法勝寺城(ほっしょうじじょう)
●所在地 鳥取県西伯郡南部町法勝寺
●別名 尾崎城
●形態 平山城
●築城期 文明年間か
●築城者 山名氏
●城主 毛利氏・三村家親
●高さ 60m(比高40m)
●遺構 郭・土塁・空堀・堀切・竪堀
●指定 南部町指定文化財(平成16年10月1日)
●登城日 2007年3月18日及び2012年2月24日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』)
法勝寺城は、以前紹介した小松城(鳥取県南部町)、手間要害山(鳥取県西伯郡南部町寺内)及び鎌倉山城(鳥取県西伯郡南部町笹畑)と同じ、鳥取県西伯郡南部町に所在する城砦である。
【写真左】法勝寺城遠望・その1
北西方向から見たもので、右側は法勝寺中学校の校舎。
なお、この写真の右側一帯は「馬場」地区と呼ばれている。
初めて法勝寺城を探訪したのは2007年で、遺構部分の雑草・雑木が多く、良好な状態とは言えなかった。
このため撮影した写真も今一つのものばかりで、これまで投稿を保留してきた。今回、5年振りに当城を目指したところ、タイミングよく整備・伐採作業の真っ最中で、主だった箇所はほとんど終了し、全容が明瞭に確認できた。
【写真左】登城口付近
登城口は北東麓側の法勝寺側にあり、当城が桜の公園も兼ねているせいか、駐車場は広い。
この写真は後述する当城の城主といわれた毛利本昭の墓で、左側の灯篭の後ろに古い五輪塔が残っているので、当時はこの墓石が本昭のものだったのだろう。
手前の道を左を進んでいくと、登り坂となった登城道が見える。
ただ、この日はこれとは別に、写真の後ろにある道幅の狭いもう一つのコースから登って行った。
現地の説明板より
“南部町指定文化財
法勝寺城址
平成16年10月1日指定
毛利氏によって永禄7年(1564)築城され、吉川元春の家臣三村家親が城主となった。家親は、尼子方の八橋城を攻略し、城将吉田源四郎らを敗走させた。
一説によると、法勝寺城には毛利遠江守本昭が城主になったが、尼子遺臣の山中鹿助により攻められ落城し、本昭は自刃して果てた、という悲話が伝えられている。
中世特有の典型的な山城で、本丸・二の丸で構成され、土塁や空堀が残っている。
今では、城山公園として整備され、桜の名所である。
平成17年3月
南部町教育委員会”
【写真左】空堀
法勝寺城は東西幅150m、南北200~300mの規模を持ち、北から南に向かって北側郭群・主郭群と並んでいるが、主郭群の南堀を隔ててさらに南にも出城形式のものも確認できることから、南北の総延長は400mを超えるかもしれない。
この空堀は左(南)の主郭群と右(北)の北郭群の間に設けられたものである。
駐車場側からすぐに見える場所にある。
築城期
法勝寺城の築城期については諸説あり、確定はしていない。
現地の説明板では、永禄7年(1564)と記されているが、別説では文明年間またはそれ以前とも言われている。後記の頃とすれば、やはり応仁の乱が絡んだ時期と考えられ、その頃の伯耆国を支配していた山名氏一族の者が築城者となるだろう。
【写真左】東側一段目の郭
主郭群は東側から西に向かっておよそ3段の郭構成となっている。
主郭は3段目の南西隅の郭に置かれ、南北中央部を九十九折状の連絡路が走る。
この写真は一段目の北側の郭で、左側の切崖の上には2段目の郭がある。
戦国期
説明板にもあるように、この時期の城主は三村家親といわれている。
三村家親は、備中備中・国吉城(岡山県高梁市川上町七地)でも紹介したように、出自は同国の鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)の城主で、嫡男元親とともに最も早く毛利方に属している。
