今滝寺(こんりゅうじ)
●所在地 兵庫県養父市八鹿町今滝寺
●開基 延久元年(1069)
●開祖 覚増上人
●指定 木造金剛力士立像(県指定文化財)等
●備考 八木氏菩提寺
●探訪日 2013年8月27日
◆解説(参考文献『但馬・八鹿 八木城跡』『城下町 八木散策絵地図』以上城下町八木の明日を創る会・八木城跡保存会編纂、その他)
前々稿八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)で紹介した「城下町散策絵図」にもあるように、当地八木には八木氏に関係した史跡が数多く点在している。
【写真左】今滝寺
この場所に着くまではなんどもカーブを繰り返しながら登っていく道をたどる。
坂を登っていくと、上に少し見えている山門がある。
ところで、八木城は平成9年頃国指定を受けているが、具体的に遺跡指定されているものは
今滝寺と同じく八木氏ゆかりの寺院で、第5代・八木重家、すなわち八木城を築城した鎌倉末期のころ、山深い今滝寺への寺詣でが困難な母のため、麓に建てたといわれる。国道9号線脇にあり、春になるとこの寺のシンボルともなった一本桜が車窓から眺められる。
康平年間(平安期)の領主・閉伊氏が傷病平癒の祈願所として建立されたといわれる。八木城の登城口付近にあるため分かりやすい場所に建っている。
●所在地 兵庫県養父市八鹿町今滝寺
●開基 延久元年(1069)
●開祖 覚増上人
●指定 木造金剛力士立像(県指定文化財)等
●備考 八木氏菩提寺
●探訪日 2013年8月27日
◆解説(参考文献『但馬・八鹿 八木城跡』『城下町 八木散策絵地図』以上城下町八木の明日を創る会・八木城跡保存会編纂、その他)
前々稿八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)で紹介した「城下町散策絵図」にもあるように、当地八木には八木氏に関係した史跡が数多く点在している。
【写真左】今滝寺
この場所に着くまではなんどもカーブを繰り返しながら登っていく道をたどる。
坂を登っていくと、上に少し見えている山門がある。
ところで、八木城は平成9年頃国指定を受けているが、具体的に遺跡指定されているものは
- 八木城
- 八木土城
- 殿屋敷遺跡
- 赤淵遺跡
の4か所である。残念ながらこのうち3および4の遺跡については管理人は訪れていない。
3、の殿屋敷遺跡は、第4代八木泰家のころ、即ち鎌倉期に地頭として八木庄の61町歩を治めていたころのものとされている。
4、の赤淵遺跡とは、3、の殿屋敷から北に少し上った現在の赤淵池に当たり、天保6年(1835)の堤設置工事の際、柱・茶臼、開元通宝(12貫)などの出土により、この場所が伝承されていた赤淵大明神の跡とされている。
【写真左】今滝寺山門
本堂のあった場所より大分下がった位置にあり、現在はこの門をくぐって本堂まで行く道は消滅している。
山門の左右に下段の金剛力士像が入っている。
今滝寺
今稿の今滝寺は国指定を受けてはいないが、八木氏の菩提寺として代々の位牌を祀ってきた寺院である。所在地は、前々稿八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)の中で写真で紹介しているが、八木城・八木土城の北の谷を隔てたところにある。
現地の説明板より
“兵庫県指定文化財 木造金剛力士立像
指定年月日 昭和58年3月29日
所有者 今滝寺
今滝寺は、八木城主八木氏の菩提寺として栄え、九院三坊の塔頭が並ぶ大寺院でした。今滝寺の山門には、二体の金剛力士像が安置されています。金剛力士像は仁王像とも呼ばれ、神通力で外敵を追い払い、寺院を守護する役割があります。
【写真左】金剛力士像・阿形
こちらの方はうまく撮れたが、下段の吽形は手前の網でうまく撮れなかった。
【写真左】金剛力士像・吽形
像はヒノキ材を用いた寄木造りで、口を開けた阿形は高さ235cm、左手を挙げて独鈷杵(とっこしょ)を握り、右手は下方にのびて五指を伸ばします。
口を閉じた吽形(うんぎょう)は、高さ247cm、右手に独鈷杵を握り、左手は拳を握っています。上半身は裸でろっ骨が発達し、腕は太く筋肉質です。頭が大きくて胴体は長く、素朴な作風から地方作とみられています。
木像の胎内に墨書の文字があり、正嘉2年(1258)3月に常光寺の仁王像として作られたことが判明しています。仏師は阿形が澄玄(ちょうげん)、吽形が淡路公です。
常光寺も八木氏の菩提寺でした。八木氏第12代・八木宗頼の子の聖芳が常光寺の住職になっています。金剛力士像は永和4年(1378)、常光寺から今滝寺に移されたと伝えられています。
今滝寺の山門は、昭和57年に解体修理をしてこの地に移転しました。今滝寺の正面の山には、国指定の八木城跡があります。
地元で「今滝のおにおうさん」と呼ばれる金剛力士像は、八木城主ゆかりの歴史的文化遺産です。
平成25年3月
養父市教育委員会”
【写真左】今滝寺本堂
山門の場所から再び車で上の方へ進むと本堂がある。現在建っているものは最近のもののようで、無住となっている。
往時の建物は知るすべもないが、九院三坊であったことを思うと、かなりの規模だったものと考えられる。
