2012年1月22日日曜日

真山城(島根県松江市法吉町)

真山城(しんやまじょう)

●所在地 島根県松江市法吉町
●別名 新山城
●築城期 平安時代末期か
●築城者 平忠度か
●城主 多賀元信、尼子勝久
●高さ 256m
●遺構 郭・帯郭・石垣等
●登城日 2007年12月23日、2012年1月18日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』、『尼子物語』妹尾豊三郎編著等)
 今稿では、前稿忠山城(島根県松江市美保関町森山)で紹介した真山城を取り上げたい。
 所在地は、松江市の法吉町(ほっきちょう)に所在し、別名「新山城」ともいわれる。
南方にはいずれ取り上げる予定の「白鹿城」がそびえている。
【写真左】真山城遠望
 真山城側の尾根と並行して走る西側の尾根(大高丸城側)の北方・天狗山付近から見たもの。


 左側最高所が本丸で、以下右に「一ノ床」「二ノ床」「三ノ床」と下がっていく。


現地の説明板より

“真山城址
 真山は新山とも書かれ、標高256mで、頂上から一の床、二の床、三の床と階段上に区画され、野面積みの石垣が残っている。

 永禄6年(1563)毛利軍の将、吉川元春が真山に陣を布き、尼子軍が拠る白鹿城を攻めた。この戦に尼子軍は敗れ、白鹿城は落城する。以後毛利氏は真山城を拠点として、多賀左京亮元信を入城させた。

 永禄12年(1569)尼子勝久、山中鹿介幸盛らは京都で挙兵し隠岐に渡り、ついで島根半島に上陸して真山城を占拠した。以後、尼子軍は真山城を本拠として、広瀬の冨田城に迫ったが、尼子軍は敗れ、尼子勝久は元亀2年(1571)真山城を去った。

 勝久退去まで2年余の歳月であった。以後、毛利氏が城を修理し家臣を置いた。真山城の廃止時期は明らかでない。

 法吉 白鹿 真山の自然と文化を育む会”
【写真上】真山城跡及び白鹿城跡案内図
 真山城登城は前回(2007年)雨の中、南側登山口から本丸までの往復で断念していたが、今回(2012年1月18日)は本丸を過ぎ、そのまま尾根伝いに北へ進み、この図では書かれていない、北端の鳥ノ子山(252m)を通り、西の尾根を伝い、白鹿山城砦群(天狗山・玄武山・尻廻し山)を縦走し、大高丸山の東尾根を下って、本谷林道へ降りるコースを踏査した。


築城期と築城者

 『雲陽軍実記』によれば、平安末期に平薩摩守忠度(ただのり)が、平清盛より当地島根半島の東部(本庄・森山とあり、前稿「忠山城」もこの区域に入るだろう)を宛行され、新山にこの城を築いたとされている。
平忠度は、平忠盛の六男で、清盛とは異母弟に当たる。

 もっとも、これについては『日本城郭体系第14巻』でも記されているように、伝承によるもので、史実かどうかはっきりしない。ただ、尼子氏の居城・月山冨田城の築城が、治承元年(1177)頃、平景清の築城とされ、また、出雲国と石見国の国境にある鶴ヶ城跡(島根県出雲市多伎町口田儀清武山)も、康和から嘉承年間(1099~1108)に築城されているので、平家が支配した西国(出雲国)の真山城の築城期も、その頃と推察してもよいだろう。
【写真左】真山城登山口
 南麓部にあたり、麓を東西に道路が走っている。東方には「ソフトビジネスパーク」というIT関連の工場団地があるためか、山道の割に車の往来が多い。


 駐車場はこの付近の南側に2台程度と、少し西の坂を下ったT字路の脇に1台分のスペースが確保できる。


戦国期

 説明板にもあるように、真山城が記録に現れるのは戦国期である。
 以前にも述べたように、尼子氏が弱体化し始めるのは、永禄3年(1560)12月の晴久急逝が一つのきっかけとなっている。跡を継いだ嫡子・義久の代になると、それまで尼子氏に与していた国人領主は次第に離れ、毛利氏につくようになる。