家親が法勝寺城を手中に収める前、立て籠もったといわれるのが、南部町の南隣・日野町中菅にあった不動ヶ嶽城といわれている。不動ヶ嶽城の場所は比定されておらず不明だが、現在の日野町黒坂の地区にあたるため、江戸期に築城された黒坂城跡(鳥取県日野郡日野町黒坂)と近い場所にあったものと思われる。
【写真左】東側二段目の郭
一段目を登ると、次に二段目の郭が控える。
南側から見たもので、幅は5~8m前後、奥行は手前の延長部まで含めると100m近くはあるだろう。
さて、その家親は最終的に永禄9年(1566)2月、宇喜多直家によって暗殺されることになる。したがって、法勝寺城に在城していたのは、その2年前になるが、八橋城跡(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)での戦いはおそらく彼にとって伯耆国での最後の戦いと思われる。
というのも、その頃家親は、毛利方備中国の先鋒としての任務が主で、同国を押さえながら、西美作の三浦氏の美作・高田城(岡山県真庭市勝山)を落とし、東美作の浦上氏と対峙する状況にあった。しかし、浦上氏の家臣であった宇喜多直家の急激な台頭により、浦上氏に代わって宇喜多氏が備前美作を扶植していった。
この結果、家親は宇喜多氏に暗殺された(「興禅寺」)ため、嫡男元親が父の仇を討たんとして、備前の明禅寺城(岡山県岡山市中区沢田)において激戦に及んだが、あえなく元親は敗退してしまった。
【写真左】西端部の郭
三段目の郭となるが、この郭は主郭のものではなく、主郭の真北に独立して突き出しているもので、規模は小さいものの、北方への監視を目的とした物見台だったのだろう。
写真奥にみえるのは米子市方面。
毛利遠江守本昭
ところで、法勝寺城の説明板に記されているもう一人の城主とされる「毛利遠江守本昭」なる武将だが、毛利元就の系図からもこの名前では見いだされない。
ただ、文字は違うものの、読みとして同じものは、今月取り上げた神魂神社(島根県松江市大庭町)の稿で、出雲・真山城の落城を祝し、同社に神馬を奉納した富田城城番役・毛利元秋がいる。
【写真左】主郭の切崖
上記の郭から南へ振り返ってみると主郭が見える。
高低差は約4m前後。
彼は、元就の五男で、母親は三吉氏から嫁いだ側室である。
元秋は後に、実子がいなかった周防国の国人領主・杉森(椙杜)隆康の元へ養子に入るが、しばらくして杉森氏との養子縁組を解消し、再び毛利元秋と名乗った(毛利元秋墓所・宗松寺跡(島根県安来市広瀬町広瀬富田)参照)。
元秋は尼子再興軍が蜂起した際は、ほとんど月山富田城を守備し、鹿助らの攻撃を防ぎ、天正13年(1585)当城で病没しているので、このことから法勝寺城の「本昭」とは同一人物ではないと思われる。
【写真左】主郭から北方を見る。
上記の郭が三角状に見える。
麓は法勝寺の町並み。このまま北に降ると、手間要害山城につながる。
どちらにしても、法勝寺城は尼子晴久の時代ごろまでは同氏の支配下にあったが、永禄7年に毛利方三村家親によって落とされ、家親が当城を去ったあと、毛利方の別の武将が拠ったはずなので、その城主として、この毛利本昭なる人物が想定されるだろう。
そこで、本昭が在城した時期だが、鹿助によって攻撃され、自刃したとされるから、永禄8年(1565)4月28日に毛利元就が一旦富田城攻撃を止め、兵を引いたころか、または永禄12年(1569)隠岐国から忠山に入った尼子再興軍が蜂起し、元亀2年(1571)8月鹿助が伯耆末石城で捕らわれるまでの間かもしれない。
【写真左】主郭・その1
主郭群の南西端に設置されていることから、三角状の形状を持ち、北東面に長く、東西40m、南北30mの規模となっている。
後者の説を想定すると、以前取り上げた備中の幸山城・その2(岡山県総社市清音三因)で検証した「元亀2年2月の尼子勝久(現地には晴久と誤記されているが)らの備北諸城の制圧」を史実とすれば、この時期と重なる。
つまり、この年(元亀2年)鹿助らは、尼子再興軍の一部を出雲に残し、自らは備北へ攻め入るため、この法勝寺往来(国道180号線)を南下する際、当城を落とし、さらに南下していったと考えることもできるからである。
