有子山城(ありこやまじょう)
●所在地 兵庫県豊岡市出石町内町
●築城期 天正2年(1574)
●築城者 山名祐豊
●城主 山名祐豊、羽柴秀長、前野長康、小出吉政
●廃城年 1615年ごろ
●高さ 321m(比高300m)
●指定 国指定史跡
●遺構 郭・石垣・井戸・石取場など
●備考 出石城(麓)
●登城日 2013年6月13日
◆解説(参考文献「パンフ 国指定史跡 有子山城跡~獅子の山城~」等)
有子山城は、前々稿の八木城から北東へ約23キロほど向かった出石町(現豊岡市)に築かれた居城で、八木氏をはじめとする山名四天王の総帥・山名氏の本拠となった城砦である。また、麓には近世城郭となった出石城がある。
【写真左】有子山城と出石城
北側から見たもので、麓には出石城跡がある。
観光名所としては有子山城よりも出石城の知名度が高いため、探訪者は当然ながら出石城が多い。
現地の説明板より
“国史跡 有子山城跡
指定年月日 平成8年11月13日
指定理由
基準
特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準(昭和26年文化財保護委員会告示第2号)史跡の部二(城跡)による。
【写真左】有子山城遠望
山城に残る石垣を麓から確認できる城跡は意外と少ないが、有子山城は麓からも見ることができる。
説明
有子山城跡は、室町幕府の四職家で最大級の大名であった山名氏が、根拠地である但馬国に築いた山城跡である。同じく山名氏の居城であった此隅山城跡とともに、我が国の中世の政治史と城郭史を示す貴重な遺跡であるので、山名氏城跡として一括して史跡に指定し、その保存を図るものである。
【写真左】登山口
出石城の奥に稲荷神社があるが、その箇所からさらに奥に進むと見えてくる。
以前の登山ルートはここから右側の谷筋に設けられていたが、何年か前の台風のため崩落し、このため新たに尾根筋をほぼ直登する現在のコースが設けられている。
【写真左】縄張図
図が小さいため分かりずらいが、左上が登城口で、そこから右斜めに尾根筋にそった登城ルートが記載されている。
但馬山名氏
山名氏は新田氏の流れをくむ関東上野国の武士で、足利尊氏にしたがって室町幕府成立の騒乱で活躍。室町幕府の四職家で最大級の大名となった山名氏は、その一族が但馬、因幡、丹波、美作など日本全国66カ国中11カ国の守護職を兼帯して「六分の一殿」と呼ばれた。
【写真左】尾根始点
この位置から本丸まで980mと標記されている。
これまで元気いっぱい牽引してくれた「忠犬チャチャ丸(嬢)」も御年16歳とヨワイを重ね、今では耳もほとんど聞こえず、脚力は弱り、こちらが引っ張ってやらなくてはならないようになった。
人間でいえば90歳前後のお婆さんになる。これからは“彼女との同伴登城”の場合は、負担の軽い平城程度にすべきかもしれない。
明徳の乱により一族の内紛を起こし衰退したが、嘉吉の変で勢力を回復し、応仁の乱では宗全(持豊)が西軍の総帥となった。但馬はこの山名氏の根拠地であり、戦国時代まで一貫して山名氏が守護大名としてこの但馬国を治めた。
しかし戦国時代に入って山名氏はその勢力を失い、永禄12年(1569)に織田軍の木下秀吉の但馬侵攻により、当時居城であった北方約2.5kmにある此隅山城が落城。この後に山名祐豊が築いた城がこの有子山城で、天正2年(1574)のことという。またその名は「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名されたものという。
【写真左】登城道
本丸付近まではこうした岩塊状の道が続き、しかも要所で急傾斜がある。
蒸し暑い6月の登城のためか、息が荒くなり大汗をかく。
「遊歩道」という標識が設置してあったが、結構滑る個所が多い。靴底の堅いハイカット用の登山靴がお勧めだろう。
しかし天正8年(1580)ふたたび織田軍の羽柴秀長の但馬侵攻によって有子山城は落城、城主は因幡に出奔した。このあと秀長が入城し、のち天正13年(1585)には前野長康が5万石で入城するが、豊臣秀次事件に連座して改易され、播州龍野から小出吉政が入城。江戸時代に入りその子吉英の近世出石城築城により廃城となった。
