荒滝山城(あらたきやまじょう)
●所在地 山口県宇部市大字東吉部字荒滝
●高さ 459m(比高350m)
●築城期 室町時代
●築城者 内藤隆春
●城主 内藤氏
●指定 山口県指定史跡
●遺構 郭・堀切・土塁・石垣等
●登城日 2014年1月6日
◆解説(参考『日本城郭体系第14巻』等)
荒滝山城は、山口県の西部を流れる厚東川(ことうがわ)の西方に聳える荒滝山に築城された内藤氏の居城といわれている。
ちなみに荒滝山城の東麓を流れる厚東川を20キロほど下ると、以前紹介した霜降城(山口県宇部市厚東末信)・その1が位置している。
【写真左】荒滝山城遠望
南西麓の駐車場側から見たもので、頂部はなだらかな形に見える。
駐車場に向かう道は、県道231号線から北に枝分かれした林道だが、分岐点にある標識は少し小さいので、見落とすかもしれない。
現地の説明板より
“荒滝山城跡
山口県指定文化財(史跡)
荒滝山城は、大内氏の重臣で長門国の守護代だった内藤隆春(1528~1600)の居城と伝えられています。県内でも最大級の規模を持つ、中世の山城跡です。平時は山麓の今小野の館で生活し、戦時にこの山城にたてこもったと考えられます。
この城は、標高459mの荒滝山の山頂につくられた主郭を中心として、東側尾根の出丸、西側尾根の西郭の三つの大きな郭群によって構成する連郭式の山城です。
【写真左】説明板
麓の駐車場周りにはご覧のようなカラフルな説明板が設置してある。
ちなみに、この付近には文字通り「荒滝」という名瀑があり、耳観音という像も祀られている。
また、舗装された駐車場の他、トイレも整備されているのでうれしい。
尾根を切断する堀切、斜面に竪堀を連続して掘った畝状空堀群、城の出入り口である虎口、石積などの山城の防御施設を、山頂一帯のいたる所で見ることができます。
市教委が行った発掘調査では、土師器・瓦質土器・中国や朝鮮から輸入された陶磁器など、主に16世紀中頃から後半にかけての、飲食や調理に使われた土器が出土しました。また、出土した遺物から、山口の大内氏との関係が伺われます。
宇部市教育委員会”
【写真左】登城口付近
麓には一軒の民家があり、その右側には石垣で積まれた棚田がある。西側から回り込みながら進む。
内藤氏
荒滝山城の城主内藤隆春は、大内氏の重鎮として代々仕えた内藤一族の一人である。内藤氏が守護代として大内氏に仕え始めたのは、大内氏第11代当主・盛見(1377~1431)のころで、盛貞が最初といわれる。この頃大内氏は分郡守護体制をとっており、もう一人の守護代としては既に陶氏が任じている。
【写真左】分岐点・その1
登り始めてから約20分ほど進むと、荒滝山城の北東に聳える「日ノ岳」に向かう道が出てくる。
そのまま荒滝山側の道を少し進むと、今度は、南登山口側から伸びる道と合流する地点にでる。こちらの方はあまり使われていないようだ。
【写真左】分岐点・その2
附近には休憩用の木製のベンチもおかれているが、劣化している。
盛貞のあとを引き継いだのが、大内氏第13代教弘のときの盛世である。以下隆春に至るまでの流れを下段に示す。
【写真左】祠と鳥居
本丸手前350m地点にあるもので、この付近から屹立した巨岩が現れる。
内藤隆春
内藤隆春については、これまで石見の益田藤兼の墓(島根県益田市七尾町桜谷)でも少し触れているが、隆春の娘は益田藤兼の二番目の側室として七尾城に入っている。
上掲したように、代々受け継いできた大内氏の重臣(守護代)ではあったが、天文20年(1551)、義隆が大寧寺の変(大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)参照)に巻き込まれた際、隆春は主君である義隆を守ろうとはしなかった。
