2012年2月2日木曜日

満願寺城(島根県松江市西浜佐田町)・その2

満願寺城(まんがんじじょう)・その2

●所在地 島根県松江市西浜佐田町
●登城日 2006年1月9日、及び2012年1月21日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)

【写真左】本堂裏の椿
 満願寺本堂から北側に墓地に向かう道があるが、当院庫裡の西側から主郭付近になっている。
 この写真はその手前に植えられた椿の木で庭園風になっているが、ここを登りきるとすぐに空堀が見えてくる。


 今稿では、湯原春綱の戦歴並びに、満願寺城の遺構を中心に紹介したいと思う。

 春綱の活躍については、「萩藩閥閲録」にかなり詳しく記されている。
 後述すように、春綱の後裔が江戸期に入って、萩藩の重臣として仕え、戦国期の同氏関係記録文書を整理保管してきた来たからだと思われるが、これらの史料は、この時期出雲国へ進出してきた毛利方の動きを知るうえでも、貴重なもののひとつと思われる。
【写真左】空堀・その1
 空堀は北側に東西に延び、その後西側に回って南に延びる。
 写真の左側斜面を上がると、頂部(主郭)がある。


 さて、春綱は天正19年(1591)8月に78歳の生涯を終えたが、尼子から毛利氏に属してからの奮闘ぶりは、大いなるものがあったといえるだろう。

 そして、春綱最晩年のころは、毛利・豊臣の戦いは終わり、秀吉が天下をとり、朝鮮出兵前のときで、波乱にとんだ彼の人生も安息の中での終焉を迎えることになる。

 春綱亡きあと、湯原氏は関ヶ原の戦い後、毛利氏に従い周防国熊毛郡小周防に移り、江戸期には萩藩の要職を務めることになる。
【写真左】空堀・その2
 西側まで伸びた堀はここで、南に角度を変えていくが、このあたりはかなり広いもので、いわゆる「堀切」といった方がいいかもしれない。



湯原春綱の奮闘

 前稿で述べたように、尼子氏から離反し毛利氏に属した湯原春綱は、永禄5年9月27日、元就から所領を安堵された(「鰐淵寺文書・萩閥115」)。この2か月後、満願寺城の東方1.5キロに毛利氏の陣所・荒隅城が完成する。

 この後、春綱は元味方だった尼子氏側と戦うことになる。
主だった戦歴と、満願寺城に関係した事項を時系列で示すと次のようになる。

  • 永禄5年(1562)9月27日、毛利元就、湯原春綱の所領を安堵する(「鰐淵寺文書・萩閥115」
  • 永禄6年(1563)3月6日、湯原春綱、松江大草で尼子義久と戦う(「萩閥115」)。
  • 永禄12年(1569)10月5日、毛利元就・輝元、湯原春綱に対し、尼子再興軍と戦い、毛利方として籠城を決めたことを賞し、平定後に土地などを進める(所領安堵か)ことを伝える(「萩閥115)。
  • 元亀元年(1570)2月7日、毛利元就、湯原春綱に対し、山中鹿助らの満願寺城攻めを撃退したことを賞する(「萩閥115」)。
  • 同年3月3日、吉川元春、湯原春綱に対し、布部(要害山)合戦以降の尼子方諸城の降伏、父春綱(ママ)は高瀬城攻めから、湯の要害に在番しているので、安心することなどを伝える(「萩閥115」)。
  • 同年7月22日、小早川隆景、一昨夜山中鹿助ら熊野城へ兵糧を搬入しようとしたが、約束の場所を間違えて引き返したという湯原春綱の報告を謝し、末次城の普請に応じられるよう、準備すべしと伝える(「萩閥115」)。
  • 同年11月22日、吉川元春、口羽通良・宍戸隆家らに対し、18日に平田へ陣替えしたこと、満願寺城へは、日吉・大庭あたりに進出している富田城の兵を待ってから、行くつもりであること、口羽・宍戸らも満願寺城へ向けて渡海すべきことなどを伝える(「萩閥100」)。
【写真左】空堀・その3
 西側のもので、南方向へ伸びていくが、途中から少し西に角度を変え、そのまま斜面に落としている。
 左側の斜面が主郭の切崖になるが、写真で見る以上に角度があり、何度か足元をとられた。


 なお、右側のものは事実上土塁の用途として構築されたと思われ、高さは1~2m前後ある。


  • (※)同年11月29日、尼子勝久、出雲・隠岐の兵船で満願寺城を攻めるが、湯原春綱に撃退される
  • (※)同年11月29日、毛利輝元、湯原春綱に対し、22日夜、尼子方の兵船による満願寺城攻撃を撃退したことを賞する(「萩閥115」)。(「萩閥115」)。
      (※)印の戦いについては、実際に攻めてきたのは尼子勝久に与同していた但馬の日下部氏庶流の奈佐日本助らである。彼については、芦屋城(兵庫県新美方郡温泉町浜坂)でも紹介したように、当城の城主・塩冶周防守高清らと、常に行動を共にし、最期は秀吉の鳥取城攻めにおいて丸山城で討死することになる。

