2013年9月21日土曜日

八木城(兵庫県養父市八鹿町下八木)

八木城(やぎじょう)

●所在地 兵庫県養父市八鹿町下八木
●別名 八木石城
●指定 国指定史跡
●築城期 建久5年(1194)~正治2年(1200)ごろ
●築城者 朝倉高清・八木重清
●城主 八木氏、別所重棟・吉治
●高さ 標高330m(比高230m)
●遺構 石垣・郭・堀切・土塁等
●登城日 2013年5月5日

◆解説(参考文献『但馬・八鹿 八木城跡』『城下町 八木散策絵地図』以上城下町八木の明日を創る会・八木城跡保存会編纂、その他)

 前稿「八木・土城」に続いて、今稿では東隣の尾根に築かれた八木城を取り上げる。
【写真左】八木城 本丸跡
【写真左】八木城の縄張図
 下段の説明板にもあるように、本丸の南に高さ9m、長さ40mの石垣が組まれているが、天守台跡と併せてこの城は、織豊時代の城郭構造の源流ともなっている。



現地の説明板より・その1

“但馬・八木城
 八木城跡
 八木町の背後にある西から東に延びる細い尾根上には、八木城と八木土城の2つの山城があり、南北朝時代(1333~92)のはじまりという。
 八木城は、標高330mの城山に造られた山城で、南北260m、東西340mに広がる大規模なものである。

 本丸には、山石を荒削りした石材で9.3mの高い石垣を積んで防御の要とし、文禄年間(1592~96)の構築と推定される穴太(アノウ)流の城郭石垣を造っている。さらに本丸には天守台や矢倉台、石塁を築いており優れた技術を見ることができる。
【写真左】登城始点口
 前稿「八木・土城」で紹介した下八木登山道の入口で、ご覧の柵が施された入口がある。
 猪・鹿よけのもので、中に入った後は、しっかりと扉を施錠しておく。
 ここから本丸までは約900mの距離である。


 縄張をみると、尾根を平坦にした曲輪を造り、東に6段、南に5段、北に3段というように山全体に城郭を配置している。

 八木城は、戦国時代の八木氏の本城であり、また別所氏が改修した豊臣時代の城郭である。八木城は、1万5千石の八木藩の貴重なシンボルであり、八木町は初期城下町として貴重な町並みを伝えている。
   八鹿町観光協会”
【写真左】城域に入る。
 写真には写っていないが、左側には岩を刳り貫いた箇所に地蔵(秋葉さん)が祀られている。
 なお、手前の削平地は東端部の最初の郭で、北側の斜面をほぼ真っ直ぐに進むと主郭(本丸)に至る。


現地の説明板より・その2

“八木城跡❶
 八木城は、中世の但馬国を代表する有力国人である日下部姓八木氏の城館跡である。

 麓には鎌倉時代以来の居館跡、山頂部には室町期の遺構、中腹部には戦国期から豊臣期の石垣等(八木城)が残り、中世の各時期の遺構が連続して遺存している。

 室町期の八木氏は山名四天王の1人として但馬国に勢力を張り、越前の朝倉氏とは同族である。豊臣期には山陰経営の拠点として豊臣大名の別所氏が入城し、城郭を整備拡張した。
 八木城跡は、「中世の山陰地方の政治史と城郭史を示す貴重な遺跡」として、平成9年3月6日に国の史跡に指定された。”
【写真左】二の丸
 前記の登城道には、途中で鋭角に分岐し三の丸方面に行く道があるが、先に本丸方面に向かうことにする。最初に出てくるのが二の丸である。

 主郭をほぼ全周囲む配置で、東に延びた先は三の丸に繋がる。
 写真奥に主郭(本丸)が控える。


八木氏

 上掲の説明板・その1では、築城期を南北朝時代としているが、前稿でも紹介したように、八木・土城については、平安後期の康平6年(1063)頃で、築城者であった閉伊氏が以後約130年間当地を治め、その後、鎌倉期の建久5年~正治2年(1194~1200)になると、日下部氏の流れを持つ朝倉高清が、閉伊氏最後の城主・閉伊十郎行光を攻め滅ぼし、高清が新たに土城の東峰に八木城を構えたとされる。
【写真左】二の丸から本丸へ向かう。
 本丸に向かうには、一旦南側まで回り込み、何度か折れながら枡形虎口となる主郭入口まで進む。



  同氏については、これまで但馬・朝倉城(兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山)津居山城(兵庫県豊岡市津居山)鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)小代・城山城(兵庫県美方郡香美町小代区忠宮)男坂城(兵庫県養父市大屋町宮垣)などでも断片的に紹介しているが、八木氏を興した始祖八木安高は、朝倉高清の子である。

 前稿の八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)でも述べたように、それまで当地を支配していた閉伊十郎行光を朝倉高清が攻め滅ぼしたのが、建久5年(1194)前後といわれている。時期的には源頼朝が征夷大将軍になって間もない頃だが、同氏が当地を完全に領地したのは、やはり承久の乱(1221年)ごろといわれている。その後八木氏は15代、約300年以上にわたってこの地をおさめていくことになる。
【写真左】石垣
 主郭入口(枡形虎口)手前に見える算木積みによる石垣で、この面から西に向かって高石垣が続き、北に回るとしのぎ積みの遺構が続いている。
 おそらくこれらが下段に示す織豊時代、すなわち別所氏が城主となった時のものと思われる。