【写真左】主郭・その2
主郭の南側には約15m前後にわたって土塁状の遺構が残る。高さは50cm程度とやや低いが、当時は1m程度はあったものと思われる。
【写真左】主郭・その3
南端部から北を見たもの。
【写真左】東側二段目の南郭
形態としては帯郭というべき構成だが、左の主郭を防備する郭段で、不定型な形ながら総延長は150m前後はあるだろう。
【写真左】主郭群南端部の鞍部
主郭群の南端部はご覧のような鞍部に道が設置されている。
この道はこの後右に折れ、北の方へ空堀へとつながっているが、おそらくこの写真の左側にある出丸との接点になるため、この箇所も堀切のような遺構があったのかもしれない。
次にはその出丸と思われる南側の箇所を掲載しておく。
【写真左】出丸・その1
主郭群ほどの明確な遺構はないが、頂部にたどり着く手前に一か所郭段が構成されている。
【写真左】出丸・その2
頂部には現在簡易水道のタンクが設置されているため、当時の遺構は確認できないが、物見台のようなものがあったと思われる。
というのも、この出丸のある小丘から南方には、次に示す「戸構城」というおそらく法勝寺城の支城があったため、両城間の連絡としては当然こうした城砦施設があったと考えられるからである。
【写真左】戸構城
小規模な丘城というべきもので、踏査はしていないが、遺構として土塁・郭があるという。
なお、この写真の右(北)側に出丸・法勝寺城がある。
【写真左】法勝寺城主郭群と空堀
再び本城・法勝寺城に戻って、先ほどの主郭南端部から右に回ると、北にほぼ真っ直ぐと空堀が伸びる。
右側が主郭群で、左側は長大な土塁(防塁)群。
この土塁の左側は現在法勝寺中学校の敷地(グランド)などになっているが、おそらく当時は屋敷跡ではなかったかと思われる。
【写真左】主郭群と北郭群の分岐点
空堀形状となって、両群を分離している。
写真右側が主郭群、左側が北郭群。
なお、この空堀をそのまま降ると、冒頭で示した東側駐車場の空堀につながる。
【写真左】北郭群・その1
この位置からは比高は高く見えないが、頂部から北東部の麓を見ると、思った以上の比高がある。
【写真左】北郭群・その2 空堀
おそらく先ほどから歩いてきた空堀の延長線上のものだったと思われるが、幅は大分狭くなっている。
この先で城域の最北端となっている。
【写真左】西の出丸か
北郭群から西に見えるもので、学校の敷地内になっていたため、踏査していないが、おそらく法勝寺城もしくは、屋敷跡の一部だったかもしれない。
【写真左】祠跡か
主郭と北郭群の間にあった空堀の東端部で、この箇所では空堀が二つに分かれ、南側には屹立した土塁状の高まりが残る。
この写真はその高まりの先端部にあった石積みだが、おそらく当城を祀った祠などが建立されていたのかもしれない。
【写真左】法勝寺城遠望・その2
東側から見たもので、手前の川は法勝寺川。
戦国期はおそらくこの法勝寺川が麓まで広がり、事実上水堀の役目をしていたと思われる。
春になると、この川土手に一斉に満開の桜が並び見事な景色となる。
【写真左】経久寺
法勝寺城から法勝寺川を挟んで東方の新宮谷に経久寺がある。
この寺は、文字通り尼子経久を菩提するため、永禄年間(1558~69)に創建されたといわれている。
経久は、天文10年(1541)11月3日(陰徳記)に亡くなるが、その後30年忌日の元亀元年(1570)11月13日の日付で納めたといわれる経久の位牌が安置してあるという。
【写真左】経久寺本堂の鬼瓦
本堂の鬼瓦には尼子氏(佐々木氏)の家紋である「平四つ目結」が見える。
【写真左】経久寺から法勝寺城を遠望する。
法勝寺城の東面とほぼ正対する位置にあり、当城の全景を確認できる。
◎関連投稿
瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)