【写真左】石積付近
本丸南東部に当たる個所で、左側の斜面は草に覆われているが、平成13年度発掘調査で石積と石段が確認された。
山頂の郭へ通じる南斜面通路の壁面はこうした石積が築かれているという。
その背景には、このころ大内氏を支えてきた陶晴賢が事実上の実力者となっており、しかも晴賢と義兄弟であった甥の内藤隆世が、この時期形式上内藤氏の当主であり、その彼が晴賢に属したことなどがあり、隆春及び父・興盛らは静観の態度をとっていた。
【写真上】全体図
荒滝山城は大きく分けて、主郭・西郭・出丸(千畳敷)の3か所で構成されている。
この図は、縄張図の形式ではないが、これによると、遺構の数は凡そ次のようになっている。
堀切×5~8ヵ所、畝状空堀群×20数ヵ所、虎口×6か所、石積×6カ所(いずれも概算値)。
その後陶晴賢が厳島で毛利氏と戦う段になると、隆春は毛利氏に属した。晴賢が厳島に敗れたあと大内義長は、その2年後の弘治3年(1557)長門長福寺で自害するが、このとき甥の隆世も後を追った。この結果、隆春は改めて内藤氏当主として、また長門国守護代として元就に認知されることになる。
荒滝山城の築城開始時期は、冒頭で示した大内氏第11代当主・盛見(1377~1431)、すなわち長門国守護代として始めて任に就いた盛貞の時と思われるが、本格的な整備を行ったのは、おそらくこの時期、すなわち永禄1~2年(1558~59)ごろと思われる。
【写真左】東に連続する郭段
本丸から東にかけて約6段の郭が続く。3段目の郭はもっとも幅があり、その下には畝状の竪堀群(空堀群)が4条連なっているが、現地は雑木の覆われて明瞭でない。
ところで、隆春の実姉・尾崎局は、元就の長男・隆元の正室である。つまり隆元は隆春の義兄となるが、隆元が不慮の死を遂げ、さらに元就が元亀2年(1571)に亡くなると、毛利家中で隆春を支援するものが少なくなり、さらには讒言が輝元の耳に入り、改めて輝元に対し忠誠を誓う起請文を提出させられている。
隆春には男子がいたがいずれも早逝したため、養子として宍戸元秀(毛利氏側)の次男・元盛を迎えた。
【写真左】3段目の郭から主郭を見る。
【写真左】主郭
主郭の一角には明治天皇の銅像が建立されている。
【写真左】北方に秋吉台を見る。
荒滝山城からほぼ真北にはカルスト台地で有名な秋吉台が見える。
向背の山を越えると、日本海側の長門・萩に至る。
【写真左】南方に霜降城を遠望する。
おそらく⇓マークの山が南北朝期戦いの繰り広げられた霜降城(霜降城(山口県宇部市厚東末信)・その1参照)と思われる。
視界が良いと周防灘も俯瞰できるだろう。
【写真左】主郭北東部附近
この辺りから右にかけて畝状空堀群が配されているが、現地は雑木や雑草で覆われて明瞭でない(下の写真参照)。
【写真左】竪堀
標識はあるものの、倒木などで踏み込めない。
ここからさらに東方の出丸側に向かう。
【写真左】堀切
主郭側から出丸に向かう途中にあるもので、予想以上に規模が大きく、両端までの長さは100m前後ある。
【写真左】出丸縄張図
主郭から出丸までの距離は、図面で見る以上に距離があり、独立した城砦として機能していたようにも思える。
【写真左】出丸の石積
出丸は東西にそれぞれ長さ50m×幅20~30mの郭を2段構成し、境目の中央南に虎口を2か所置いている。そして、その東端部に降る尾根には5段の郭を配している。
また北側には畝状竪堀を中小10数ヵ所配置している。