【写真左】竪堀
尾根筋道には3か所の竪堀がある。下段のものは尾根の左側(北東側)、中段のものは尾根両斜面(堀切)、上段のものは右側(西側)となっている。
城郭遺構
最上部に石垣によって築かれた主郭とその西方に階段状に続く曲輪があり、また、主郭の東南に千畳敷と呼ばれる曲輪が残っている。豊臣時代のいずれかの城主によって改築されたものと思われる。
山腹にも小規模な曲輪や堀切などの空堀を見ることができ、中世山城の特徴を今によく伝えている。さらに周辺には石垣に用いられている石とよく似た石が露出しており、石垣の石が山中から採取されていたことを思わせる。”
【写真左】本丸まで500mの地点
直登した尾根の終点で、このピークから右に向かってトラバースする。
なお、すでにこの地点が北端に延びる郭群の最下段部(6段目)になっている。
郭段を横断する道は設置されていないので、このまま西の尾根に構築された三の郭側の方に進む。
山名氏の居城
説明板にもあるように、山名氏が初期に本拠城としたのは、有子山城の北方にあった此隅山城(兵庫県豊岡市出石町宮内)である。築城期は文中年間(1372~74)とされ、築城したのは山名師義といわれている。したがって、此隅山城は永禄12年に落城するまでの約200年弱の期間同氏の居城であった。
【写真左】井戸郭
上記の位置から約200mほど進んだところから見えるもので、井戸を石垣で確保した全国的にも珍しいものである。
なお、この郭の箇所からさらに下に目を転ずると、戦国期の登城道(旧道)が一部見られる。
これに対し有子山城は、天正2年(1574)山名祐豊が築城してからわずか6年後に落城し、そのあと出石城ができる慶長9年(1604)までトータルしても30年という短命の城砦といえる。
山名祐豊
祐豊については、以前道竹城(鳥取県岩美郡岩美町新井)でも述べたように、山名氏惣領であった誠豊が享禄元年(1528)に亡くなると、甥であった祐豊が跡を継いだ。このころ、因幡山名氏とは敵対していたため、因幡の山名誠通を討ち、実弟の豊定や棟豊を因幡守護として入封させた。
ほぼ同時期に祐豊は毛利氏と手を結んでいたが、鳥取城番であった武田高信の謀反などもあり、但馬山名氏としての因幡国での勢威は次第に衰えていくことになる。また、その後天正年間に至ると、今度は東隣の黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)主・萩野(赤井)直正が但馬に侵入、このため、祐豊は信長方に転じている。
こうした対応をとらざるを得なかったのは、それまで山名氏を支えてきた四天王が次々と離反していったことも背景にあった。但馬山名氏の支配力はもはや衰微のものとなっていたわけである。
また、ここから上に向かって第3郭などが控えるが、写真はその下の方に延びる郭群で、およそ5段程度の郭が連続する。
ところで現地の説明板には、織田方(羽柴秀長)による二度目の但馬侵攻よる落城の際、有子山城の城主名が記載されていない。史料によれば、城主は築城者祐豊の三男・堯熙(あきひろ)といわれている。堯熙は西隣因幡国へ奔走したが、その後秀吉に許しを得て馬廻衆として仕えた。秀吉が亡くなった後は、秀頼に仕えたとされる。
◎関連投稿
宵田城(兵庫県豊岡市日高町岩中字城山)
【写真左】第3の郭
最初に見えてくるのは第6の郭で、その脇を進みながら、第5郭、第4郭と続き、ここで一旦南側へ向かう通路を進んで行くと、真上に第3郭の石垣が見える。
なお、この郭群と並行してさらに南の下段側には石取り場という遺構もあるらしいが、この日はそこまで向かっていない。
【写真左】高石垣
第3から本丸方面に延びる北側の犬走り沿いの石垣は保存状態がよく、整然と並んでいる。
この付近から直接本丸に向かうこともできるが、一旦この道を進んで本丸の東方にある千畳敷に向かう。
【写真左】千畳敷・その1
当城最大の郭で、長径120m×短径50mという規模を持つ。
これだけ大規模な郭であることから、相当数の居住建築物があったものといわれている。
【写真左】千畳敷・その2
細かく見ると、3区分されており、西側(本丸側)が最も高く、東に向かって次第に下がっている。
