2014年5月21日水曜日

豊後・岡城(大分県竹田市竹田)

豊後・岡城(ぶんご・おかじょう)

●所在地 大分県竹田市竹田
●指定 国指定史跡
●別名 臥牛城・伏牛城・豊後竹田城
●高さ 325m(比高100m)
●築城期 文治元年(1185)
●築城者 緒方三郎惟栄
●城主 緒方氏、中川氏
●登城日 2013年10月13日

◆解説
 豊後・岡城(以下「岡城」とする)は、大分市から南西に約35キロほど向かった豊後・竹田市に築かれた城砦である。この竹田市からは、さらに西に豊後街道(R57)が走り、肥後(阿蘇方面)に繋がる要衝の地でもあった。
【写真左】岡城の石垣
  岡城の見どころの一つがこの石垣群である。
現存している石垣のほとんどは、下段の説明板にあるように、文禄3年(1594)播磨国・三木城から入部した中川秀成(ひでしげ)時代のものといわれている。

 施工にあたったのは、「穴太伊豆」で、有名な穴太衆らが大坂から呼び寄せられた。


 現地の説明板より・その1

“国指定史跡 岡城跡

 岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄(これよし)が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられるが(註1)、惟栄は大物浦(だいもつうら)(兵庫県)を出航しようとして捕えられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流された。
【写真左】「たけた」の街並み絵図
 豊後・竹田市の竹田は「たけた」と呼称する。但馬の竹田城と同じ名称だが、こちらは「たけだ」と濁音する。

 この絵図では岡城は右側に図示されている。


 建武のころ豊後国守護大友氏の分家で、大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令を受け、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安2年(1369)から後で(註2)、その城はきむれの城であった。のちに志賀氏の居城は岡城に移った。

 天正14年(1586)から翌年の豊薩(ほうさつ)戦争では、島津の大軍が岡城をおそい、わずか18歳の志賀親次(ちかよし)(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄2年(1593)豊後大友義統(よしむね)が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。
【写真左】岡城案内図
 現地に設置されているものだが、図の表面はアクリルのようなものがあるため、写真では反射して見ずらい。
 白い部分が遺構部で、東西に大変に長く伸びた城域を構成している。


 文禄3年(1594)2月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成(ひでしげ)が総勢4千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし(註3)、急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸は、慶長元年(1597)に完成、寛文3年(1662)には西の丸御殿がつくられ、城の中心部分とされていった(註4)

 明治2年(1869)版籍奉還後の4年(1871)には、14代・277年続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は7年(1874)大分県による入札・払い下げ(註5)ですべてが取りこわされた。
【写真上】岡城絵図
 岡城は北に稲葉川、南を白滝川という川に挟まれ、さらに両川はいずれも内側まで切り立った断崖絶壁となって深い谷を構成している。これだけでも十分要害性があるが、さらに険しい傾斜を持たせた石垣で造成されているため、要害堅固な城砦である。


 滝廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。

註1
 『豊後国志』巻6 直入郡の項による。但し当時、惟栄は京都に滞在していた可能性が極めて高い。(『源平の雄 緒方三郎惟栄』)

註2
 『豊後国志』巻6 直入郡の項による。但し、志賀氏の直入郡進出は、応安2年直入郡代官職・検断職を預けられた以降で、天文21年ころは大友氏加判衆(老職)をも勤めていた。(『竹田市史』上巻)

註3
 『中川史料集』に「志賀湖左衛門親次が旧居に御住居」とあり、戦国時代の城郭を基礎として近世城郭の整備・城下の町割り(竹田町の建設)などをおこなった。

註4
 岡城は山城的殿舎(御廟)、平山城的殿舎(本丸・二の丸・三の丸)、平城的殿舎(西の丸)で構成され、これらが一体となっていることは近世城郭史上特異な城である。

註5
 明治7年2月19日付『大分県布告書」で、(県内五城の建造物)岡城は69棟が入札に付されている。

平成10年3月
 竹田市教育委員会”
【写真左】登城口付近
 南西側に総役所跡だった広い駐車場があり、そこに停めて、暫く歩くと登城口がある。






現地の説明板より・その2

“ 国指定史跡 岡城跡
      指定年月日 昭和11年12月16日

指定の理由

 岡城跡は、明治維新後荒廃し、樹木が鬱蒼としていたが、昭和6年より一部を公園として公開し、藩制当時の盛観を偲ばせ、公衆行楽の諸施設を施している。
 さらに、展望は飽きることなく、北は九州アルプスの連峰、西は東洋第一の阿蘇の噴煙を眺め、南は祖母の高峯一帯の大森林を一望の裡(うち)い収め、実に天下絶景の地である。
【写真左】大手門
 坂道を登ると最初に大手門がある。
 ここからさらに350mほど進むと本丸にたどり着く。


【写真左】古大手門
 上掲の大手門はおそらく近世城郭となった江戸期に整備されたものと思われるが、それ以前の中世にはご覧の大手門が残る。

 現在の大手門の右側にあり、当時の大手道は現在とは異なるルートがあったものと思われる。


説明事項
 城の外観が牛の臥せたる如きにより、別名「臥牛城(がぎゅうじょう)」という。
築城伝説
 文治元年(1185)豊後武士団棟梁であった、緒方三郎惟栄が築城。建武年中(1333~38)志賀貞朝から17代、260年間志賀氏の居城。
戦歴
 天正14年(1586)城主志賀親次は、島津義弘率いる薩軍と激しく交戦して最後まで死守し、岡城が堅城としての名声を天下に示した。
現存城郭
 文禄3年(1594)中川秀成が入部してから13代、277年間中川氏の居城。

