喜時雨陣城(きじゅうじんじょう)
●所在地 島根県鹿足郡津和野町田二穂
●高さ H:227m(比高40m)
●築城期 永仁3年(1295)吉見氏城館、明徳元年(1390)牛王神社建立。喜時雨陣城:天文23年(1554)頃
●築城者 吉見氏、陶氏(益田氏か)
●遺構 郭・帯郭
●備考 津和野神社
●登城日 2014年3月27日
◆解説(参考文献 「喜時雨地区埋蔵文化財試掘調査報告書 Ⅱ」等)
当城の位置は、吉見氏居城の津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原)(三本松城)の西方の谷である喜時雨地区に所在し、その中心部には現在津和野神社が祀られている。
【写真左】喜時雨陣城跡
ご覧のように陣城としての遺構を残すものはほとんどなく、津和野神社の向背に小丘が見える。
現地の説明板より
“津和野神社
『津和野百景図』 第四拾七図 懸社津和野神社
津和野神社のあるこの山は、中世において津和野三本松城の陣城であった。
【写真左】周辺地図
喜時雨陣城は左側の赤い箇所で、右側には三本松城(津和野城)が図示されている。
明徳元年(1390)に勧請された牛王神社があったが、坂崎出羽守により神殿が廃止され、4代亀井茲親が宝永4年(1707)に社殿を造営、埴安神社と改称している。
明和5年(1768)亀井家第8代矩貞のとき、京都の吉田家から初代茲矩の霊に対し「武茲矩霊社」の号を送られ、埴安神社に埴安明神とともに配祀された。文化8年(1804)9代矩賢は武茲矩霊社二百年の大祭を行い、このときに拝殿脇の茲矩公の頌徳碑が建立されている。また、文化年間において具足や太刀、武器などの宝物が御書物蔵に納められるとともに、祭礼も盛大に執り行われている。
【写真左】参道脇にある段
参道を登っていくと、右側の一番下には整地された運動場のようなものがあり、その上に写真にある段が設けられている。
近代になって施工されたものだと思われるが、天文年間に陣城となる以前の鎌倉・南北朝期頃は、吉見氏の館などがあったかもしれない。
この段からさらに神社本殿に登る階段がついているが、左側にはこれとは別の坂道が二本並列に敷設されている(冒頭の写真参照)。
文久元年(1862)7月、社殿の改造が終わり上棟式並びに250年の大祭が執り行われた。
遷座にあわせ神霊に「元武大明神」の号が送られ、社名を「元武神社」に改称している。
慶応3年、版籍奉還により津和野城を引き払う際、城にあった武州公ゆかりの御鎧、旗、槍、刀、鉄砲、大砲などが神社に移された。
【写真左】拝殿下の段
石積などは説明板にもあるように、近世に施工されたものだろう。
明治に入り「元武大明神」が「元武大神」に改め、明治4年(1871)8月には埴安神社と元武神社を合わせ「喜時雨神社」と改称された。
明治8年(1875)に喜時雨神社は郷社に昇格、さらに明治43年(1910)2月には縣社に昇格し「津和野神社」に改称した。また、明治44年には300年祭が盛大に執り行われている。大祭には亀井家の代参として山辺丈夫が参列、一週間にわたり町内各所で催しが行われた。昭和12年(1937)には最後の藩主茲監の神霊も合祀されている。
【写真左】神社側から津和野城を遠望する。
神社に登る坂道から少しあがったところに植樹された箇所があるが、そこに登って撮ったもの。
一般的にはこの裏側、すなわち津和野の街並みからみた津和野城の写真が多いが、これは西麓から見たものになる。
【写真左】陶ヶ嶽城を遠望する。
津和野城の南端と正対する位置には、三本松城の戦いの際、陶晴賢が本陣を構えた陶ヶ嶽城が見える。
ただ、この位置からは津和野城側の尾根が邪魔をして、少ししか見えない。
陶ヶ嶽城の右に見えるピークの山は野坂山(H:640m)で、山口県との県境になる。