この巨岩は中央部北側にあったもので、大きな亀裂ができている。居館など施工した際利用されたものだろうか。
【写真左】本丸と千畳敷
千畳敷から本丸に向かうにはいったん写真にみえる切通しのような底部に降り、再び本丸に向かって登る。
地形的に築城前までは千畳敷と本丸箇所は連続する一つの尾根、もしくは頂点を一つにした箇所だったと思われる。
切通しされた土は、左右の本丸・千畳敷の盛土としてかなりの量が使われたのだろう。
そして、千畳敷と、本丸・第1,2,3郭などのグループとを完全にここで縁切りし、千畳敷における居館エリアを独立させていたものと思われる。
この写真では、左側が本丸で、右側が千畳敷になる。
【写真左】本丸・その1
千畳敷では見られなかった眺望がこの本丸で一気に広がる。
この写真は南側から北を見たもの。
【写真左】本丸・その2
本丸は長径50m×短径30mの規模でほぼ長方形の形をなし、西側の一角で少し高くなった箇所に天守台があったという。
【写真左】本丸から北を遠望
写真右側には山名氏が有子山城に移る前の居城・此隅山城が見え、さらに奥には城崎の来日岳(567m)が見える。
【写真左】本丸から出石の街並みを見る。
写真下段の方に観光客用の駐車場があり、一般の観光客はここを利用して出石の城下町を散策している。
管理人もこの駐車場を利用させていただいたが、登城の準備をしているときに、係の男性の方から、有子山城に登城する我々夫婦に対し、御親切にパンフレットを頂いた。
その際、山城としては近くの但馬・竹田城ばかりが有名になり、地元出石町としても、有子山城・此隅山城の知名度をもっと高めたいと、熱く語られた。
【写真左】第2郭
これで下山するが、今度は直接本丸から第2郭へ降りていく。
【写真左】第2郭から本丸の石垣を見る。
なお、この写真には写っていないが、本丸の北側の石垣には、「横矢掛かり」として西側に突き出た石積みが残る。
◎関連投稿
此隅山城(兵庫県豊岡市出石町宮内) ・その2
●所在地 兵庫県豊岡市出石町内町
●築城期 天正2年(1574)
●築城者 山名祐豊
●城主 山名祐豊、羽柴秀長、前野長康、小出吉政
●廃城年 1615年ごろ
●高さ 321m(比高300m)
●指定 国指定史跡
●遺構 郭・石垣・井戸・石取場など
●備考 出石城(麓)
●登城日 2013年6月13日
◆解説(参考文献「パンフ 国指定史跡 有子山城跡~獅子の山城~」等)
有子山城は、前々稿の八木城から北東へ約23キロほど向かった出石町(現豊岡市)に築かれた居城で、八木氏をはじめとする山名四天王の総帥・山名氏の本拠となった城砦である。また、麓には近世城郭となった出石城がある。
【写真左】有子山城と出石城
北側から見たもので、麓には出石城跡がある。
観光名所としては有子山城よりも出石城の知名度が高いため、探訪者は当然ながら出石城が多い。
現地の説明板より
“国史跡 有子山城跡
指定年月日 平成8年11月13日
指定理由
基準
特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準(昭和26年文化財保護委員会告示第2号)史跡の部二(城跡)による。
【写真左】有子山城遠望
山城に残る石垣を麓から確認できる城跡は意外と少ないが、有子山城は麓からも見ることができる。
説明
有子山城跡は、室町幕府の四職家で最大級の大名であった山名氏が、根拠地である但馬国に築いた山城跡である。同じく山名氏の居城であった此隅山城跡とともに、我が国の中世の政治史と城郭史を示す貴重な遺跡であるので、山名氏城跡として一括して史跡に指定し、その保存を図るものである。
【写真左】登山口
出石城の奥に稲荷神社があるが、その箇所からさらに奥に進むと見えてくる。
以前の登山ルートはここから右側の谷筋に設けられていたが、何年か前の台風のため崩落し、このため新たに尾根筋をほぼ直登する現在のコースが設けられている。
【写真左】縄張図
図が小さいため分かりずらいが、左上が登城口で、そこから右斜めに尾根筋にそった登城ルートが記載されている。
但馬山名氏