 永禄5年(1562)ごろになると毛利氏は先ず石見国を支配し、次第に東進し出雲国へ侵入してきた。同年12月10日、毛利元就は宍道湖北岸に荒隅城(島根県松江市国屋町南平)を築き、尼子氏居城の月山冨田城と、真山城の南方にあった尼子十旗の一つ白鹿城の連絡を絶った。
【写真左】白鹿城遠望
 案内図にもあるように、真山城の南方には白鹿城が指呼の間にある。
 登り始めて2合目付近から見え始める。





 説明板では、真山城に毛利方吉川元春が永禄6年に陣を布いた、とあるが、おそらくこの年の前年、すなわち荒隅城を築いたとき、すでに真山城の方へも一部は向かっていたのだろう。

というのも、白鹿城と冨田城の連絡を絶つためには、白鹿城より南方にある荒隅城のみでは、決定的な遮断ができないと考えられるからである。

 荒隅城の位置は白鹿城の南方宍道湖岸にあるが、白鹿城から冨田城へ向かうルートとしては、南進の他に、東部の朝酌川沿いを伝っていく方法があり、距離的にもむしろこのルートが優先される。

 このため、白鹿城からの動きを確実にとらえることができるのは、北方の真山城の方がより有効ではなかったかと思われる。
【写真左】土橋
 3合目付近にあるもので、長さは20m前後か。
ちなみに、こうした土橋形状の遺構がもう一か所あったように記憶している。



 さて、南に荒隅城を向城とし、北に真山城を抑えた毛利方は、白鹿城を落としていくことになるが、この戦いは後に、「白鹿城二の城戸大合戦」と呼ばれることになる。これについては、いずれ取り上げる「白鹿城」の稿で、紹介したいと思う。

鹿助らの真山城占拠

 毛利氏によって白鹿城を落とされた永禄6年(1563)10月29日から6年後の同12年(1569)6月、前稿「忠山城」でも述べたように、尼子再興を図った尼子勝久・山中鹿助らが、忠山城からこの真山城を攻略した。
【写真左】満願寺城遠望
 4合目から5合目付近で眺望できるが、宍道湖北岸に「満願寺城」が確認できる。


 大永元年(1521)又は大永7年(1527)、当時尼子氏に属していた湯原豊前守信綱が築城した。永禄5年(1562)、毛利元就が荒隅城に入ると、信綱の孫右京進春綱は毛利方に降った。
 満願寺城についても、いずれ取り上げたい。


真山城落城

 彼らの最終目標は、尼子氏の居城であった広瀬月山冨田城の奪還である。しかし、再興軍の戦いはこの後、出雲・伯耆の所々で敗戦を屈し、説明板にもあるように、勝久らが拠ったこの真山城は元亀2年(1571)8月21日落城し、再び隠岐国へ逃走することになる。
【写真左】登城途中の墓石
 5合目手前の西側に祀られている墓石で、「相本盛之助、更科姫 墓」と刻銘されている。建立されたのは、昭和2年11月とある。


 以前この墓についての史料を目にしたことがあるが、二人は尼子氏と関わった人物なのかはっきりしない、とされている。
【写真左】三の床
 7合目付近からさらに傾斜がつき始めるが、この位置で最初の郭・三の床が現れる。


 三の床の南端部から下段まで7,8mの比高を持ち、下段の尾根を東から西に向かって道が造られている。この道が「白鹿谷」に向かう道の一つである。


三の床は、幅5m前後で、南北に約30m伸びる。東側面には南北に幅1m程度の腰郭が付随さている。
【写真左】二ノ床手前の小郭
 三ノ床から40m程度進むと、二ノ床手前に小郭が控える。


