平賀氏の墓地(ひらがしのぼち)
●所在地 広島県東広島市高屋町高屋堀
●探訪日 2008年3月15日及び2014年1月11日
【写真左】平賀氏墓地・その1
整然と並んでいる。
◆解説
前稿「御薗宇城」の平賀氏の墓地で、当城から351号線を北西に約500mほど向かった位置にある。
【写真左】平賀氏墓地・その2
現地の説明板より
“広島県史跡
平賀氏の墓地(平賀氏の遺跡)
昭和44年(1969)4月28日指定
ここは、中世に高屋地域を支配していた平賀氏の墓地で、その菩提寺であった明道寺の跡といわれています。平賀氏は出羽国(秋田県)平賀郡から安芸国に移り、この場所から東南約500mの御薗宇城を居城としました。
この墓地には宝篋印塔や五輪塔、石仏が約40基あります。入ってすぐ左手の最も大きな宝篋印塔は、塔身に梵字と「天巖」と刻銘があります。江戸時代の地誌「芸藩通志」には、「天巖」は平賀隆宗の法名で、この墓が平賀隆宗の墓と記されています。
さらに、隆宗の墓に並んで「一如妙」と刻まれているのは、隆宗の妻の墓といわれると書いてあります。この外に塔身に梵字と「真岳」の字が刻まれている宝篋印塔は、平賀弘保の墓といわれています。平賀弘保は文亀3年(1503)に御薗宇城から白山城に本拠を移し、さらに大永3年(1523)に頭崎城を築いています。弘保はその後、永禄元年(1558)に没しています。
平賀隆宗は弘保の孫で、天文18年(1549)の神辺城攻めの際に没しています。
平成6年(1994)3月31日 東広島市教育委員会”
【写真左】平賀隆宗の墓
【写真左】平賀弘保の墓
文中の「白山城」は、当該墓地や御薗宇城脇を走る351号線をさらに3キロ余り南下した同町白市という場所に築城されているが、管理人は未だ当城を訪れていない。
また、「頭崎城」は当該墓地のほぼ真北1キロ地点に聳える頭崎山(504m)に築かれた城跡で、広島県内でも屈指の山城という。いずれ登城してみたいものだ。
なお、時期的なものは不明だが、同氏が領有した最北東端に築かれた支城の一つとして、頭崎城より直線距離で約5キロほど向かった河内町小田の三原市との境目(間夫池付近)にある「薬師寺城」が近年発掘調査されている。
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頭崎城(広島県東広島市高屋町貞重)
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整然と並んでいる。
◆解説
前稿「御薗宇城」の平賀氏の墓地で、当城から351号線を北西に約500mほど向かった位置にある。
【写真左】平賀氏墓地・その2
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“広島県史跡
平賀氏の墓地(平賀氏の遺跡)
昭和44年(1969)4月28日指定
ここは、中世に高屋地域を支配していた平賀氏の墓地で、その菩提寺であった明道寺の跡といわれています。平賀氏は出羽国(秋田県)平賀郡から安芸国に移り、この場所から東南約500mの御薗宇城を居城としました。
この墓地には宝篋印塔や五輪塔、石仏が約40基あります。入ってすぐ左手の最も大きな宝篋印塔は、塔身に梵字と「天巖」と刻銘があります。江戸時代の地誌「芸藩通志」には、「天巖」は平賀隆宗の法名で、この墓が平賀隆宗の墓と記されています。
さらに、隆宗の墓に並んで「一如妙」と刻まれているのは、隆宗の妻の墓といわれると書いてあります。この外に塔身に梵字と「真岳」の字が刻まれている宝篋印塔は、平賀弘保の墓といわれています。平賀弘保は文亀3年(1503)に御薗宇城から白山城に本拠を移し、さらに大永3年(1523)に頭崎城を築いています。弘保はその後、永禄元年(1558)に没しています。
平賀隆宗は弘保の孫で、天文18年(1549)の神辺城攻めの際に没しています。
平成6年(1994)3月31日 東広島市教育委員会”
【写真左】平賀隆宗の墓
【写真左】平賀弘保の墓
文中の「白山城」は、当該墓地や御薗宇城脇を走る351号線をさらに3キロ余り南下した同町白市という場所に築城されているが、管理人は未だ当城を訪れていない。
また、「頭崎城」は当該墓地のほぼ真北1キロ地点に聳える頭崎山(504m)に築かれた城跡で、広島県内でも屈指の山城という。いずれ登城してみたいものだ。
なお、時期的なものは不明だが、同氏が領有した最北東端に築かれた支城の一つとして、頭崎城より直線距離で約5キロほど向かった河内町小田の三原市との境目(間夫池付近)にある「薬師寺城」が近年発掘調査されている。
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