淡河城(おうごじょう)
●所在地 兵庫県神戸市北区淡河町淡河
●別名 上山城
●高さ 152m(比高 30m)
●形態 丘城
●築城期 承久4年(貞応元年:1222年)
●築城者 淡河氏
●城主 淡河氏、有馬氏
●遺構 郭・堀等
●登城日 2016年6月18日
◆解説
淡河城は、端谷城(兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷 満福寺)の稿で少し触れているが、別所氏の居城三木城(兵庫県三木市上の丸) より東へ直線距離で10㎞余り向かった淡河町淡河に築かれた丘城である。
【写真左】淡河城遠望
北側の天正寺城から見たもの。
天正寺城は、淡河城攻めの際、秀吉方が向城として築いた。
現地の説明板より
❝淡河城跡市民公園
淡河城
淡河の里を眼下(比高差約20m)に一望できる河岸段丘上端に築かれたこの城は、淡河氏代々の居城でしたが、天正6~8年(1578~80)羽柴秀吉による三木城(別所氏)攻めの後は、有馬氏一万五千石の居城として慶長6年(1601)まで、淡河と共に栄えてきました。
城の遺構は現在、本丸と天守台、堀を残すだけとなっています。幅15m、深さ3~5mの堀に囲まれ、本丸の南辺に東西50m、南北8~16mの天守台を配する構えは、当時の面影を残しています。
また、本丸の南東には竹慶寺(ちくけいじ)跡があり、境内には城主淡河氏代々の墓碑があります。❞
【写真左】淡河周辺部の案内図
淡河城の位置は左図の道の駅淡河の西隣に配置されている。
既述した天正寺城は緑線で示した山陽自動車城の北にある。また、淡河川を下っていくと、三木城に繋がる。
淡河氏と北条氏
●所在地 兵庫県神戸市北区淡河町淡河
●別名 上山城
●高さ 152m(比高 30m)
●形態 丘城
●築城期 承久4年(貞応元年:1222年)
●築城者 淡河氏
●城主 淡河氏、有馬氏
●遺構 郭・堀等
●登城日 2016年6月18日
◆解説
淡河城は、端谷城(兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷 満福寺)の稿で少し触れているが、別所氏の居城三木城(兵庫県三木市上の丸) より東へ直線距離で10㎞余り向かった淡河町淡河に築かれた丘城である。
【写真左】淡河城遠望
北側の天正寺城から見たもの。
天正寺城は、淡河城攻めの際、秀吉方が向城として築いた。
現地の説明板より
❝淡河城跡市民公園
淡河城
淡河の里を眼下(比高差約20m)に一望できる河岸段丘上端に築かれたこの城は、淡河氏代々の居城でしたが、天正6~8年(1578~80)羽柴秀吉による三木城(別所氏)攻めの後は、有馬氏一万五千石の居城として慶長6年(1601)まで、淡河と共に栄えてきました。
城の遺構は現在、本丸と天守台、堀を残すだけとなっています。幅15m、深さ3~5mの堀に囲まれ、本丸の南辺に東西50m、南北8~16mの天守台を配する構えは、当時の面影を残しています。
また、本丸の南東には竹慶寺(ちくけいじ)跡があり、境内には城主淡河氏代々の墓碑があります。❞
【写真左】淡河周辺部の案内図
淡河城の位置は左図の道の駅淡河の西隣に配置されている。
既述した天正寺城は緑線で示した山陽自動車城の北にある。また、淡河川を下っていくと、三木城に繋がる。
淡河氏と北条氏
淡河城の築城者である淡河氏は、鎌倉幕府執権の北条氏後裔といわれる。承久3年(1221)5月、後鳥羽上皇は鎌倉幕府第2代執権北条義時追討を企て、西園寺公経父子を幽閉、京都守護伊賀光季を討った。
これに対し、幕府軍は鎌倉を出立後、木曽川、宇治川の防衛線を突破、6月14日京都に入り、北条時房・泰時は六波羅に駐在、瞬く間に京都を制圧、後鳥羽上皇の企てはわずか1か月で鎮圧された。7月、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へそれぞれ配流された。世にいう「承久の乱」の顛末である。
