本山土居跡(もとやまどいあと)
●所在地 高知県長岡郡本山町本山377-2 上街公園
●高さ 250m(比高5m)
●別名 本山屋敷跡
●形態 居館跡
●築城期 戦国期以前
●城主 本山采女、山内刑部・但馬、野中直継・野中兼山、山内下総、孕石頼母
●遺構 石垣
●指定 本山町指定史跡
●登城日 2014年3月17日
◆解説
前稿本山城(高知県長岡郡本山町本山)でも紹介したように、本山城の北西麓には本山氏の居館跡とされた土居跡(以下「土居屋敷」とする)が残っている。
【写真左】本山土居屋敷遠望・その1
本山城直下の北麓から見たもので、この箇所は周囲の住宅地より少し高い位置にある。
現地の説明板より
“本山土居跡
土地の豪族本山氏の土居の一つで、天正17年(1586)長宗我部検地当時は、本山采女が住んでいた。
山内一豊の土佐入国御、慶長6年(1601)山内刑部(永原一照)が本山1300石を与えられてここに住んだが、その子但馬は、私曲の罪によって元和6年(1620)知行を没収されて、佐川の深尾家に預けられたため、それ以来本山土居はしばらく領主不在となった。
【写真左】本山土居屋敷遠望・その2
少し下がった位置から見たもの。
寛永7年(1630)野中直継が本山土居を預けられて、1000石を加増せられ、養嗣子兼山も当然これを受け継いだ。
兼山は藩主忠義の厚い信頼をえて、藩奉行職として敏腕を発揮したが、本山領主としても吉野川の支流の樫ノ川や、木能津川に下津野堰・トドロ堰・ノボリ立堰・カタシ山堰・井口堰を設けて用水をひいて多くの新田を開発し、その余沢を現在まで及ぼしている。
【写真左】当時の想像絵図
現地の説明板に添図されたもので、手前(北側)に門があったようだ。
又寛永20年(1643)に発せられた「本山掟」は、兼山と領民をつなぐ歴史的文書といえよう。 寛文3年(1663)兼山失脚後、本山土居は山内下総、次いで孕石頼母らによって管理されたが、明治になってすべての建物が取りこわされ、今はその石垣にわずかに面影をしのぶばかりである。
本山町教育委員会
昭和57年度高知県文化財保存事業”
【写真左】入口付近
北側を走る道路の脇にあり、写真の右側に数台駐車できるスペースがある。
本山氏から長宗我部・山内氏へ
本山土居屋敷がいつごろ築かれたものかはっきりしないが、本山城が築城された初期、おそらく北麓に同氏及び家臣などの屋敷などが当然建っていたと思われ、当該土居屋敷などもこれらのうちの一つだったと思われる。特に、現在の場所は麓の中でも少し高台にあり、当初城主であった本山氏自身が入っていた可能性もある。
【写真左】東側の公園
奥の高くなったところが土居屋敷だが、手前の低くなったところは、館主の世話などをする者の家や厩などがあったのかもしれない。
説明板では、天正17年長宗我部検地当時、本山采女が住んでいたという。天正17年といえば、長宗我部元親はすでに豊臣秀吉に降伏し、秀吉の臣下として活躍しているころである。
また、その前年に元親は後の高知城となる大高坂城へ最初に移ったころである。
しかし、当時大高坂城周辺部は治水が整備されておらず、一旦旧本拠城であった岡豊城(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)参照)へ戻り、その後天正19年(1591)には浦戸城を築いて移っている。
【写真左】石碑など
北側には巨石などが並び、奥には石碑が建っている。
【写真左】土居屋敷跡と書かれた標柱
【写真左】土居屋敷から南方に本山城を見る。
文字通り指呼の間に本拠城本山城が見えるが、現在は樹木が林立しているため、本丸などは見えない。
【写真左】西側斜面
左側との建物底面より2m前後高い。
【写真左】南側の石垣・その1
南側にはご覧のような石垣が残る。
【写真左】【写真左】南側の石垣・その2
上の石垣を正面から見たもので、高さ4m以上はあるだろう。
このあと、南側斜面を東に進む。
【写真左】南斜面の東部
東に進むにつれて右下の民家との比高差が高くなり、山城の切崖と変わらない様相を呈する。
中段には犬走りのような通路が残る。
【写真左】南東端まで来る。
左上の角が屋敷の石積端にあたる。
【写真左】南斜面を振り返ってみる。
比高差で最大10m以上はあるだろう。
なお、左下にある民家だが、件の説明板にもあるように、江戸期野中兼山による樫ノ川の堰によってできた用水路が流れていたものと思われる。
【写真左】屋敷跡東の公園南側
【写真左】東側の階段と公園
南東端にもこのような階段があり、ここからも出入りできるようにしていたようだ。
右の低い箇所は公園
このあと、この階段を上がって東側に入る。
【写真左】東側
●所在地 高知県長岡郡本山町本山377-2 上街公園