山名氏は新田氏の流れをくむ関東上野国の武士で、足利尊氏にしたがって室町幕府成立の騒乱で活躍。室町幕府の四職家で最大級の大名となった山名氏は、その一族が但馬、因幡、丹波、美作など日本全国66カ国中11カ国の守護職を兼帯して「六分の一殿」と呼ばれた。
【写真左】尾根始点
この位置から本丸まで980mと標記されている。
これまで元気いっぱい牽引してくれた「忠犬チャチャ丸(嬢)」も御年16歳とヨワイを重ね、今では耳もほとんど聞こえず、脚力は弱り、こちらが引っ張ってやらなくてはならないようになった。
人間でいえば90歳前後のお婆さんになる。これからは“彼女との同伴登城”の場合は、負担の軽い平城程度にすべきかもしれない。
明徳の乱により一族の内紛を起こし衰退したが、嘉吉の変で勢力を回復し、応仁の乱では宗全(持豊)が西軍の総帥となった。但馬はこの山名氏の根拠地であり、戦国時代まで一貫して山名氏が守護大名としてこの但馬国を治めた。
しかし戦国時代に入って山名氏はその勢力を失い、永禄12年(1569)に織田軍の木下秀吉の但馬侵攻により、当時居城であった北方約2.5kmにある此隅山城が落城。この後に山名祐豊が築いた城がこの有子山城で、天正2年(1574)のことという。またその名は「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名されたものという。
【写真左】登城道
本丸付近まではこうした岩塊状の道が続き、しかも要所で急傾斜がある。
蒸し暑い6月の登城のためか、息が荒くなり大汗をかく。
「遊歩道」という標識が設置してあったが、結構滑る個所が多い。靴底の堅いハイカット用の登山靴がお勧めだろう。
しかし天正8年(1580)ふたたび織田軍の羽柴秀長の但馬侵攻によって有子山城は落城、城主は因幡に出奔した。このあと秀長が入城し、のち天正13年(1585)には前野長康が5万石で入城するが、豊臣秀次事件に連座して改易され、播州龍野から小出吉政が入城。江戸時代に入りその子吉英の近世出石城築城により廃城となった。
【写真左】竪堀
尾根筋道には3か所の竪堀がある。下段のものは尾根の左側(北東側)、中段のものは尾根両斜面(堀切)、上段のものは右側(西側)となっている。
城郭遺構
最上部に石垣によって築かれた主郭とその西方に階段状に続く曲輪があり、また、主郭の東南に千畳敷と呼ばれる曲輪が残っている。豊臣時代のいずれかの城主によって改築されたものと思われる。
山腹にも小規模な曲輪や堀切などの空堀を見ることができ、中世山城の特徴を今によく伝えている。さらに周辺には石垣に用いられている石とよく似た石が露出しており、石垣の石が山中から採取されていたことを思わせる。”
【写真左】本丸まで500mの地点
直登した尾根の終点で、このピークから右に向かってトラバースする。
なお、すでにこの地点が北端に延びる郭群の最下段部(6段目)になっている。
郭段を横断する道は設置されていないので、このまま西の尾根に構築された三の郭側の方に進む。
山名氏の居城
説明板にもあるように、山名氏が初期に本拠城としたのは、有子山城の北方にあった此隅山城(兵庫県豊岡市出石町宮内)である。築城期は文中年間(1372~74)とされ、築城したのは山名師義といわれている。したがって、此隅山城は永禄12年に落城するまでの約200年弱の期間同氏の居城であった。
【写真左】井戸郭
上記の位置から約200mほど進んだところから見えるもので、井戸を石垣で確保した全国的にも珍しいものである。
なお、この郭の箇所からさらに下に目を転ずると、戦国期の登城道(旧道)が一部見られる。
これに対し有子山城は、天正2年(1574)山名祐豊が築城してからわずか6年後に落城し、そのあと出石城ができる慶長9年(1604)までトータルしても30年という短命の城砦といえる。
山名祐豊
祐豊については、以前道竹城(鳥取県岩美郡岩美町新井)でも述べたように、山名氏惣領であった誠豊が享禄元年(1528)に亡くなると、甥であった祐豊が跡を継いだ。このころ、因幡山名氏とは敵対していたため、因幡の山名誠通を討ち、実弟の豊定や棟豊を因幡守護として入封させた。