写真は、西側郭の南面に残る石積みで、高さ約1mほどのもの。
このあと、再び本丸側に引き返し、西郭に向かう。
【写真左】堀切
主郭から西郭に至る個所のもので、特徴的なのは、この堀切の西側にもう一条が走り、北側でさらに西側から伸びた堀切と合流していることである(下の写真参照)。
【写真左】堀切配置図
左図の右側が主郭で、西郭との間には計4本の堀切が配置されている。
すべての堀切を越えていよいよ西郭に入る。
【写真左】西郭手前の犬走り
西郭の概要は下段の図の通り、南側に大きな郭を配し、さらに北側に向かって小郭が配されている。
この写真は手前の大きな郭の東側から北に向けて伸びる犬走り。
【写真左】西郭概要図
中央の大きな郭は特記すべきものはなかったので、そのまま「現在地」と書かれたところに向かう。
【写真左】西郭・その1
手前の郭から傾斜を持たせて、下に下がり、先端部周囲には土塁が残る。
ここからさらに左側にある虎口を使って、西側に下りていく。
【写真左】堀切と塹壕の組合せ
西郭の特徴はこの下段に取り巻く遺構で、北側には畝状竪堀群を配し、上部の先端郭を囲繞するように、空堀が配されている。
【写真左】空堀側面の石積
囲繞する空堀の位置にあるもので、大分崩れているが、当時は屹立するような施工だったものと思われる。
【写真左】畝状竪堀
当城の中では「西郭」区域に残る遺構が最も明瞭で、しかも見ごたえがある。
この竪堀などはその典型だろう。
【写真左】竪堀下段から上を見上げる。
上から見た時は緩い傾斜だと思ったが、下に降りて見上げると、かなり急傾斜に感ずる。
●所在地 山口県宇部市大字東吉部字荒滝
●高さ 459m(比高350m)
●築城期 室町時代
●築城者 内藤隆春
●城主 内藤氏
●指定 山口県指定史跡
●遺構 郭・堀切・土塁・石垣等
●登城日 2014年1月6日
◆解説(参考『日本城郭体系第14巻』等)
荒滝山城は、山口県の西部を流れる厚東川(ことうがわ)の西方に聳える荒滝山に築城された内藤氏の居城といわれている。
ちなみに荒滝山城の東麓を流れる厚東川を20キロほど下ると、以前紹介した霜降城(山口県宇部市厚東末信)・その1が位置している。
【写真左】荒滝山城遠望
南西麓の駐車場側から見たもので、頂部はなだらかな形に見える。
駐車場に向かう道は、県道231号線から北に枝分かれした林道だが、分岐点にある標識は少し小さいので、見落とすかもしれない。
現地の説明板より
“荒滝山城跡
山口県指定文化財(史跡)
荒滝山城は、大内氏の重臣で長門国の守護代だった内藤隆春(1528~1600)の居城と伝えられています。県内でも最大級の規模を持つ、中世の山城跡です。平時は山麓の今小野の館で生活し、戦時にこの山城にたてこもったと考えられます。
この城は、標高459mの荒滝山の山頂につくられた主郭を中心として、東側尾根の出丸、西側尾根の西郭の三つの大きな郭群によって構成する連郭式の山城です。
【写真左】説明板
麓の駐車場周りにはご覧のようなカラフルな説明板が設置してある。
ちなみに、この付近には文字通り「荒滝」という名瀑があり、耳観音という像も祀られている。
また、舗装された駐車場の他、トイレも整備されているのでうれしい。
尾根を切断する堀切、斜面に竪堀を連続して掘った畝状空堀群、城の出入り口である虎口、石積などの山城の防御施設を、山頂一帯のいたる所で見ることができます。
市教委が行った発掘調査では、土師器・瓦質土器・中国や朝鮮から輸入された陶磁器など、主に16世紀中頃から後半にかけての、飲食や調理に使われた土器が出土しました。また、出土した遺物から、山口の大内氏との関係が伺われます。
