2014年12月13日土曜日

備中・冠山城(岡山県岡山市北区下足守)

備中・冠山城(びっちゅう・かんむりやまじょう)

●所在地 岡山県岡山市北区下足守
●高さ 40m
●形態 丘城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 河津左衛門尉氏明、守福寺某
●遺構 郭
●登城日 2014年5月1日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 本年のNHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」もいよいよ残すところあと一回の最終回となったが、件のドラマで冠山城が少し紹介されていたことを御存じの方も多いと思う。

 このときの内容は、主として備中高松城攻めを中心としたものだったが、この一連の戦いにおいて、当城もまた戦火を交えた城砦であった。特に、官兵衛の息子・長政が初陣を挙げた城であることも知られている。当然ながら冠山城は、備中高松城に近い場所で、高松城から北へ足守川沿いに約4キロ余り向かった下足守に所在する。
【写真左】冠山城遠望・その1
 南側から見たもので、ご覧の通り小規模な城砦で、現在田圃や住宅地に囲まれた中にポツンと見える小丘である。
【写真左】冠山城遠望・その2
 冠山城の西方に聳える古代山城・鬼の城(H:400)から見たもの。
 手前は鬼の城ゴルフ倶楽部のゴルフ場。




現地の説明板より

“冠山合戦を偲ぶ

 天正10年4月17日冠山城は、織田軍2万、宇喜多勢1万に囲まれ、下足守の山や谷は陣馬で埋まった。
 守りは城主林三郎左衛門、祢屋七郎兵衛、松田左衛門尉、鳥越左兵衛、三村三郎兵衛、竹井将監、舟木興五郎、難波惣四郎、岩田多郎兵衛、権寂和尚、祢屋興七郎、佐野和泉守、守屋新之丞、祢屋孫一郎、庄九郎、秋山新四郎など300騎、総勢3,600人で、羽柴秀吉の旗本杉原七郎左衛門、宇喜多忠家らと戦った。
【写真左】配置図
 附近に設置された観光マップだが、これには当城は記載されていなかったため、管理人によって付け加えた。
 参考までに、中央部に「高松城」などがあり、その上に「冠山城」、そしてさらに、北には同じく宇喜多勢などが戦った「鍛冶山城」「宮地山城」などの位置を図示した。



 城内より打ち出す銃火ははげしく、また城兵には豪の者多くめざましい働きにより、寄せ手の犠牲は大きく、一時攻めあぐんだ。
 4月25日、不幸にして城内より出火し、火は燃え拡がり城中大混乱となった。城主林三郎左衛門は、最早これまでと城兵に別れを告げ自決した。竹井将監、鳥越左兵衛、秋山新四郎、舟木興五郎、難波惣四郎、権寂和尚など将兵139人は、自刃或いは壮烈な討死を遂げた。
【写真左】冠山城鳥瞰図
 かなりデフォルメした絵だが、管理人によって作成してみたもの。

 特に、この図は当時の周囲の状況を想像して描いたもので、西方を流れる足守川がおそらく当時堤防などなかったものと思われ、これが事実上の濠の役目をしていたのではないかと考える。

 なお、三ノ壇の西側に「虎口」を図示しているが、『日本城郭体系第13巻』では、これは「隠し虎口」ではなかったか、とされている。残念ながら、登城したこの日、この個所の確認はできなかった。


 加藤清正一番乗りの功名話、荒武者竹井将監が加藤清正と激闘ののち戦死したことなど激戦の状況が戦史に詳しく伝えられている。

 小山ながら難攻の冠山城も遂に落城した。林三郎左衛門は、行年51歳、備中の国を半国与えようという羽柴秀吉の誘いも断り、毛利並びに小早川隆景に義を貫いた。
 武士道に徹した冠山の城主、及び将兵を心から称えたい。

 昭和58年11月吉日
  冠山城址四百年記念事業奉賛会”
【写真左】葦守八幡宮・八幡神社鳥居付近
 当城東麓にある個所で、古木がある個所が「足守一里塚跡」である。
 登城口はこの写真の左側になり、ここから西に向かって細い道が続き、大手道に繋がる。
【写真左】登城口
 先ほどの箇所からほぼ真っ直ぐに道がついている。奥に見える小山が冠山城。
 なお、この先まで民家が立ち並んで、狭い道のため、この日は大分離れた空き地に車を停めて歩いて向かった。