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●築城者 山名氏
●城主 毛利氏・三村家親
●高さ 60m(比高40m)
●遺構 郭・土塁・空堀・堀切・竪堀
●指定 南部町指定文化財(平成16年10月1日)
●登城日 2007年3月18日及び2012年2月24日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』)
法勝寺城は、以前紹介した小松城(鳥取県南部町)、手間要害山(鳥取県西伯郡南部町寺内)及び鎌倉山城(鳥取県西伯郡南部町笹畑)と同じ、鳥取県西伯郡南部町に所在する城砦である。
【写真左】法勝寺城遠望・その1
北西方向から見たもので、右側は法勝寺中学校の校舎。
なお、この写真の右側一帯は「馬場」地区と呼ばれている。
初めて法勝寺城を探訪したのは2007年で、遺構部分の雑草・雑木が多く、良好な状態とは言えなかった。
このため撮影した写真も今一つのものばかりで、これまで投稿を保留してきた。今回、5年振りに当城を目指したところ、タイミングよく整備・伐採作業の真っ最中で、主だった箇所はほとんど終了し、全容が明瞭に確認できた。
【写真左】登城口付近
登城口は北東麓側の法勝寺側にあり、当城が桜の公園も兼ねているせいか、駐車場は広い。
この写真は後述する当城の城主といわれた毛利本昭の墓で、左側の灯篭の後ろに古い五輪塔が残っているので、当時はこの墓石が本昭のものだったのだろう。
手前の道を左を進んでいくと、登り坂となった登城道が見える。
ただ、この日はこれとは別に、写真の後ろにある道幅の狭いもう一つのコースから登って行った。
現地の説明板より
“南部町指定文化財
法勝寺城址
平成16年10月1日指定
毛利氏によって永禄7年(1564)築城され、吉川元春の家臣三村家親が城主となった。家親は、尼子方の八橋城を攻略し、城将吉田源四郎らを敗走させた。
一説によると、法勝寺城には毛利遠江守本昭が城主になったが、尼子遺臣の山中鹿助により攻められ落城し、本昭は自刃して果てた、という悲話が伝えられている。
中世特有の典型的な山城で、本丸・二の丸で構成され、土塁や空堀が残っている。
今では、城山公園として整備され、桜の名所である。
平成17年3月
南部町教育委員会”
【写真左】空堀
法勝寺城は東西幅150m、南北200~300mの規模を持ち、北から南に向かって北側郭群・主郭群と並んでいるが、主郭群の南堀を隔ててさらに南にも出城形式のものも確認できることから、南北の総延長は400mを超えるかもしれない。
この空堀は左(南)の主郭群と右(北)の北郭群の間に設けられたものである。
駐車場側からすぐに見える場所にある。
築城期
法勝寺城の築城期については諸説あり、確定はしていない。
現地の説明板では、永禄7年(1564)と記されているが、別説では文明年間またはそれ以前とも言われている。後記の頃とすれば、やはり応仁の乱が絡んだ時期と考えられ、その頃の伯耆国を支配していた山名氏一族の者が築城者となるだろう。
【写真左】東側一段目の郭
主郭群は東側から西に向かっておよそ3段の郭構成となっている。
主郭は3段目の南西隅の郭に置かれ、南北中央部を九十九折状の連絡路が走る。
この写真は一段目の北側の郭で、左側の切崖の上には2段目の郭がある。
戦国期
説明板にもあるように、この時期の城主は三村家親といわれている。
三村家親は、備中備中・国吉城(岡山県高梁市川上町七地)でも紹介したように、出自は同国の鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)の城主で、嫡男元親とともに最も早く毛利方に属している。
