2012年2月14日火曜日

横田山城(島根県松江市美保関町森山)

横田山城(よこたやまじょう)

●所在地 島根県松江市美保関町森山
●築城期 戦国期か
●築城者 不明
●城主 秋上庵介・久利佐馬助など
●高さ 50m
●形態 海城
●遺構 郭・石垣・堀切・連続竪堀・虎口
●備考 金刀羅山
●登城日 2012年1月21日

◆解説(参考文献『新雲陽軍実記』編著者:妹尾豊三郎等)
 前稿まで宍道湖周辺の山城や海城を取り上げてきたが、今稿では宍道湖の東に繋がる中海を望む海城・横田山城を取り上げる。
【写真左】横田山城遠望・その1
 境水道を挟んだ南側・境港市側から見たもの。


 小丘形態の海城で、小規模なものだが、南北の切崖などは天然の要害をもち、遺構の種類も多い。



 ところで、宍道湖や中海に流れた水は日本海に注いでいるが、その大半を賄うのは島根半島と伯耆(鳥取県)の弓ヶ浜半島との間を流れる「境水道」である。長さおよそ5キロ弱、平均幅400mという狭い海峡を通って日本海に注ぐ。

 一般的には、宍道湖や中海といった名称から、個々の湖が連結され海に注いでいるという理解になるが、河川法的には、宍道湖も中海も、そして境水道も上流部から流れる一級河川・斐伊川の一部とされている。
【写真左】遠望・その2
 同じく境港側から見たものだが、西側に移動して撮ったもの。


 左側に少し大きな建物が見えるが、造船所のドッグで、入江状に深い奥行を持っている。おそらく、東側の船着き場と併せ、この箇所には戦国期、陸揚げされた多くの軍船が置かれていたのではないだろうか。


 また、現在でも造船所が点在しているが、当時からこの場所では軍船の造船所があったものと思われる。



 もっとも、この斐伊川も江戸期の寛永12年(1635)の斐伊川大洪水によるまでは、宍道湖に流れず、反対側である西方の神門水湖(神西湖の前身)に流れていたので、戦国期における中海や宍道湖といった島根半島の地勢は大分違っていたものと思われる。

 さて、今稿の「横田山城」はその境水道の北岸に築城された城砦である。この境水道の北岸(島根半島側)には、この他に東方に「権現山城」及び「鈴垂城」などが残る。

 毛利元就が月山富田城を攻めたのは数回に及ぶが、そのうち永禄8年(1565)の秋の段階では、荒隅城を出立し、富田城の西方に向城(京羅木山城・砦群(島根県八束郡東出雲町植田)・石原山・勝山など)を置き、中海・宍道湖周辺の端城にも厳しく扼するための陣を置いている。
【写真左】遠望・その3
 北側から見たもので、手前の東西に走る道路は、国道431号線。右に行くと松江市、左に行くと美保関神社方面。


 上掲したように、現在は陸地となっているが、この辺りまで浜となっており、船が陸揚げされていたのではないだろうか。


 この端城の一つとされるのが横田山城などで、その際、境水道を封鎖する役を担った武将としては、長屋小次郎の名が残る。

 このルートは、伯耆国側から海路を伝って富田城へ支援する動きを封鎖するもので、おそらく、このころ横田山城・権現山城・鈴垂城の三城とも毛利方に抑えられていたのであろう。

 下って永禄12年(1569)になると、既述したように尼子再興軍が登場し、再び毛利方との激戦が繰り広げられるが、忠山城(島根県松江市美保関町森山)真山城(島根県松江市法吉町)の稿でも触れたように、当初鹿助らの活躍によって、中海周辺を含め、出雲の主だった城砦の争奪戦が繰り広げられる。
【写真左】横田神社
 東麓に祀られている社で、縁起などは設置されていないが、航海の安全を祈願する社であろう。






 ところで、横田山城については、この名称で軍記物に出ている記録はない。

 ただ、当地名・森山の名が入る「森山城」または「守山城」という記述があり、このことから、「森山城」というのは、美保関森山地区にある三城(横田山城・権現山城・鈴垂城)のいずれかと思われる。
【写真左】横田山城略図
 城砦としての図ではないが、現地に設置されたもので、当日この図に登城道が記されていることが分からず、横田神社の後ろから、道なき道を喘ぎながら登った。


 下山して再び境内にこの図を発見し、南側にしっかりと道が描かれているのを見たとき、思わず絶句してしまった。

秋上庵介

 さて、当城の城主の一人として、永禄年間には秋上庵介の名が残る。
「雲陽軍実記」「陰徳太平記」などでその名が知られ、明治から大正初期にかけて発刊されたポケット本「立川文庫」に、初めて「尼子十勇士」の一人として登場し、その後、地元広瀬町(現安来市)で創立された「広瀬少年剣士会」でも、山中鹿助を筆頭として、彼の名が出てくる。
【写真左】登城始点
 社の後ろにこのようなしめ縄があったため、このまま行けると思い込んだのが間違いだった。