       湯原春綱が尼子方(奈佐日本助ら)の攻撃を駆逐したその日のうちに、毛利輝元が春綱に対し賞していることは、毛利方にとって重要な戦であったことがうかがえる。

       この勝利によって、翌12月には、元就・輝元の名によって、多賀元竜に島根郡東長田の土地を与え、白潟・馬潟の橋役を免じ、翌元亀2年(1571)の正月には、真山城にあった尼子方の二つの船のうち、一つは奪取し、もう一つは破却することができている。

       そしてもう一つの大きな成果となったのは、下段に示す斐川の高瀬城落城につながることである。
      【写真左】主郭東側の段差
       全体に遺構箇所は整備されていないため、写真で見てもわかりにくいが、主郭の東側、すなわち当院庫裡側には1.5m程度の段差を持たせた小腰郭が残る。



      高瀬城の落城

       この時期における宍道湖岸でのもう一つの戦いが行われていたのは、宍道湖南西にある斐川の米原綱寛が拠る高瀬城である。
      【写真左】斐川の高瀬城
       北麓からみたもので、左側が本丸、以降右に向かって二の丸・三の丸と続く。







       以前にも紹介したように、尼子方に寝返った米原綱寛の拠る高瀬城に対する、毛利氏側の主力部隊は、出雲林木の鳶ヶ巣城(宍道氏(毛利氏)・鳶ヶ巣城(島根県出雲市西林木町)参照)から平田手崎城・布崎城(平田城(島根県出雲市平田町極楽寺山)参照)に本陣を移した吉川元春らの軍である。

       高瀬城は前年(元亀元年)、麓に兵糧として予定していた稲を毛利方によって焼き尽くされ、城内には食べるものが無くなっていった。このため、高瀬城からは夜陰に乗じて密かに船を出し、尼子再興軍の拠る松江法吉の真山城へ兵糧の調達に向かわざるを得なかった。
      【写真左】主郭付近
       この辺りが頂部で、20m×15m程度の平坦地となっている。









       しかし、このころ(元亀2年)の宍道湖全域は、上述したようにほぼ毛利方に支配され、なかんずく湯原春綱の拠る満願寺城が、その行く手を阻むことになった。高瀬城から宍道湖を使って真山城へ向かうには、大きなリスクを伴うことになる。
      【写真左】高瀬城本丸から真山城方面を見る。
       左から、満願寺城・真山城・荒隅城・和久羅山城などが俯瞰できる。



       このため、米原綱寛らの兵糧調達の計画はほとんど成功しなかったとみえ、この年(元亀2年:1571年)3月19日、ついに高瀬城は落城した。
      【写真左】主郭南端部
       藪コギのためわかりにくいが、この奥は宍道湖に向けて断崖絶壁になっている。


       従って、その1m程度手前付近から地面が軟弱に感じられたので、あわてて引き返した。



      加賀城の普請
      • 元亀2年(1571)3月3日、毛利元秋、湯原春綱に対し、桃の節句の祝儀を謝すとともに、加賀城の普請を命ずる(「萩閥115」)。
       加賀城とは、現在の松江市島根町浜田にある城砦(H152m)で、真山城に拠って再興をはかるも、所々で敗戦をきした一部の尼子残党が、再び隠岐の島へ奔走することを察知し、築いたものである。
      【写真左】加賀城
       島根町加賀にある山城で、手前は應海寺。残念ながら、遠望のみで未だ登城していない。






       尼子残党は、それでも何とか追ってをかわし、隠岐の島へ逃げ帰るが、湯原春綱をはじめとする毛利方は、追討の手を緩めず隠岐の島に上陸し、下段に示すように同島は完全に毛利氏の支配下にはいった。

       ただ、このとき真山城からは尼子残党はすべて隠岐へ向かったわけではなく、残りは依然として真山城に残って最後の戦いを挑むことになるが、8月21日ついに落城することになる。
      • 元亀2年(1571)6月4日、湯原春綱、隠岐国に渡り尼子方・隠岐弾正らを降伏させる(「萩閥115」)。
      • 同年6月5日、毛利輝元、湯原春綱に対し、隠岐全体が味方になったことを喜ぶとともに、20日に新山(真山)城攻めに、吉川元春が着陣することを伝え、満願寺城在番の心労を慰労する(「萩閥115」)。
      【写真左】空堀側から主郭を見上げる。
       再び元の位置にもどり主郭を見上げたもので、このあと、一旦北側にある墓地に出て、そのあと、西側に延びる出城といわれた箇所に向かう。