家親が法勝寺城を手中に収める前、立て籠もったといわれるのが、南部町の南隣・日野町中菅にあった不動ヶ嶽城といわれている。不動ヶ嶽城の場所は比定されておらず不明だが、現在の日野町黒坂の地区にあたるため、江戸期に築城された黒坂城跡(鳥取県日野郡日野町黒坂)と近い場所にあったものと思われる。
【写真左】東側二段目の郭
一段目を登ると、次に二段目の郭が控える。
南側から見たもので、幅は5~8m前後、奥行は手前の延長部まで含めると100m近くはあるだろう。
さて、その家親は最終的に永禄9年(1566)2月、宇喜多直家によって暗殺されることになる。したがって、法勝寺城に在城していたのは、その2年前になるが、八橋城跡(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)での戦いはおそらく彼にとって伯耆国での最後の戦いと思われる。
というのも、その頃家親は、毛利方備中国の先鋒としての任務が主で、同国を押さえながら、西美作の三浦氏の美作・高田城(岡山県真庭市勝山)を落とし、東美作の浦上氏と対峙する状況にあった。しかし、浦上氏の家臣であった宇喜多直家の急激な台頭により、浦上氏に代わって宇喜多氏が備前美作を扶植していった。
この結果、家親は宇喜多氏に暗殺された(「興禅寺」)ため、嫡男元親が父の仇を討たんとして、備前の明禅寺城(岡山県岡山市中区沢田)において激戦に及んだが、あえなく元親は敗退してしまった。
【写真左】西端部の郭
三段目の郭となるが、この郭は主郭のものではなく、主郭の真北に独立して突き出しているもので、規模は小さいものの、北方への監視を目的とした物見台だったのだろう。
写真奥にみえるのは米子市方面。
毛利遠江守本昭
ところで、法勝寺城の説明板に記されているもう一人の城主とされる「毛利遠江守本昭」なる武将だが、毛利元就の系図からもこの名前では見いだされない。
ただ、文字は違うものの、読みとして同じものは、今月取り上げた神魂神社(島根県松江市大庭町)の稿で、出雲・真山城の落城を祝し、同社に神馬を奉納した富田城城番役・毛利元秋がいる。
【写真左】主郭の切崖
上記の郭から南へ振り返ってみると主郭が見える。
高低差は約4m前後。
彼は、元就の五男で、母親は三吉氏から嫁いだ側室である。
元秋は後に、実子がいなかった周防国の国人領主・杉森(椙杜)隆康の元へ養子に入るが、しばらくして杉森氏との養子縁組を解消し、再び毛利元秋と名乗った(毛利元秋墓所・宗松寺跡(島根県安来市広瀬町広瀬富田)参照)。
元秋は尼子再興軍が蜂起した際は、ほとんど月山富田城を守備し、鹿助らの攻撃を防ぎ、天正13年(1585)当城で病没しているので、このことから法勝寺城の「本昭」とは同一人物ではないと思われる。
【写真左】主郭から北方を見る。
上記の郭が三角状に見える。
麓は法勝寺の町並み。このまま北に降ると、手間要害山城につながる。
どちらにしても、法勝寺城は尼子晴久の時代ごろまでは同氏の支配下にあったが、永禄7年に毛利方三村家親によって落とされ、家親が当城を去ったあと、毛利方の別の武将が拠ったはずなので、その城主として、この毛利本昭なる人物が想定されるだろう。
そこで、本昭が在城した時期だが、鹿助によって攻撃され、自刃したとされるから、永禄8年(1565)4月28日に毛利元就が一旦富田城攻撃を止め、兵を引いたころか、または永禄12年(1569)隠岐国から忠山に入った尼子再興軍が蜂起し、元亀2年(1571)8月鹿助が伯耆末石城で捕らわれるまでの間かもしれない。
【写真左】主郭・その1
主郭群の南西端に設置されていることから、三角状の形状を持ち、北東面に長く、東西40m、南北30mの規模となっている。
後者の説を想定すると、以前取り上げた備中の幸山城・その2(岡山県総社市清音三因)で検証した「元亀2年2月の尼子勝久(現地には晴久と誤記されているが)らの備北諸城の制圧」を史実とすれば、この時期と重なる。
つまり、この年(元亀2年)鹿助らは、尼子再興軍の一部を出雲に残し、自らは備北へ攻め入るため、この法勝寺往来(国道180号線)を南下する際、当城を落とし、さらに南下していったと考えることもできるからである。