 幅・奥行とも5m前後で、登城道はここで東(右)から西(左)へ回って進む。
【写真左】二ノ床・その1
 8合目付近にある郭段で、本丸まで200m弱の位置になる。


 二ノ床は全長約50m前後で、2,3段の段差を持たせた規模で、幅はほとんど変わらず5,6m前後。
 写真は北側から南を見たもの。
【写真左】二ノ床・その2
 この写真奥は次の壇である一ノ床が控えている。


 そしてこのあたりの傾斜が一番強く、要害性が高い。
【写真左】一ノ床南切崖
 二ノ床の北端部で、一ノ床の切崖が見える。
【写真左】一ノ床
 基本的に三ノ床から本丸までの郭幅は5~10mの範囲内で、ほぼ直線の尾根伝いに郭段が続くが、一ノ床辺りで少し幅が広くなり、長さも100m前後と大きくなる。


 一ノ床中心部には、石碑跡が残る。おそらく以前にはこの上に石柱が建ててあったのだろう。現在は自生した松の木が立っている。


 なお、一ノ床の北側には少し鞍部となった底部が残り、東西には土塁状の痕跡が認められる。
【写真左】主郭・その1
 一ノ床から緩やかな登りを過ぎると、主郭が現れる。
 松江市民の手ごろな登山として親しまれているせいか、主郭周辺は整備され、見通しがいい。
【写真左】主郭に建つ石碑
 主郭北側には「尼子勝久公之碑」と刻まれた石碑が建つ。


真山城の南麓に常福寺という寺があるが、この寺院の住職・小川龍山という人が書かれたものとある。
【写真左】主郭から南西を見る。
 宍道湖を中央に、手前に「小白鹿城」、宍道湖南岸に「幡屋三山」といわれる「丸倉山城」「大平山城」「八重山城」(2009年11月投稿)、その右には大黒山の後背に「高瀬城」などが控える。
【写真左】主郭から西方を見る。
 西方には、「本宮山城」(2009年3月30日投稿)が見える。
【写真左】主郭から北西を見る。
 右側には日本海が見え、このあたりでは最高所で、出雲風土記に登場する神名火山の一つ霊山・朝日山が見える。


また、その手前には「海老山城」(2011年12月14日投稿)の尾根が見える。


なお、この日は真山城からさらに北に向かい、西側の相対する尾根(写真に記したライン)をたどった。
【写真左】主郭から南方を見る。
 白鹿山稜線より少し西に走る稜線の南端部には、毛利元就が陣した「荒隅城」が見える。


 現在当地は天倫寺という寺になっており、遺構はほとんど確認できないが、宍道湖北岸の水軍城として、白鹿城攻めの際重要な城砦となった。


いずれ荒隅城についても取り上げる予定である。
【写真左】主郭より南東に伯耆大山を見る。
 登城したこの日は珍しく晴天で、視界もよかったため、伯耆大山(だいせん)も鮮やかにみることができた。
【写真左】主郭から北北西に鳥ノ子山を見る。
 真山城の主郭を越え北に進むと、数回のアップダウンをしながら、鳥ノ子山につながる。


東方の真山側の尾根と、西方の白鹿山砦群・大高丸山側尾根との中心にあたり、扇の要の位置になる。


島根県遺跡データベースでは「城砦」として登録はされていないが、毛利・尼子の戦いではおそらく当山も重要な物見砦の役目を果たしたものと思われる。この山についても、紹介する予定である。
【写真左】主郭から北に向かう。
 前記したように、主郭からさらに北に向かうが、主だった場所としては、寺床・本谷口、そして鳥ノ子山がある。
【写真左】真山城北方の分岐点・持田越し
 真山城の主郭を北に進むと、途端に傾斜のきつい下り道となり、ご覧の鞍部にたどり着く。


「持田越し」といわれるところで、手前が真山城側、奥に向かうと「鳥ノ子山」、そして左に降りると「寺床」「本谷口」へ向かう。


 なお、ここに来るまでにも小郭らしき遺構が2,3確認できた。



次稿では、「鳥ノ子山」周辺について紹介したいと思う。

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