天文22年(1552)、三本松城の戦い緒戦では、嘉年城にあった下瀬頼定と波多野滋信が野坂峠まで出撃し、陶方を破っている。
昭和25年(1950)7月、原因不明の出火により本殿および拝殿などすべてが焼失した。現在の拝殿は、その後の再建である。
石段下の宝物館にある大型火器4門は、うち3門が青銅製の仏郎機砲である。津和野郷土館にも2門保管されており、津和野には計5門存在する。仏蘭機砲はヨーロッパにその起源を持ち、中国、東南アジアを経ながら、日本には戦国時代に伝来、当時は石火矢といった。伝来の経緯や製作地などは不明である。
津和野町教育委員会”
【写真左】亀の甲羅を台座とした石碑
この石碑と併せ、亀井茲矩を紹介した説明板と、亀井氏家紋である隅立四つ目結を刻印した石塔が建立されている。
亀井茲矩については、因幡の鹿野城(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)及び、亀井茲矩の墓(鳥取県鳥取市鹿野町寺内)ですでに紹介しているとおりである。
喜時雨
喜時雨とかいて、きじう(きじゅう)と読む。時雨(しぐれ)を喜ぶという意味なのだろうが、もとは喜汁と書かれた地区である。
石見吉見氏が最初に来住した木薗(吉見氏居館跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野)参照)に館を築いてから暫く経った永仁3年(1295)、津和野川を下り、新たな館としたのが、この喜時雨である。
【写真左】境内から下を見る。
予想以上に高低差と傾斜を感じさせる。
このあと、本殿裏の高台を目指す。
この場所は現在の津和野城の西麓に当たる個所で、度々氾濫する津和野川流域の中でも比較的洪水の少ない箇所で立地条件としては理想的な場所であったと思われる。そして、館をここに定めると、三本松城の築城に取り掛かることになる。
従って、当初三本松城の大手は喜時雨側(西側)もしくは、現在の南端部である鷲原八幡宮側においていたものと思われる。
【写真左】下から高台を見上げる。
ここから先には特に道は設けられていないので、適当に登っていく。
三本松城の戦い
前稿・御嶽城(島根県鹿足郡津和野町中山字奥ヶ野)でも述べたように、当城が最も激しい戦いを繰り広げたのが天文23年(1554)に行われた、大内義長・陶晴賢と、当城主吉見正頼の戦い、すなわち「三本松城の戦い」である。
この戦いは同年3月から始まり8月まで続くが、結果として勝敗つかず和睦・講和をもって終えている。
この戦いで大内・陶軍が陣を張った一つが、今稿の喜時雨陣城とされている。先述したように、当地は吉見氏の居館があった所とされているが、おそらく天文年間にはその場所は別の所に移っていたのだろう。
【写真左】頂部・その1
遺構らしきものは確認できなかったが、写真の奥に見えるように、津和野三本松城の尾根全体が確認できる。
まさに、陶方にとっては理想的な陣所であったと思われる。
大塚兼正
この場所において具体的な記録が残る武将の1人が益田氏家臣の大塚兼正である。兼正らが戦った時期は、天文23年(1554)4月18日とされているので戦い前半の頃である。
【写真左】頂部・その2
喜時雨陣城は小規模な独立系の小丘だが、裏側(北側)天然の要害となっている。
また、一旦谷(田圃か)介してさらに北側に小山があるが、ここには、「吉見乳母の墓(伝)」があるという。
大塚兼正の出自は惣領・益田氏の庶流と云われている。益田氏11代・兼見の次男・兼弘が応安年間に山道(仙道)地頭となり、姓を山道とし、大塚地頭の祖となった。その後、一旦山道を廃して、大塚に改め、その後下氏を名乗り、12代兼正の代になって再び大塚を名乗った。
●所在地 島根県鹿足郡津和野町田二穂