【写真左】主郭・その2
主郭の南側には約15m前後にわたって土塁状の遺構が残る。高さは50cm程度とやや低いが、当時は1m程度はあったものと思われる。
【写真左】主郭・その3
南端部から北を見たもの。
【写真左】東側二段目の南郭
形態としては帯郭というべき構成だが、左の主郭を防備する郭段で、不定型な形ながら総延長は150m前後はあるだろう。
【写真左】主郭群南端部の鞍部
主郭群の南端部はご覧のような鞍部に道が設置されている。
この道はこの後右に折れ、北の方へ空堀へとつながっているが、おそらくこの写真の左側にある出丸との接点になるため、この箇所も堀切のような遺構があったのかもしれない。
次にはその出丸と思われる南側の箇所を掲載しておく。
【写真左】出丸・その1
主郭群ほどの明確な遺構はないが、頂部にたどり着く手前に一か所郭段が構成されている。
【写真左】出丸・その2
頂部には現在簡易水道のタンクが設置されているため、当時の遺構は確認できないが、物見台のようなものがあったと思われる。
というのも、この出丸のある小丘から南方には、次に示す「戸構城」というおそらく法勝寺城の支城があったため、両城間の連絡としては当然こうした城砦施設があったと考えられるからである。
【写真左】戸構城
小規模な丘城というべきもので、踏査はしていないが、遺構として土塁・郭があるという。
なお、この写真の右(北)側に出丸・法勝寺城がある。
【写真左】法勝寺城主郭群と空堀
再び本城・法勝寺城に戻って、先ほどの主郭南端部から右に回ると、北にほぼ真っ直ぐと空堀が伸びる。
右側が主郭群で、左側は長大な土塁(防塁)群。
この土塁の左側は現在法勝寺中学校の敷地(グランド)などになっているが、おそらく当時は屋敷跡ではなかったかと思われる。
【写真左】主郭群と北郭群の分岐点
空堀形状となって、両群を分離している。
写真右側が主郭群、左側が北郭群。
なお、この空堀をそのまま降ると、冒頭で示した東側駐車場の空堀につながる。
【写真左】北郭群・その1
この位置からは比高は高く見えないが、頂部から北東部の麓を見ると、思った以上の比高がある。
【写真左】北郭群・その2 空堀
おそらく先ほどから歩いてきた空堀の延長線上のものだったと思われるが、幅は大分狭くなっている。
この先で城域の最北端となっている。
【写真左】西の出丸か
北郭群から西に見えるもので、学校の敷地内になっていたため、踏査していないが、おそらく法勝寺城もしくは、屋敷跡の一部だったかもしれない。
【写真左】祠跡か
主郭と北郭群の間にあった空堀の東端部で、この箇所では空堀が二つに分かれ、南側には屹立した土塁状の高まりが残る。
この写真はその高まりの先端部にあった石積みだが、おそらく当城を祀った祠などが建立されていたのかもしれない。
【写真左】法勝寺城遠望・その2
東側から見たもので、手前の川は法勝寺川。
戦国期はおそらくこの法勝寺川が麓まで広がり、事実上水堀の役目をしていたと思われる。
春になると、この川土手に一斉に満開の桜が並び見事な景色となる。
【写真左】経久寺
法勝寺城から法勝寺川を挟んで東方の新宮谷に経久寺がある。
この寺は、文字通り尼子経久を菩提するため、永禄年間(1558~69)に創建されたといわれている。
経久は、天文10年(1541)11月3日(陰徳記)に亡くなるが、その後30年忌日の元亀元年(1570)11月13日の日付で納めたといわれる経久の位牌が安置してあるという。
【写真左】経久寺本堂の鬼瓦
本堂の鬼瓦には尼子氏(佐々木氏)の家紋である「平四つ目結」が見える。
【写真左】経久寺から法勝寺城を遠望する。
法勝寺城の東面とほぼ正対する位置にあり、当城の全景を確認できる。
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