おそらくこの谷全体に今滝寺の建物が林立していたものと思われる。
「当山の什物は県立歴史博物館へすべて預託中です。 今滝寺」
とかかれた紙が貼ってある。
八木宗頼
前稿でも宗頼について述べているが、宗頼の子聖芳を常光寺の住職にしたのは、文明16年(1484)とされている。この年、宗頼は播磨野口の合戦に出陣、奮闘した。この戦いは宗頼の主君山名教豊と、播磨の赤松政則との戦いである。
宗頼は八木氏累代の中でも特に教養の高い武将であったようで、和漢に通じていたという。
【写真左】今滝寺から八木土城を見る。
今滝寺の南の谷を隔て一旦西側に回り込み、そこから急峻な尾根を登っていくと、八木土城に繋がっているようだが、現在は道は消滅している。
おそらく当時はこのルートが頻繁に使われていたものと思われる。
【写真左】熊野神社
今滝寺本堂の向背に祀られている。
八木氏をはじめ、山名四天王の1人太田垣氏も熊野大権現(大社)の信仰者であった。
その他の八木氏関連史跡
西方寺
【写真左】今滝寺山門
本堂のあった場所より大分下がった位置にあり、現在はこの門をくぐって本堂まで行く道は消滅している。
山門の左右に下段の金剛力士像が入っている。
今滝寺
今稿の今滝寺は国指定を受けてはいないが、八木氏の菩提寺として代々の位牌を祀ってきた寺院である。所在地は、前々稿八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)の中で写真で紹介しているが、八木城・八木土城の北の谷を隔てたところにある。
現地の説明板より
“兵庫県指定文化財 木造金剛力士立像
指定年月日 昭和58年3月29日
所有者 今滝寺
今滝寺は、八木城主八木氏の菩提寺として栄え、九院三坊の塔頭が並ぶ大寺院でした。今滝寺の山門には、二体の金剛力士像が安置されています。金剛力士像は仁王像とも呼ばれ、神通力で外敵を追い払い、寺院を守護する役割があります。
【写真左】金剛力士像・阿形
こちらの方はうまく撮れたが、下段の吽形は手前の網でうまく撮れなかった。
【写真左】金剛力士像・吽形
像はヒノキ材を用いた寄木造りで、口を開けた阿形は高さ235cm、左手を挙げて独鈷杵(とっこしょ)を握り、右手は下方にのびて五指を伸ばします。
口を閉じた吽形(うんぎょう)は、高さ247cm、右手に独鈷杵を握り、左手は拳を握っています。上半身は裸でろっ骨が発達し、腕は太く筋肉質です。頭が大きくて胴体は長く、素朴な作風から地方作とみられています。
木像の胎内に墨書の文字があり、正嘉2年(1258)3月に常光寺の仁王像として作られたことが判明しています。仏師は阿形が澄玄(ちょうげん)、吽形が淡路公です。
常光寺も八木氏の菩提寺でした。八木氏第12代・八木宗頼の子の聖芳が常光寺の住職になっています。金剛力士像は永和4年(1378)、常光寺から今滝寺に移されたと伝えられています。
今滝寺の山門は、昭和57年に解体修理をしてこの地に移転しました。今滝寺の正面の山には、国指定の八木城跡があります。
地元で「今滝のおにおうさん」と呼ばれる金剛力士像は、八木城主ゆかりの歴史的文化遺産です。
平成25年3月
養父市教育委員会”
【写真左】今滝寺本堂
山門の場所から再び車で上の方へ進むと本堂がある。現在建っているものは最近のもののようで、無住となっている。
往時の建物は知るすべもないが、九院三坊であったことを思うと、かなりの規模だったものと考えられる。
おそらくこの谷全体に今滝寺の建物が林立していたものと思われる。
「当山の什物は県立歴史博物館へすべて預託中です。 今滝寺」
とかかれた紙が貼ってある。
八木宗頼
前稿でも宗頼について述べているが、宗頼の子聖芳を常光寺の住職にしたのは、文明16年(1484)とされている。この年、宗頼は播磨野口の合戦に出陣、奮闘した。この戦いは宗頼の主君山名教豊と、播磨の赤松政則との戦いである。
宗頼は八木氏累代の中でも特に教養の高い武将であったようで、和漢に通じていたという。
【写真左】今滝寺から八木土城を見る。
今滝寺の南の谷を隔て一旦西側に回り込み、そこから急峻な尾根を登っていくと、八木土城に繋がっているようだが、現在は道は消滅している。
おそらく当時はこのルートが頻繁に使われていたものと思われる。
【写真左】熊野神社
今滝寺本堂の向背に祀られている。
八木氏をはじめ、山名四天王の1人太田垣氏も熊野大権現(大社)の信仰者であった。
その他の八木氏関連史跡
西方寺
今滝寺と同じく八木氏ゆかりの寺院で、第5代・八木重家、すなわち八木城を築城した鎌倉末期のころ、山深い今滝寺への寺詣でが困難な母のため、麓に建てたといわれる。国道9号線脇にあり、春になるとこの寺のシンボルともなった一本桜が車窓から眺められる。
薬師堂
康平年間(平安期)の領主・閉伊氏が傷病平癒の祈願所として建立されたといわれる。八木城の登城口付近にあるため分かりやすい場所に建っている。
この他数多くの史跡があり、地元の「城下町八木の明日を創る会」や「八木城跡保存会」などによって作成された2種類のパンフに詳細が記載されており、大いに参考になる。
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