【写真左】北側から見る。
淡河川をはさんで北側から見たもので、中央には模擬天守風の建物が竹林の間から見える。
この戦いで、幕府方に付き随った多くの東国武士がその功によって西国に新補地頭職として下向している。
承久の乱における幕府方のリーダーの一人が、前記した北条義時の実弟・時房であるが、彼は乱後しばらく京に留まり、初代六波羅探題南方を勤めた。この時房の嫡男時盛の子に時治がおり、彼が承久4年(貞応元年)すなわち乱鎮圧の翌年、播磨国美嚢郡淡河庄の地頭職として補任され下向し、淡河城を築城したといわれている。
【写真左】淡河城復元図
模擬天守風の建物の中に掲示してあったものだが、文字や彩色などが薄くなり分かりずらいが、北東部に本丸があるほか、6~7か所程度の郭が描かれている。
【写真左】川を渡り城域へ
当城の麓には川が流れているが、これが濠の役目をしたものと思われる。
左側の木製の橋を渡り城域へ向かう。
しかし、これとは別に現地淡河城の麓にあった碑文には、同年(貞応元年)北條右近将監成正が補任され、こののち淡河氏を名乗ったとある。この北條成正の出自ついては不明である。
このことから淡河氏始祖については諸説あり、また伝承の域を出ない部分が多いため、はっきりしないが、いずれにしても冒頭で述べたように執権北条氏の後裔であることは間違いないだろう。
【写真左】建物の脇へ着く。
6月とはいえすでに夏のような暑さで、登城するにはいい条件でなく、周辺部は草木が生い茂り、遺構の確認には難が伴う。
この付近から本丸と思われる。
赤松氏から別所氏へ
南北朝期に至ると、淡河氏は南朝方に与し、北朝方の攻めを受けたがその都度防戦に努め退けた。
この戦いで赤松氏の支援を受け、以後赤松氏の旗下となって東播磨の国境の守備を担当していった。その後、嘉吉の乱においては、大軍で押し寄せた山名氏の軍門に降り、一時的に山名氏に属したが、再び赤松再興の一翼を担った。
こののち、赤松氏の庶流であった三木城の別所氏が台頭していくと、淡河氏は端谷城(兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷 満福寺) の衣笠氏と共に、別所氏に属していき、別所氏は東播磨の盟主となった。
【写真左】郭・その1
現状は野地のようになっている。
復元図に書かれている郭跡だが、同図の文字がかすれていて名称は分からない。二の丸的な用途だったと思われる。
秀吉の播磨攻め
豊臣秀吉が播磨攻めを開始したのは、三木城(兵庫県三木市上の丸)の稿でも述べたように、天正6年(1578)の4月からである。
秀吉の三木城攻めが始まると、淡河城の淡河氏は、福中城(神戸市西区平野町福中字本丸:遺構消滅)の間島氏らとともにいち早く別所氏の三木城支援に当たった。
秀吉による三木城攻めは、1年10ヶ月に及んだが、天正8年(1580)1月17日、別所長治の自害によってその幕を下ろした。
【写真左】外側の段
記憶がはっきりしないが、少し高くなった土塁上の位置に小屋があり、そこから中の方へ進む。
さて、淡河城での戦いは、同7年4月ごろが最も激しく、秀吉軍は淡河城の四方に付城を築き、これに対し、城主淡河弾正忠定範は、6月27日敵陣に牝馬を放ち、秀吉方の羽柴秀長らを敗走させつかの間の勝利を得たという。
しかし、淡河城を取り巻く情勢はますます厳しくなり、城主定範はじめ郎党たちは城を脱出、三木城に逃げ込んだ。このあと、淡河城に入城したのは有馬刑部郷法印則頼である。則頼ももとは三好長慶や別所長治に仕えていたが、秀吉による三木城攻めの際、長治から転じて秀吉に属した。
【写真左】郭・その2
上の段辺りから見たもので、畑地跡のように見ええる。
位置的には家臣団の屋敷跡とも考えられる。
有馬氏