八木氏系譜

  1. 初代  八木安高 朝倉高清の子。八木氏始祖
  2. 2代  八木高吉 別名三郎。吾妻鏡に記載。常光寺に仁王像建立
  3. 3代  八木家高 別名二郎。建政元年(1275)京都八幡宮造営にあたり、5貫寄進。
  4. 4代  八木泰家 別名又次郎。八木庄(61町)地頭(1285年)。
  5. 5代  八木重家 別名弥二郎。法名・覚恵。初めて築城したという。
  6. 6代  八木家直 別名孫二郎。
  7. 7代  八木高重 法名・蓮阿。
  8. 8代  八木直重 法名・常光寺殿宗栄。
  9. 9代  八木重秀 法名・宝林院殿道彗。
  10. 10代 八木頼秀 法名・臨川院殿宗林。
  11. 11代 八木重頼 法名・曹源院殿宗材。
  12. 12代 八木宗頼 法名・大樹院殿長川宗久、花八重立老翁。
  13. 13代 八木貞直 法名・済川院殿宗森。
  14. 14代 八木直信 12代宗頼の子・宗世の33回忌を宗世寺で行う。
  15. 15代 八木豊信 法名・惰琳孺院宗松。天正5年(1577)第一次但馬攻めで降参。天正8年(1580)第二次但馬攻めにおいて、八木城から因幡・若桜鬼ヶ城跡(鳥取県若桜町)へ移る。
【写真左】主郭付近・その1
 主郭は手前の壇と、2m弱高くなった奥の壇にとに区分されている。
 天守台があったといわれているので、その基礎部分は高くなった箇所と思われるが、現地の規模を見るかぎり、さほど大きなものではなかったと推測される。
 低い方にはご覧の祠や仏像などが祀られている。



山名四天王
 
 説明板・その2にも記されているように、八木氏は後に山名氏の四天王の1人となっていくが、八木氏が山名氏に属したきっかけは南北朝期といわれている。資料によっては6代とされている5代・重家で、時の但馬国守護山名時氏のころで、本稿の八木城が丁度この頃本格的に前稿・土城から東峰に築かれることになる。
 12代・宗頼のころになると、時氏の孫・持豊(宗全)を補佐し、文明5年(1473)に宗全が死去すると、その嫡男・教豊の重臣となっていく。
【写真左】主郭付近・その2
 西側からみたもので、右に高石垣があり、手前から左側(北側)は算木積みが施されている。





八木豊信
 
 八木城における八木氏最後の当主・第15代豊信は、鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)でも触れたように、このころ八木氏をはじめとする山名四天王の統率は乱れ、それぞれ織田方・毛利方に分かれていった。
【写真左】高石垣・その1
 八木城の特徴である高石垣で、南側にあるが、説明板にもあるように、文禄年間(1592~96)の構築と推定される穴太(アノウ)流の城郭石垣。
 この写真は東側から見たもの。


 豊信は毛利方に与し、織田方による第一次但馬攻めの直前、豊信は吉川元春に援軍の要請を行っている。このころ毛利方は山陰側の攻めの拠点として、八木城と但馬竹田城を挙げている。
 上掲の系譜にもあるように、豊信は天正5年(1577)、羽柴秀長の但馬攻めにおいて降伏、その3年後には秀吉に従い、鳥取城(鳥取城・その1(鳥取県鳥取市東町2)参照)攻めに参加している。豊信は後に日向(宮崎)の佐土原城主・島津家久に仕えた。
【写真左】西端部の石垣
 西側から北側にかけては算木積みの石垣となっている。








別所氏

 天正13年(1585)、新たな八木城主となったのは、別所重棟(宗)である。別所氏については、以前播磨の三木城(兵庫県三木市上の丸)でも紹介しているが、有名な「三木の干殺し(三木合戦)」で自害した三木城主・別所長治は、重棟の甥に当たる。重棟は秀吉・信長に与すべきとして、一族内での意見が合わず、事前に合戦の前に三木城を出て、自ら浪人となっていた。
【写真左】三の丸・その1
 二の丸から東に向かって長く伸びるのが三の丸で、特に写真にみえる郭は長さ66m×最大幅17mと長大である。



 重棟は、その後秀吉から12,000石を与えられ、八木を本格的な城下町として整備し、八木藩を興した。6年後の天正19年(1591)、重棟の跡を継いで八木城主となった吉治は、重棟の子といわれているが、一説には長治の子ともいわれている。

 吉治はその後、関ヶ原の合戦では、西軍に与し、東軍方の丹後・田辺城(丹後・田辺城跡(京都府舞鶴市南田辺)参照)を攻めたが、西軍の敗戦によって、北由良に転封となり、慶長5年(1600)八木城は廃城となった。
【写真左】地蔵「三つ顔さん」
 三の丸最先端分に祀られているもので、地蔵二体がある。
 この先を下ると、更に鋭角に尖った長さ20m程度の郭があり、更に下には長方形の郭があり、その下には登城した際に見た「秋葉さん」が祀られている。

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