新高山城(にいたかやまじょう)
●所在地 広島県三原市本郷町本郷
●登城日 2007年7月21日
●築城期 天文21年(1552)
●築城者 小早川隆景
●高さ 標高197.6m、比高186m
●指定 国指定史跡
●別名 雄高山城
●遺構 本丸・中の丸・北の丸・東の丸・釣井の段・新蔵主曲輪等
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
先月取り上げた竹原市にある木村城(広島県竹原市新庄町新庄町字城の本)と同じく、小早川氏が関係した山城である。
三原市を流れる沼田川をさかのぼると、本郷町本郷地区に同川を挟んで、左右に岩の塊のような山が二つ並んでいる。右(東)には安芸・高山城(広島県三原市高坂町)があり、左(西)に今稿の新高山城がそびえている。
【写真上】登城口付近より新高山城を見上げる
登城口は沼田川(東側)にあるが、民家の脇を登っていく。なお、東の高山城とも同山の麓に山陽新幹線が走り、トンネルの上に山城がある、という構図である。
繰り返しになるが、小早川氏の祖・土肥実平・遠平父子が最初に当地・沼田荘にやってきたのは、建久3年(1192)で、その後4代目・茂平の時代になってから本格的な経営に乗り出す。
茂平が最初に築いたのが、東にある高山城で、以後350年間当城を拠点に勢威を振った。
【写真左】高山城遠望
南東部の小早川氏菩提寺・米山寺の峠から見たもの・
撮影日 2014年5月8日
【写真左】匡真寺跡
説明板にもあるように、この場所の規模は東西41m、南北72mという広大なものである。瓦片などが散乱していたとのこと。
新高山城は、上の写真から想像すると、急峻で、余り広い削平地はないように思われるが、実際はその逆で、広い範囲にわたってまとまった郭が数カ所もあり、近世城郭へ移り変わる過渡期の山城であることが分かる。
天文20年(1551)、毛利元就の三男・隆景が最初の養子先であった竹原小早川家から、沼田小早川家17代目として高山城に入った。
しかし、その翌年、隆景は沼田川の向いに新たに城を築き、以後この山城を居城とした。これが新高山城である。
隆景がわざわざ高山城の使用をやめて城替えをした理由は定かでないが、おそらく沼田小早川家と竹原小早川家の永年の不仲を整理し、家臣の気持ちを一つにまとめたいという意思からだったと思われる。ちなみに、東の高山城を「雌高山」と呼び、西の新高山を「雄高山」と呼んでいた。
【写真左】新高山城から東の高山城方面を見る
手前の雑木のため、高山城全景は写真に撮ることはできなかったが、冬季にはおそらく見ることはできるだろう。
写真手前の川が沼田川で、写真奥の谷を進むと、小早川家と関係のある名刹「仏通寺」がある。
なお、参考までに記すと、小早川氏の祖といわれている土肥実平が、最初に居を構えたいわれているのが、やはり沼田川に接する三太刀(本郷町本郷)で、居城は雄山城(長谷)といわれている。
小早川文書によると、永禄4年(1561)毛利元就・隆元父子が当城を訪れ、歌を詠み「太平記」を読み、能を鑑賞したとある。元就が亡くなった後、天正5年(1577)に当城中腹に匡真寺を建立し、元就7回忌と母妙玖の33回忌法要を営んだとある。
新高山城に在城したのは、三原城(広島県三原市館町・城町・本町)を修築し始めた慶長元年(1596)までの約45年間で、三原城には新高山城に使われた石垣が使用されているという。
【写真左】新高山城から南麓の本郷町の街並みを見る。 沼田川はこのあたりから東に旋回し、東下する方向で瀬戸内に流れ込む。写真左端に三原市街地が見える。
●所在地 広島県三原市本郷町本郷
●登城日 2007年7月21日
●築城期 天文21年(1552)
●築城者 小早川隆景
●高さ 標高197.6m、比高186m
●指定 国指定史跡
●別名 雄高山城
●遺構 本丸・中の丸・北の丸・東の丸・釣井の段・新蔵主曲輪等
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
先月取り上げた竹原市にある木村城(広島県竹原市新庄町新庄町字城の本)と同じく、小早川氏が関係した山城である。
三原市を流れる沼田川をさかのぼると、本郷町本郷地区に同川を挟んで、左右に岩の塊のような山が二つ並んでいる。右(東)には安芸・高山城(広島県三原市高坂町)があり、左(西)に今稿の新高山城がそびえている。
【写真上】登城口付近より新高山城を見上げる
登城口は沼田川(東側)にあるが、民家の脇を登っていく。なお、東の高山城とも同山の麓に山陽新幹線が走り、トンネルの上に山城がある、という構図である。
繰り返しになるが、小早川氏の祖・土肥実平・遠平父子が最初に当地・沼田荘にやってきたのは、建久3年(1192)で、その後4代目・茂平の時代になってから本格的な経営に乗り出す。
茂平が最初に築いたのが、東にある高山城で、以後350年間当城を拠点に勢威を振った。
【写真左】高山城遠望
南東部の小早川氏菩提寺・米山寺の峠から見たもの・
撮影日 2014年5月8日
【写真左】匡真寺跡
説明板にもあるように、この場所の規模は東西41m、南北72mという広大なものである。瓦片などが散乱していたとのこと。
新高山城は、上の写真から想像すると、急峻で、余り広い削平地はないように思われるが、実際はその逆で、広い範囲にわたってまとまった郭が数カ所もあり、近世城郭へ移り変わる過渡期の山城であることが分かる。
天文20年(1551)、毛利元就の三男・隆景が最初の養子先であった竹原小早川家から、沼田小早川家17代目として高山城に入った。
しかし、その翌年、隆景は沼田川の向いに新たに城を築き、以後この山城を居城とした。これが新高山城である。
隆景がわざわざ高山城の使用をやめて城替えをした理由は定かでないが、おそらく沼田小早川家と竹原小早川家の永年の不仲を整理し、家臣の気持ちを一つにまとめたいという意思からだったと思われる。ちなみに、東の高山城を「雌高山」と呼び、西の新高山を「雄高山」と呼んでいた。
【写真左】新高山城から東の高山城方面を見る
手前の雑木のため、高山城全景は写真に撮ることはできなかったが、冬季にはおそらく見ることはできるだろう。
写真手前の川が沼田川で、写真奥の谷を進むと、小早川家と関係のある名刹「仏通寺」がある。
なお、参考までに記すと、小早川氏の祖といわれている土肥実平が、最初に居を構えたいわれているのが、やはり沼田川に接する三太刀(本郷町本郷)で、居城は雄山城(長谷)といわれている。
小早川文書によると、永禄4年(1561)毛利元就・隆元父子が当城を訪れ、歌を詠み「太平記」を読み、能を鑑賞したとある。元就が亡くなった後、天正5年(1577)に当城中腹に匡真寺を建立し、元就7回忌と母妙玖の33回忌法要を営んだとある。
新高山城に在城したのは、三原城(広島県三原市館町・城町・本町)を修築し始めた慶長元年(1596)までの約45年間で、三原城には新高山城に使われた石垣が使用されているという。
【写真左】新高山城から南麓の本郷町の街並みを見る。 沼田川はこのあたりから東に旋回し、東下する方向で瀬戸内に流れ込む。写真左端に三原市街地が見える。
0 件のコメント:
コメントを投稿