宇部市教育委員会”
【写真左】登城口付近
麓には一軒の民家があり、その右側には石垣で積まれた棚田がある。西側から回り込みながら進む。
内藤氏
荒滝山城の城主内藤隆春は、大内氏の重鎮として代々仕えた内藤一族の一人である。内藤氏が守護代として大内氏に仕え始めたのは、大内氏第11代当主・盛見(1377~1431)のころで、盛貞が最初といわれる。この頃大内氏は分郡守護体制をとっており、もう一人の守護代としては既に陶氏が任じている。
【写真左】分岐点・その1
登り始めてから約20分ほど進むと、荒滝山城の北東に聳える「日ノ岳」に向かう道が出てくる。
そのまま荒滝山側の道を少し進むと、今度は、南登山口側から伸びる道と合流する地点にでる。こちらの方はあまり使われていないようだ。
【写真左】分岐点・その2
附近には休憩用の木製のベンチもおかれているが、劣化している。
盛貞のあとを引き継いだのが、大内氏第13代教弘のときの盛世である。以下隆春に至るまでの流れを下段に示す。
- 盛世(盛貞) ~1468 主君・大内盛見
- 盛武 ?~?
- 弘矩 1446~1495 主君・大内政弘⇒義興
- 弘春 ? ~1502 主君・大内義興 弘春の兄・弘矩及びその子弘和、讒言によって大内義興に誅殺され、急遽家督を継ぐ。
- 興盛 1495~1554 主君・大内義興⇒義隆 弘春嫡男 妻 内藤弘矩娘
- 隆春 1528~1600 主君・大内義隆⇒毛利元就⇒輝元 興盛嫡男 妻 吉見隆頼娘
【写真左】祠と鳥居
本丸手前350m地点にあるもので、この付近から屹立した巨岩が現れる。
内藤隆春
内藤隆春については、これまで石見の益田藤兼の墓(島根県益田市七尾町桜谷)でも少し触れているが、隆春の娘は益田藤兼の二番目の側室として七尾城に入っている。
上掲したように、代々受け継いできた大内氏の重臣(守護代)ではあったが、天文20年(1551)、義隆が大寧寺の変(大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)参照)に巻き込まれた際、隆春は主君である義隆を守ろうとはしなかった。
【写真左】石積付近
本丸南東部に当たる個所で、左側の斜面は草に覆われているが、平成13年度発掘調査で石積と石段が確認された。
山頂の郭へ通じる南斜面通路の壁面はこうした石積が築かれているという。
その背景には、このころ大内氏を支えてきた陶晴賢が事実上の実力者となっており、しかも晴賢と義兄弟であった甥の内藤隆世が、この時期形式上内藤氏の当主であり、その彼が晴賢に属したことなどがあり、隆春及び父・興盛らは静観の態度をとっていた。
【写真上】全体図
荒滝山城は大きく分けて、主郭・西郭・出丸(千畳敷)の3か所で構成されている。
この図は、縄張図の形式ではないが、これによると、遺構の数は凡そ次のようになっている。
堀切×5~8ヵ所、畝状空堀群×20数ヵ所、虎口×6か所、石積×6カ所(いずれも概算値)。
その後陶晴賢が厳島で毛利氏と戦う段になると、隆春は毛利氏に属した。晴賢が厳島に敗れたあと大内義長は、その2年後の弘治3年(1557)長門長福寺で自害するが、このとき甥の隆世も後を追った。この結果、隆春は改めて内藤氏当主として、また長門国守護代として元就に認知されることになる。
荒滝山城の築城開始時期は、冒頭で示した大内氏第11代当主・盛見(1377~1431)、すなわち長門国守護代として始めて任に就いた盛貞の時と思われるが、本格的な整備を行ったのは、おそらくこの時期、すなわち永禄1~2年(1558~59)ごろと思われる。
