教坊と称し、正中元年に盛んに真言修験の法灯を広めたので、やがて仏陀感応の勝区となった。同5年には仁王護国般若の秘法を修し、爾来天長地久福徳円満の咒(じゅ)願(がん)を怠らなかった。

 応安7年(1374)中興二代・快完和尚の代、出雲郡阿宮城主(別名葛西城、又は城平山城)・葛西多門は、当寺を祈願所と定めひたすら戦勝を祈り、陣貝(ホラ貝)一具を寄進したと伝えられている(現物あり)。

 長享年間(1487)、当山八世・快猛和尚代、葛西兵部兼冬もまた深く帰心し、太刀一口(家次作)を寄進した(この太刀は昭和20年、戦時に際し刀剣所持の法に触れ、惜しくも国に供出した)。
 永禄年中(1558)第11世・快宝代葛西兼繁(兼冬の子)鏡一面を寄進した。

 元亀年間、葛西城落城に伴い、当山も一時衰運に傾いていたが、松平直政松江就封入国の寛永年中、当山を出雲郡の鎮護道場と定め、寺領二石二斗が付され、郡内各戸に祈祷札を配った。(以下省略)
 
◆上記の中に、戦国時代すなわち、元亀年間に落城云々とある。元亀年間といえば、すぐ北の米原氏居城・高瀬城が、1571年3月に毛利方(吉川元春)によって落城している。

 となると、そのころは尼子方に与していたことになる。陰徳太平記・雲陽軍実記などには「葛西氏」の名が全く見えないが、戦力的には小規模なものだったかもしれない。

◎関連投稿
霧山城・その3 伊勢北畠氏と出雲葛西氏(三重県津市美杉町下多気字上村)

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