●高さ 250m(比高5m)
●別名 本山屋敷跡
●形態 居館跡
●築城期 戦国期以前
●城主 本山采女、山内刑部・但馬、野中直継・野中兼山、山内下総、孕石頼母
●遺構 石垣
●指定 本山町指定史跡
●登城日 2014年3月17日
◆解説
前稿本山城(高知県長岡郡本山町本山)でも紹介したように、本山城の北西麓には本山氏の居館跡とされた土居跡(以下「土居屋敷」とする)が残っている。
【写真左】本山土居屋敷遠望・その1
本山城直下の北麓から見たもので、この箇所は周囲の住宅地より少し高い位置にある。
現地の説明板より
“本山土居跡
土地の豪族本山氏の土居の一つで、天正17年(1586)長宗我部検地当時は、本山采女が住んでいた。
山内一豊の土佐入国御、慶長6年(1601)山内刑部(永原一照)が本山1300石を与えられてここに住んだが、その子但馬は、私曲の罪によって元和6年(1620)知行を没収されて、佐川の深尾家に預けられたため、それ以来本山土居はしばらく領主不在となった。
【写真左】本山土居屋敷遠望・その2
少し下がった位置から見たもの。
寛永7年(1630)野中直継が本山土居を預けられて、1000石を加増せられ、養嗣子兼山も当然これを受け継いだ。
兼山は藩主忠義の厚い信頼をえて、藩奉行職として敏腕を発揮したが、本山領主としても吉野川の支流の樫ノ川や、木能津川に下津野堰・トドロ堰・ノボリ立堰・カタシ山堰・井口堰を設けて用水をひいて多くの新田を開発し、その余沢を現在まで及ぼしている。
【写真左】当時の想像絵図
現地の説明板に添図されたもので、手前(北側)に門があったようだ。
又寛永20年(1643)に発せられた「本山掟」は、兼山と領民をつなぐ歴史的文書といえよう。 寛文3年(1663)兼山失脚後、本山土居は山内下総、次いで孕石頼母らによって管理されたが、明治になってすべての建物が取りこわされ、今はその石垣にわずかに面影をしのぶばかりである。
本山町教育委員会
昭和57年度高知県文化財保存事業”
【写真左】入口付近
北側を走る道路の脇にあり、写真の右側に数台駐車できるスペースがある。
本山氏から長宗我部・山内氏へ
本山土居屋敷がいつごろ築かれたものかはっきりしないが、本山城が築城された初期、おそらく北麓に同氏及び家臣などの屋敷などが当然建っていたと思われ、当該土居屋敷などもこれらのうちの一つだったと思われる。特に、現在の場所は麓の中でも少し高台にあり、当初城主であった本山氏自身が入っていた可能性もある。
【写真左】東側の公園
奥の高くなったところが土居屋敷だが、手前の低くなったところは、館主の世話などをする者の家や厩などがあったのかもしれない。
説明板では、天正17年長宗我部検地当時、本山采女が住んでいたという。天正17年といえば、長宗我部元親はすでに豊臣秀吉に降伏し、秀吉の臣下として活躍しているころである。
また、その前年に元親は後の高知城となる大高坂城へ最初に移ったころである。
しかし、当時大高坂城周辺部は治水が整備されておらず、一旦旧本拠城であった岡豊城(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)参照)へ戻り、その後天正19年(1591)には浦戸城を築いて移っている。
【写真左】石碑など
北側には巨石などが並び、奥には石碑が建っている。
【写真左】土居屋敷跡と書かれた標柱
【写真左】土居屋敷から南方に本山城を見る。
文字通り指呼の間に本拠城本山城が見えるが、現在は樹木が林立しているため、本丸などは見えない。
【写真左】西側斜面
左側との建物底面より2m前後高い。
【写真左】南側の石垣・その1
南側にはご覧のような石垣が残る。
【写真左】【写真左】南側の石垣・その2
上の石垣を正面から見たもので、高さ4m以上はあるだろう。
このあと、南側斜面を東に進む。
【写真左】南斜面の東部
東に進むにつれて右下の民家との比高差が高くなり、山城の切崖と変わらない様相を呈する。
中段には犬走りのような通路が残る。
【写真左】南東端まで来る。
左上の角が屋敷の石積端にあたる。
【写真左】南斜面を振り返ってみる。
比高差で最大10m以上はあるだろう。
なお、左下にある民家だが、件の説明板にもあるように、江戸期野中兼山による樫ノ川の堰によってできた用水路が流れていたものと思われる。
【写真左】屋敷跡東の公園南側
【写真左】東側の階段と公園
南東端にもこのような階段があり、ここからも出入りできるようにしていたようだ。
右の低い箇所は公園
このあと、この階段を上がって東側に入る。
【写真左】東側
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