【写真左】東に連続する郭段
本丸から東にかけて約6段の郭が続く。3段目の郭はもっとも幅があり、その下には畝状の竪堀群(空堀群)が4条連なっているが、現地は雑木の覆われて明瞭でない。
ところで、隆春の実姉・尾崎局は、元就の長男・隆元の正室である。つまり隆元は隆春の義兄となるが、隆元が不慮の死を遂げ、さらに元就が元亀2年(1571)に亡くなると、毛利家中で隆春を支援するものが少なくなり、さらには讒言が輝元の耳に入り、改めて輝元に対し忠誠を誓う起請文を提出させられている。
隆春には男子がいたがいずれも早逝したため、養子として宍戸元秀(毛利氏側)の次男・元盛を迎えた。
【写真左】3段目の郭から主郭を見る。
主郭の一角には明治天皇の銅像が建立されている。
【写真左】北方に秋吉台を見る。
荒滝山城からほぼ真北にはカルスト台地で有名な秋吉台が見える。
向背の山を越えると、日本海側の長門・萩に至る。
【写真左】南方に霜降城を遠望する。
おそらく⇓マークの山が南北朝期戦いの繰り広げられた霜降城(霜降城(山口県宇部市厚東末信)・その1参照)と思われる。
視界が良いと周防灘も俯瞰できるだろう。
【写真左】主郭北東部附近
この辺りから右にかけて畝状空堀群が配されているが、現地は雑木や雑草で覆われて明瞭でない(下の写真参照)。
【写真左】竪堀
標識はあるものの、倒木などで踏み込めない。
ここからさらに東方の出丸側に向かう。
【写真左】堀切
主郭側から出丸に向かう途中にあるもので、予想以上に規模が大きく、両端までの長さは100m前後ある。
【写真左】出丸縄張図
主郭から出丸までの距離は、図面で見る以上に距離があり、独立した城砦として機能していたようにも思える。
【写真左】出丸の石積
出丸は東西にそれぞれ長さ50m×幅20~30mの郭を2段構成し、境目の中央南に虎口を2か所置いている。そして、その東端部に降る尾根には5段の郭を配している。
また北側には畝状竪堀を中小10数ヵ所配置している。
写真は、西側郭の南面に残る石積みで、高さ約1mほどのもの。
このあと、再び本丸側に引き返し、西郭に向かう。
【写真左】堀切
主郭から西郭に至る個所のもので、特徴的なのは、この堀切の西側にもう一条が走り、北側でさらに西側から伸びた堀切と合流していることである(下の写真参照)。
【写真左】堀切配置図
左図の右側が主郭で、西郭との間には計4本の堀切が配置されている。
すべての堀切を越えていよいよ西郭に入る。
【写真左】西郭手前の犬走り
西郭の概要は下段の図の通り、南側に大きな郭を配し、さらに北側に向かって小郭が配されている。
この写真は手前の大きな郭の東側から北に向けて伸びる犬走り。
【写真左】西郭概要図
中央の大きな郭は特記すべきものはなかったので、そのまま「現在地」と書かれたところに向かう。
【写真左】西郭・その1
手前の郭から傾斜を持たせて、下に下がり、先端部周囲には土塁が残る。
ここからさらに左側にある虎口を使って、西側に下りていく。
【写真左】堀切と塹壕の組合せ
西郭の特徴はこの下段に取り巻く遺構で、北側には畝状竪堀群を配し、上部の先端郭を囲繞するように、空堀が配されている。
【写真左】空堀側面の石積
囲繞する空堀の位置にあるもので、大分崩れているが、当時は屹立するような施工だったものと思われる。
【写真左】畝状竪堀
当城の中では「西郭」区域に残る遺構が最も明瞭で、しかも見ごたえがある。
この竪堀などはその典型だろう。
【写真左】竪堀下段から上を見上げる。
上から見た時は緩い傾斜だと思ったが、下に降りて見上げると、かなり急傾斜に感ずる。
0 件のコメント:
コメントを投稿