ほぼ同時期に祐豊は毛利氏と手を結んでいたが、鳥取城番であった武田高信の謀反などもあり、但馬山名氏としての因幡国での勢威は次第に衰えていくことになる。また、その後天正年間に至ると、今度は東隣の黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)主・萩野(赤井)直正が但馬に侵入、このため、祐豊は信長方に転じている。
こうした対応をとらざるを得なかったのは、それまで山名氏を支えてきた四天王が次々と離反していったことも背景にあった。但馬山名氏の支配力はもはや衰微のものとなっていたわけである。
【写真左】旧道と現登城道との合流点
上記の位置から100mほど進むと、ここで北西方向に延びる尾根筋に突き当たるが、旧道と現在の登城道との合流点でもある。
また、ここから上に向かって第3郭などが控えるが、写真はその下の方に延びる郭群で、およそ5段程度の郭が連続する。
向きを変えていよいよ第3郭・本丸・千畳敷の方へ進む。
ところで現地の説明板には、織田方(羽柴秀長)による二度目の但馬侵攻よる落城の際、有子山城の城主名が記載されていない。史料によれば、城主は築城者祐豊の三男・堯熙(あきひろ)といわれている。堯熙は西隣因幡国へ奔走したが、その後秀吉に許しを得て馬廻衆として仕えた。秀吉が亡くなった後は、秀頼に仕えたとされる。
◎関連投稿
宵田城(兵庫県豊岡市日高町岩中字城山)
【写真左】第3の郭
最初に見えてくるのは第6の郭で、その脇を進みながら、第5郭、第4郭と続き、ここで一旦南側へ向かう通路を進んで行くと、真上に第3郭の石垣が見える。
なお、この郭群と並行してさらに南の下段側には石取り場という遺構もあるらしいが、この日はそこまで向かっていない。
【写真左】高石垣
第3から本丸方面に延びる北側の犬走り沿いの石垣は保存状態がよく、整然と並んでいる。
この付近から直接本丸に向かうこともできるが、一旦この道を進んで本丸の東方にある千畳敷に向かう。
【写真左】千畳敷・その1
当城最大の郭で、長径120m×短径50mという規模を持つ。
これだけ大規模な郭であることから、相当数の居住建築物があったものといわれている。
【写真左】千畳敷・その2
細かく見ると、3区分されており、西側(本丸側)が最も高く、東に向かって次第に下がっている。
この巨岩は中央部北側にあったもので、大きな亀裂ができている。居館など施工した際利用されたものだろうか。
【写真左】本丸と千畳敷
千畳敷から本丸に向かうにはいったん写真にみえる切通しのような底部に降り、再び本丸に向かって登る。
地形的に築城前までは千畳敷と本丸箇所は連続する一つの尾根、もしくは頂点を一つにした箇所だったと思われる。
切通しされた土は、左右の本丸・千畳敷の盛土としてかなりの量が使われたのだろう。
そして、千畳敷と、本丸・第1,2,3郭などのグループとを完全にここで縁切りし、千畳敷における居館エリアを独立させていたものと思われる。
この写真では、左側が本丸で、右側が千畳敷になる。
【写真左】本丸・その1
千畳敷では見られなかった眺望がこの本丸で一気に広がる。
この写真は南側から北を見たもの。
【写真左】本丸・その2
本丸は長径50m×短径30mの規模でほぼ長方形の形をなし、西側の一角で少し高くなった箇所に天守台があったという。
写真右側には山名氏が有子山城に移る前の居城・此隅山城が見え、さらに奥には城崎の来日岳(567m)が見える。
【写真左】本丸から出石の街並みを見る。
写真下段の方に観光客用の駐車場があり、一般の観光客はここを利用して出石の城下町を散策している。
管理人もこの駐車場を利用させていただいたが、登城の準備をしているときに、係の男性の方から、有子山城に登城する我々夫婦に対し、御親切にパンフレットを頂いた。
その際、山城としては近くの但馬・竹田城ばかりが有名になり、地元出石町としても、有子山城・此隅山城の知名度をもっと高めたいと、熱く語られた。
【写真左】第2郭
これで下山するが、今度は直接本丸から第2郭へ降りていく。
【写真左】第2郭から本丸の石垣を見る。
なお、この写真には写っていないが、本丸の北側の石垣には、「横矢掛かり」として西側に突き出た石積みが残る。
◎関連投稿
此隅山城(兵庫県豊岡市出石町宮内) ・その2