●高さ H:227m(比高40m)
●築城期 永仁3年(1295)吉見氏城館、明徳元年(1390)牛王神社建立。喜時雨陣城:天文23年(1554)頃
●築城者 吉見氏、陶氏(益田氏か)
●遺構 郭・帯郭
●備考 津和野神社
●登城日 2014年3月27日
◆解説(参考文献 「喜時雨地区埋蔵文化財試掘調査報告書 Ⅱ」等)
当城の位置は、吉見氏居城の津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原)(三本松城)の西方の谷である喜時雨地区に所在し、その中心部には現在津和野神社が祀られている。
【写真左】喜時雨陣城跡
ご覧のように陣城としての遺構を残すものはほとんどなく、津和野神社の向背に小丘が見える。
現地の説明板より
“津和野神社
『津和野百景図』 第四拾七図 懸社津和野神社
津和野神社のあるこの山は、中世において津和野三本松城の陣城であった。
【写真左】周辺地図
喜時雨陣城は左側の赤い箇所で、右側には三本松城(津和野城)が図示されている。
明徳元年(1390)に勧請された牛王神社があったが、坂崎出羽守により神殿が廃止され、4代亀井茲親が宝永4年(1707)に社殿を造営、埴安神社と改称している。
明和5年(1768)亀井家第8代矩貞のとき、京都の吉田家から初代茲矩の霊に対し「武茲矩霊社」の号を送られ、埴安神社に埴安明神とともに配祀された。文化8年(1804)9代矩賢は武茲矩霊社二百年の大祭を行い、このときに拝殿脇の茲矩公の頌徳碑が建立されている。また、文化年間において具足や太刀、武器などの宝物が御書物蔵に納められるとともに、祭礼も盛大に執り行われている。
【写真左】参道脇にある段
参道を登っていくと、右側の一番下には整地された運動場のようなものがあり、その上に写真にある段が設けられている。
近代になって施工されたものだと思われるが、天文年間に陣城となる以前の鎌倉・南北朝期頃は、吉見氏の館などがあったかもしれない。
この段からさらに神社本殿に登る階段がついているが、左側にはこれとは別の坂道が二本並列に敷設されている(冒頭の写真参照)。
文久元年(1862)7月、社殿の改造が終わり上棟式並びに250年の大祭が執り行われた。
遷座にあわせ神霊に「元武大明神」の号が送られ、社名を「元武神社」に改称している。
慶応3年、版籍奉還により津和野城を引き払う際、城にあった武州公ゆかりの御鎧、旗、槍、刀、鉄砲、大砲などが神社に移された。
【写真左】拝殿下の段
石積などは説明板にもあるように、近世に施工されたものだろう。
明治に入り「元武大明神」が「元武大神」に改め、明治4年(1871)8月には埴安神社と元武神社を合わせ「喜時雨神社」と改称された。
明治8年(1875)に喜時雨神社は郷社に昇格、さらに明治43年(1910)2月には縣社に昇格し「津和野神社」に改称した。また、明治44年には300年祭が盛大に執り行われている。大祭には亀井家の代参として山辺丈夫が参列、一週間にわたり町内各所で催しが行われた。昭和12年(1937)には最後の藩主茲監の神霊も合祀されている。
【写真左】神社側から津和野城を遠望する。
神社に登る坂道から少しあがったところに植樹された箇所があるが、そこに登って撮ったもの。
一般的にはこの裏側、すなわち津和野の街並みからみた津和野城の写真が多いが、これは西麓から見たものになる。
【写真左】陶ヶ嶽城を遠望する。
津和野城の南端と正対する位置には、三本松城の戦いの際、陶晴賢が本陣を構えた陶ヶ嶽城が見える。
ただ、この位置からは津和野城側の尾根が邪魔をして、少ししか見えない。
陶ヶ嶽城の右に見えるピークの山は野坂山(H:640m)で、山口県との県境になる。