淡河氏に替わって淡河城の城主となった有馬氏が最初に居城としていたのが、淡河城から南西へ4.2㎞へ向かった三木市志染町三津田の三津田城(満田城)である。淡河城に入城したとき3,200石を領し、以後秀吉傘下の武将として、山崎の戦い、長久手の合戦などで功をあげ、15,000石を増封した。
関ヶ原の戦いでは家康方の東軍に与し、合戦後の10月(慶長5年)戦功により有馬郡三田城に20,000石を家康から賜り、淡河城はそれに伴い同6年正月を以て廃城となった。
【写真左】本丸付近か
この辺りは整備され公園のような施設となっている。
【写真左】淡河城の石碑
公園(本丸付近)には「淡河城」と刻銘された石碑が建立されている。
【写真左】公園内部
公園内には石碑のほか、祠なども祭られている。
このあと、外側に回る。
【写真左】郭跡か
本丸周辺部は圃場整備された田んぼが広がり、往時の面影は消えているが、当時この付近も郭などの遺構があったものと思われる。
【写真左】堀
当城の遺構としてはこの堀が最もよく残るものだろう。
空堀にように見えるが、当時は水をたたえた濠だったと思われる。
【写真左】淡河家廟所
本丸南東部に淡河家の菩提寺といわれた竹慶寺があったが、その跡地に淡河家の墓が建立されている。
【写真左】田圃側から遠望
奥の竹藪となった箇所が淡河城だが、手前の田圃も当時は郭(城館)だったと考えられる。
【写真左】北側から遠望する。
北側を走る県道38号線側から見たもので、手前の田圃と奥の淡河城の間には淡河川の支流が流れ、これが濠の役目をしていたものと思われる。
【写真左】淡河城から天正寺城を遠望する。
天正7年に織田軍が淡河城攻めを行った時、四方に向城を築いたといわれ、その一つがこの天正寺城である。当城については、次稿で取り上げたい。
これに対し、幕府軍は鎌倉を出立後、木曽川、宇治川の防衛線を突破、6月14日京都に入り、北条時房・泰時は六波羅に駐在、瞬く間に京都を制圧、後鳥羽上皇の企てはわずか1か月で鎮圧された。7月、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へそれぞれ配流された。世にいう「承久の乱」の顛末である。
【写真左】北側から見る。
淡河川をはさんで北側から見たもので、中央には模擬天守風の建物が竹林の間から見える。
この戦いで、幕府方に付き随った多くの東国武士がその功によって西国に新補地頭職として下向している。
承久の乱における幕府方のリーダーの一人が、前記した北条義時の実弟・時房であるが、彼は乱後しばらく京に留まり、初代六波羅探題南方を勤めた。この時房の嫡男時盛の子に時治がおり、彼が承久4年(貞応元年)すなわち乱鎮圧の翌年、播磨国美嚢郡淡河庄の地頭職として補任され下向し、淡河城を築城したといわれている。
【写真左】淡河城復元図
模擬天守風の建物の中に掲示してあったものだが、文字や彩色などが薄くなり分かりずらいが、北東部に本丸があるほか、6~7か所程度の郭が描かれている。
【写真左】川を渡り城域へ
当城の麓には川が流れているが、これが濠の役目をしたものと思われる。
左側の木製の橋を渡り城域へ向かう。
しかし、これとは別に現地淡河城の麓にあった碑文には、同年(貞応元年)北條右近将監成正が補任され、こののち淡河氏を名乗ったとある。この北條成正の出自ついては不明である。
このことから淡河氏始祖については諸説あり、また伝承の域を出ない部分が多いため、はっきりしないが、いずれにしても冒頭で述べたように執権北条氏の後裔であることは間違いないだろう。
【写真左】建物の脇へ着く。
6月とはいえすでに夏のような暑さで、登城するにはいい条件でなく、周辺部は草木が生い茂り、遺構の確認には難が伴う。
この付近から本丸と思われる。
赤松氏から別所氏へ
南北朝期に至ると、淡河氏は南朝方に与し、北朝方の攻めを受けたがその都度防戦に努め退けた。