秀吉(信長)備中攻めの前哨戦

 秀吉らが備中に入ったのは、天正10年(1582)3月下旬である。そして有名な高松城攻めで、城主・清水宗治が城兵の命と引き替えに自刃したのが、同年6月4日といわれている。

 冠山城の戦いはこの高松城攻めの前哨戦であるが、当城を攻め落とす前に秀吉方の備前勢(宇喜多氏ら)が拠ったのが、冠山城の北方にあった宮地山城である(上の配置図参照)。
 この城には毛利方の乃美少輔七郎元信がいたが、対岸の鍛冶山城にあった備前勢は乃美らに城の明け渡しを迫り、元信を追放した。
【写真左】祠
 登城道脇に祀られている。
自刃した城主や、討死した城兵を供養したものだろう。






 ところで、秀吉方は宮地山城を奪取した後、冠山城を攻めたという説と、宮地山城に最後まで抵抗した乃美氏は、冠山城が落城したため降伏したという説の二つがあり、どちらが事実なのかよく分からないが、備中国における戦いの前哨戦であった。

 そして、節目々で常に黒田官兵衛らが毛利氏(安国寺恵瓊など)と粘り強い交渉を行っている。
【写真左】三の丸と大手門跡手前
 現在残る登城道は大手道を基軸としたもののようだが、麓の周囲はご覧のような竹林などに覆われ、容易に中に入ることは出来ない。

 写真の左側には、「三の丸跡」と記した標柱が建っている。上段の鳥瞰図でいえば、「三ノ壇」に当たる。左側に向かうコースのようだが、藪コギで無理のようだ。
 なお、道中途中の左側には「溜め井(戸)」があるようだが、これも確認できない。

 そのまま真っ直ぐに向かうと、大手門跡がある。
【写真左】二の丸(二ノ壇)・その1
 大手門を過ぎると、先ず二の丸の郭段が左右に拡がる。
 奥の階段を上がると本丸(一ノ壇)にたどり着く。
【写真左】二の丸(二ノ壇)・その2
 本丸に向かう階段の右下(北東麓)側の箇所で、奥に進むにしたがって細くなり、途中で消滅する。
 なお、この右下にも不定型な郭段が残る。
【写真左】二の丸(二ノ壇)・その3
 今度は反対側(南側)に伸びる箇所で、二ノ丸の主要部になる。
 少し踏み込んでみたが、倒竹が多く、途中で断念。

 階段を上がり本丸に向かう。
【写真左】本丸(一ノ壇)・その1
 殆ど方形で、東西42m×南北21mの規模を持つ。
【写真左】本丸(一ノ壇)・その2
 石碑
「天正10年 4月25日落城 冠山合戦戦死将兵慰霊碑」と刻銘されたかなり大型の石碑。
 昭和58年11月吉日 建立されている。

 このあと、本丸周囲で歩行が可能な箇所を無作為に踏査する。
【写真左】本丸(一ノ壇)・その3
 本丸中心部から西の方向に進んだ箇所で、平滑な施工跡が見える。
【写真左】本丸北側から東側に進んだ箇所
 本丸から時計回りに進み、次第に降りて行った箇所で、この辺りにも郭段があったのかもしれないが、大分崩落している。
【写真左】本丸・二の丸の東隣の段
 鳥瞰図でいえば、「郭」と図示した箇所で、左側にも削平地が伸びているが、整備されている箇所はここまで。
【写真左】北側外周部
 下山後、東麓から北側に回り込み外周部を散策。
 左側のこんもりとした林が冠山城だが、外周部にはご覧のようなコンクリート製の小川と、田圃が広がる。
 おそらく当時はこのあたりは足守川の川床だったと思われる。
【写真左】外周西端部の切崖
 冠山城は標高40mほどの小規模な丘城である。このため、緒戦で攻めた宇喜多勢は、最初「片手を掛けるだけで落とせる」と思っていたという。

 しかし、侮った宇喜多勢は予想をはるかに超える犠牲者を出し、退却を余儀なくされたという。
 この個所の切崖をみても、そんな雰囲気が感じられる。
【写真左】南麓部
 手前左側から右に向かって二ノ壇・三ノ壇の切崖箇所に当たる。

 現在南麓部には寺院が建っているため、この辺りの遺構がどの程度残っているか不明だが、この箇所の傾斜も当時とほとんど変わらないものだったと思われる。

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