      元亀3年以降

      元亀3年(1572)から天正9年(1581)の動きとしては、春綱に対する論功行賞などの記録が多い。このころの宛行地は、ほとんど島根半島北の海岸部で、すなわち得意としていた水軍領主としての顔が見える。
      • 元亀3年(1572)閏1月27日、毛利輝元、湯原春綱に対し、船1艘(18丁引)の浦役を免除する旨を伝える(「萩閥115」)。
      • 天正2年(1574)3月19日、湯原春綱、毛利氏に対し、佐陀浦・氷の浦・おわし(大芦)・加賀浦・野波浦・のい瀬崎・ちくみかさの浦・北浦・かたゆい浦・もろくいの帆役を求め、4月22日に承認される(「萩閥115」)。
      • 同年4月22日、毛利輝元、湯原春綱に出雲国佐陀浦ほか9浦の帆役を与える(「萩閥115」)。
      【写真左】主郭と出城の中間地点
       主郭から北西方向に延びる長い鞍部には、現在墓地が点在し、遺構の確認は困難だが、おそらく当時はこの辺りも帯郭のような遺構だったと思われる。
       写真は、当院の永代供養塔。



       天正9年(1581)になると、春綱は伯耆国へ在番を命じられるが、これはこのころすでに豊臣秀吉が因幡国攻め(鳥取城攻めなど)を開始している時期で、伯耆・岩倉城(鳥取県倉吉市岩倉)へ向かったのは、天正7年に、岩倉城主・小鴨元清と、兄南条元続が、毛利氏を離反し織田氏に通じたため、毛利方大将・吉川元長に追陣するためであった。
      • 天正9年(1581)8月11日、吉川元春・元長、湯原春綱に対し、平田での長期滞陣を謝し、佐波恵連に代わり、伯耆国岩蔵城に在番するよう命ずる(「萩閥115」)。
      【写真左】岩蔵城
       鳥取県倉吉市岩倉にある山城で、岩倉城または、小鴨城といわれ、律令時代から名が残る小鴨氏が鎌倉時代に築いたといわれる。
       
      【写真左】郭か
       出城といわれている箇所の手前には南側に郭の痕跡を残す墓地が見える。
       写真の右隅には、小規模な五輪塔が一基祀られている。

       この写真の左側には高さ6,7mにわたって切崖状の斜面が残り、東西に挟まれた平坦地があった。
      【写真左】出城跡の最高所
       墓地はこの辺りまで伸びており、最高所付近にも墓石がある。
       おそらく、この箇所が出城の主郭だったと思われる。
      【写真左】殿山城遠望
       ところで、満願寺城からは、殿山城が指呼の間にある。
       
       天文元年(1532)、尼子興久が父・経久の逆鱗に触れ戦ったといわれた佐陀城は、この殿山城とも言われている。
       また、別説ではこの満願寺城だともいわれているが、昨今では前者(殿山城)とする説が有力である。

      2 件のコメント:

      1. こんにちは。
        私も山陰の中世城郭を徘徊しているもので、
        いつも拝見し、勉強させて頂いています。
        今日は、久しぶりに雪が上がったので、和久羅山へ登城してきました。
        こんな感じで、私も地道にポツポツと出雲~因幡、美作あたりの城郭を楽しんでいます。

        この度、読者として登録させて頂きました。
        今後とも考察織り交ぜた登城記、よろしくお願い致します。

        岩倉城は、登山口がわかりにくいですよね…。
        私も困ってしまい、畑仕事をしていた地元のお婆さんに尋ねて、草に埋もれかかっている登山口を発見し、登城できました。
        山頂部の遺構、倉吉市街方面の眺望、ともによかったです。

        岩倉に再挑戦されての登城記と考察をお待ちしています。

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        1. arteartek様
          メールありがとうございます。
          また読者登録ありがとうございます。
           
           出雲~因幡、美作地域の城郭を探訪とのこと、私も出雲に住んでいるため、「西国の山城」という看板の割には山陰以外が少ないことになっています。
           
           登山口がわからないとき、地元の人に聞くのが一番ですね。ただ、山間部に行くにしたがって人が少ないため、事前の下調べが必要ですね。それでもわからない場合は、ほとんど「ヤマ勘」のようなアプローチになります。

           いずれ岩倉城も再度挑戦したいと思っていますが、困ったことに「行きたい山城」がコロコロと変わる「浮気性?」があるものですから、いつになるかわかりません。

           「考察織り交ぜた登城記」に今後とも継続できるかわかりませんが、身体と気力がある限り続けていきたいと思っています。

           今後ともご笑覧ほどよろしくお願いします。

          トミー拝

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