この戦いで赤松氏の支援を受け、以後赤松氏の旗下となって東播磨の国境の守備を担当していった。その後、嘉吉の乱においては、大軍で押し寄せた山名氏の軍門に降り、一時的に山名氏に属したが、再び赤松再興の一翼を担った。
こののち、赤松氏の庶流であった三木城の別所氏が台頭していくと、淡河氏は端谷城(兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷 満福寺) の衣笠氏と共に、別所氏に属していき、別所氏は東播磨の盟主となった。
【写真左】郭・その1
現状は野地のようになっている。
復元図に書かれている郭跡だが、同図の文字がかすれていて名称は分からない。二の丸的な用途だったと思われる。
秀吉の播磨攻め
豊臣秀吉が播磨攻めを開始したのは、三木城(兵庫県三木市上の丸)の稿でも述べたように、天正6年(1578)の4月からである。
秀吉の三木城攻めが始まると、淡河城の淡河氏は、福中城(神戸市西区平野町福中字本丸:遺構消滅)の間島氏らとともにいち早く別所氏の三木城支援に当たった。
秀吉による三木城攻めは、1年10ヶ月に及んだが、天正8年(1580)1月17日、別所長治の自害によってその幕を下ろした。
【写真左】外側の段
記憶がはっきりしないが、少し高くなった土塁上の位置に小屋があり、そこから中の方へ進む。
さて、淡河城での戦いは、同7年4月ごろが最も激しく、秀吉軍は淡河城の四方に付城を築き、これに対し、城主淡河弾正忠定範は、6月27日敵陣に牝馬を放ち、秀吉方の羽柴秀長らを敗走させつかの間の勝利を得たという。
しかし、淡河城を取り巻く情勢はますます厳しくなり、城主定範はじめ郎党たちは城を脱出、三木城に逃げ込んだ。このあと、淡河城に入城したのは有馬刑部郷法印則頼である。則頼ももとは三好長慶や別所長治に仕えていたが、秀吉による三木城攻めの際、長治から転じて秀吉に属した。
【写真左】郭・その2
上の段辺りから見たもので、畑地跡のように見ええる。
位置的には家臣団の屋敷跡とも考えられる。
有馬氏
淡河氏に替わって淡河城の城主となった有馬氏が最初に居城としていたのが、淡河城から南西へ4.2㎞へ向かった三木市志染町三津田の三津田城(満田城)である。淡河城に入城したとき3,200石を領し、以後秀吉傘下の武将として、山崎の戦い、長久手の合戦などで功をあげ、15,000石を増封した。
関ヶ原の戦いでは家康方の東軍に与し、合戦後の10月(慶長5年)戦功により有馬郡三田城に20,000石を家康から賜り、淡河城はそれに伴い同6年正月を以て廃城となった。
【写真左】本丸付近か
この辺りは整備され公園のような施設となっている。
【写真左】淡河城の石碑
公園(本丸付近)には「淡河城」と刻銘された石碑が建立されている。
【写真左】公園内部
公園内には石碑のほか、祠なども祭られている。
このあと、外側に回る。
【写真左】郭跡か
本丸周辺部は圃場整備された田んぼが広がり、往時の面影は消えているが、当時この付近も郭などの遺構があったものと思われる。
【写真左】堀
当城の遺構としてはこの堀が最もよく残るものだろう。
空堀にように見えるが、当時は水をたたえた濠だったと思われる。
【写真左】淡河家廟所
本丸南東部に淡河家の菩提寺といわれた竹慶寺があったが、その跡地に淡河家の墓が建立されている。
【写真左】田圃側から遠望
奥の竹藪となった箇所が淡河城だが、手前の田圃も当時は郭(城館)だったと考えられる。
北側を走る県道38号線側から見たもので、手前の田圃と奥の淡河城の間には淡河川の支流が流れ、これが濠の役目をしていたものと思われる。
【写真左】淡河城から天正寺城を遠望する。
天正7年に織田軍が淡河城攻めを行った時、四方に向城を築いたといわれ、その一つがこの天正寺城である。当城については、次稿で取り上げたい。
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