 人間でいえば、そろそろ「喜寿」を迎える老女犬(チャチャ丸:雌ですが)は、もうこの段階で、登城拒否をしたため、管理人一人でチャレンジ。


 秋上庵介は、正式名・秋上庵介久家(伊織介ともいわれる)といい、元は松江市の南方にある大庭大宮(現在の神魂(かもす)神社)の大宮司・秋上三郎左衛門綱平の子である。

 この神魂神社及び宮司とされる秋上氏については、室町期から戦国期にかけて尼子氏が関わる記録が何点か残っている。

【写真左】神魂神社
 松江市大庭町にあり、近くには出雲国造館跡・八重垣神社をはじめ、多くの古墳が点在している。
祭神 伊弉冊大神・伊弉諾大神





 戦国期における神魂社(神魂神社)については、別稿で取り上げる予定(神魂神社(島根県松江市大庭町)参照)だが、室町期における同社の状況は、杵築(大社)国造である北島氏の支配下にあり、尼子経久が登場してくると、その北島氏が尼子氏の支援を仰ぐようになっていく。
【写真左】宝篋印塔
 少し上ると、北側の位置に畑が見え、その脇にはご覧の宝篋印塔が見えた。


 小規模なものだが、その左側には五輪塔形式のような部位が残る。




 そして、永禄6年ごろに至ると、毛利氏の支配下に入り、神魂社も同氏から改めて所領の安堵を受けていくことになる。

 しかし、永禄12年(1569)6月の尼子勝久・山中鹿助らの尼子再興軍が蜂起した際は、秋上三郎左衛門綱平・久家(庵介)父子は、他の諸将と同じく馳せ参じたが、元亀元年(1570)5月、清水寺(安来市)の大宝坊が毛利に降った際、毛利の部将・野村信濃守士悦らによって、秋上父子も毛利に再び属した。

  おそらく、その直後と思われるが、秋上久家が毛利氏に属した後、森山城(横田山城か)の城主として、一時的に大根島にある全隆寺城の城主であった小川右衛門が入っている。

小川右衛門は最期まで尼子氏に属した武将で、状況から考えると、居城としていた全隆寺城を離れ、境水道区域の船戦(ふないくさ)で討死したと思われる。
【写真左】堀切・その1
 細い尾根と倒木に遮られ、かなり苦労しながらかき分けていくと、最初に堀切が見える。


 深さ3m弱で、南北が険しい切崖のため効果は極めて高いだろう。



 さて、秋上父子が尼子氏に属していたころ、毛利氏が出雲に侵入したとき、三刀屋の多久和城を守備していたが、まともに防戦もせず敗走し、また月山富田城を守っていたときは、毛利方天野隆重の謀計にかかって、七曲りで敗戦するなど、芳しい戦歴はほとんど残っていない。

 こうしたことから、勝久や鹿助などからあまり信任を受けていないこともあり、最終的に毛利に与したのかもしれない。

久利佐馬助の森山城守備

 尼子再興軍が出雲国から撤退し、鹿助らが織田方として畿内を転戦していた天正5年(1577)4月、吉川元春は久利佐馬助に森山城の守備を命じている(「久利文書」)。

 このころの出雲国は、ほとんど毛利方に支配され、輝元を中心に戦後処理として鰐淵寺の再建や、日御碕神社及び、八重垣神社造営などの事業が進められている。

 このような状況下であるにも拘わらず、吉川元春が森山城のみに重きをおいたのは、やはり境水道という戦略的に重要なルートが無防備のままでは危険と感じたからであろう。特に、鹿助の戦法である水軍の動きはもっとも警戒すべきことであったからである。
【写真左】堀切・その2
 先ほどの堀切をこえて上部の方へ登ろうとしたが、周囲に取りつく場所がなく、西側へ大きく回りながら、何とかこの位置まで来る。


 久しぶりにリアリティな堀切に出会った。戦国期なら、こんな場所でモタモタしていたらすぐに上からの攻撃を受けてひとたまりもないだろう。


 しかも、堀切とは別に、北から西面にかけて、竪堀が10か所も施されている。比高が低いこともあって、城砦遺構としては密度が高い。
【写真左】北東部の郭
 頂部は北東から南西にかけて細長い削平地が残るが、このうち北東部については、写真のように荒れ原野状態になっている。


 アンテナの残骸が見えるが、おそらく麓の民家のテレビ共調アンテナだったのだろう。
 この後、南西部に進む。
【写真左】南側の切崖
 急傾斜地崩壊危険区域という指定があるように、この箇所は断崖絶壁で地盤も脆いようだ。
 天然の要害である。
【写真左】祠
 南西部側に進んでいくと、頂部半分過ぎた地点で突然整備された削平地が現れる。


いわゆる主郭だったところ思われるが、北側に少し高くなった壇の上に祀られている。
【写真左】西(南)側に向かう郭段
 このルートが冒頭で紹介した登城道で、最初からこの道が分かっておれば、随分と楽に登ることができたと思われるが、遺構の踏査から考えると、これはこれでまたいいのかもしれない。
【写真左】虎口か
 南西端で大きく道がターンし、東の斜面に繋がって降りるコースとなる。


大分劣化したため、明瞭でないが、おそらく虎口跡と思われる。
【写真左】下山途中から境水道を見る。
 右側が境港市で、左側の山は島根県側の島根半島。
【写真左】登城口の鳥居
 下山すると、終点に鳥居がある。ここから登れば、あっという間に向かうことができた。

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