天文22年(1552)、三本松城の戦い緒戦では、嘉年城にあった下瀬頼定と波多野滋信が野坂峠まで出撃し、陶方を破っている。
昭和25年(1950)7月、原因不明の出火により本殿および拝殿などすべてが焼失した。現在の拝殿は、その後の再建である。
石段下の宝物館にある大型火器4門は、うち3門が青銅製の仏郎機砲である。津和野郷土館にも2門保管されており、津和野には計5門存在する。仏蘭機砲はヨーロッパにその起源を持ち、中国、東南アジアを経ながら、日本には戦国時代に伝来、当時は石火矢といった。伝来の経緯や製作地などは不明である。
津和野町教育委員会”
【写真左】亀の甲羅を台座とした石碑
この石碑と併せ、亀井茲矩を紹介した説明板と、亀井氏家紋である隅立四つ目結を刻印した石塔が建立されている。
亀井茲矩については、因幡の鹿野城(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)及び、亀井茲矩の墓(鳥取県鳥取市鹿野町寺内)ですでに紹介しているとおりである。
喜時雨
喜時雨とかいて、きじう(きじゅう)と読む。時雨(しぐれ)を喜ぶという意味なのだろうが、もとは喜汁と書かれた地区である。
石見吉見氏が最初に来住した木薗(吉見氏居館跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野)参照)に館を築いてから暫く経った永仁3年(1295)、津和野川を下り、新たな館としたのが、この喜時雨である。
【写真左】境内から下を見る。
予想以上に高低差と傾斜を感じさせる。
このあと、本殿裏の高台を目指す。
この場所は現在の津和野城の西麓に当たる個所で、度々氾濫する津和野川流域の中でも比較的洪水の少ない箇所で立地条件としては理想的な場所であったと思われる。そして、館をここに定めると、三本松城の築城に取り掛かることになる。
従って、当初三本松城の大手は喜時雨側(西側)もしくは、現在の南端部である鷲原八幡宮側においていたものと思われる。
【写真左】下から高台を見上げる。
ここから先には特に道は設けられていないので、適当に登っていく。
三本松城の戦い
前稿・御嶽城(島根県鹿足郡津和野町中山字奥ヶ野)でも述べたように、当城が最も激しい戦いを繰り広げたのが天文23年(1554)に行われた、大内義長・陶晴賢と、当城主吉見正頼の戦い、すなわち「三本松城の戦い」である。
この戦いは同年3月から始まり8月まで続くが、結果として勝敗つかず和睦・講和をもって終えている。
この戦いで大内・陶軍が陣を張った一つが、今稿の喜時雨陣城とされている。先述したように、当地は吉見氏の居館があった所とされているが、おそらく天文年間にはその場所は別の所に移っていたのだろう。
【写真左】頂部・その1
遺構らしきものは確認できなかったが、写真の奥に見えるように、津和野三本松城の尾根全体が確認できる。
まさに、陶方にとっては理想的な陣所であったと思われる。
大塚兼正
この場所において具体的な記録が残る武将の1人が益田氏家臣の大塚兼正である。兼正らが戦った時期は、天文23年(1554)4月18日とされているので戦い前半の頃である。
【写真左】頂部・その2
喜時雨陣城は小規模な独立系の小丘だが、裏側(北側)天然の要害となっている。
また、一旦谷(田圃か)介してさらに北側に小山があるが、ここには、「吉見乳母の墓(伝)」があるという。
大塚兼正の出自は惣領・益田氏の庶流と云われている。益田氏11代・兼見の次男・兼弘が応安年間に山道(仙道)地頭となり、姓を山道とし、大塚地頭の祖となった。その後、一旦山道を廃して、大塚に改め、その後下氏を名乗り、12代兼正の代になって再び大塚を名乗った。
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