注意事項(省略)
(説明文は、指定申請書を現代文に改め、抜粋復刻したものである。)
【写真左】朱印倉跡
 祐筆、又は右筆とも書くが、この場所の建物の中で公式文書などを専門に清書する役人がいた。
【写真左】城代屋敷跡
 藩主が江戸参勤中には、留守を預かる責任者が必要となる。これが、いわゆる城代家老という役職者で、藩主に成り代わって治政を司った場所である。

 ここからさらに奥に進み、本丸方面に向かう。
【写真左】石垣群
 岡城の見どころの一つはこの石垣群である。
全国にある平城や平山城に見られる石垣もそれなりの趣があるが、土台となるこうした険阻な山を基礎とする山城はさらにその周辺部の景観と相まって、独特の凄味さえ醸し出す。


【写真左】太鼓櫓跡
 ここから中に入り、冒頭の写真にある三ノ丸側から上に進み、本丸に向かう。
【写真左】本丸跡・その1
 ご覧の通り、大変に広く、奥には岡城天満神社が祀られている。



 説明板の一部を掲載しておく。

“岡城天満神社
 ……(中略)……
 ここ岡城本丸跡は、中世の志賀氏時代は天神山といわれ、天神祠(やしろ)が祀られていました。中川氏時代になると城を拡張して、この天神山を本丸として天神祠を岡城の守り神としました。そして1595年(文禄4)4月29日には社殿を新築し、片ヶ瀬(この拝殿の対岸の丘陵地帯)の天満神社が所蔵していた狩野元信筆といわれる「菅原道真公の影像」と、名刀「天国作の太刀」をご神体として迎えて祀りました。…(後略)…”
【写真左】本丸跡・その2 御金蔵跡
 本丸の隣に設置された箇所で、文字通りに解釈すれば、ここに藩の軍資金やお宝があったということか。
【写真左】二ノ丸跡
 本丸の北側下の段に配置されたもので、作曲家・滝廉太郎の銅像が建立されている。

 廉太郎は、この竹田市に12歳から14歳まで暮らした。有名な「荒城の月」は土居晩翠の作詞で、晩翠は宮城県仙台市の青葉城や、会津若松市の鶴ヶ城などをイメージしていたといわれ、これに対し、作曲した滝廉太郎は、少年時代に過ごしたこの竹田市の岡城をイメージして作曲したとされる。
【写真左】二の丸から家老屋敷を見る。
 後段で紹介するように、岡城は西側の西の丸を扇の要のようにして、北西側に伸びる尾根伝いに家老屋敷や普請方跡などが配置されている。
【写真左】九重連山
 同じく二の丸付近からは北西方向に九重連山が眺望できる。
【写真左】家老屋敷・普請方方面に向かう。
 二の丸・三ノ丸の北側から、上掲した家老屋敷に向かう道が内側に造られているが、この写真はそのうち家老屋敷の東側の入り口付近に当たる。
 なお、この位置からすぐに左に向かうと近戸門へ繋がる。
【写真左】中川覚左衛門屋敷跡・その1
現地の説明板より

“中川覚左衛門屋敷跡

 岡藩家老中川覚左衛門門家は、茶道織部流の祖、古田織部正重勝の子孫です。覚左衛門門家は、藩主中川家に代々仕え、中川の姓を賜り、延享2年(1745)にこの屋敷地に移りました。
 古田家の記録には、「ここは、字を奥近戸と言い、東南が開けて前に深い谷がある。竹林が繁り、西北には松の木があり、東西北には岩がそびえて、ここは険しい城のなかでも特に険しい所である。敷地は広く2,300石取りの家老屋敷にふさわしい所である。」といっています。
【写真左】中川覚左衛門屋敷跡・その2

 また、歴代お藩主は、城内外に屋敷を持つ家老・城代宅などへ立寄ることが慣例で、覚左衛門屋敷には文化8年(1811)、安政4年(1857)・5年の三度の訪問が確認されています。

 覚左衛門屋敷跡は、平成5(1993)~7年まで発掘調査を実施し、玄関部に向かう飛石列、屋敷の範囲を表す礎石、束石、狭間石等が確認されました。さらに、敷地内の様子や屋敷の間取りが詳細に記された絵図があります。整備は、その図と検出された遺構をもとに、間取り等の復元を行いました。
【写真左】中川覚左衛門屋敷跡から谷を隔てた二の丸・三ノ丸方面を見る。

 復元は、畳の面まで床立ちさせ、柱、床束の足元、土台は光付け加工、その他の継手、仕口、仕上げ等は古来の技法によって加工しています。また、使用した材料の木材は、耐久性・寸法安定性の高い保存処理をしています。畳は、板を張り合わせて畳大に成形し、板畳の緑を黒色塗料で表現しました。”
【写真左】普請方跡
 家老屋敷の隣で、近戸門との間にあるもので、岡城の北西端に位置する。
【写真左】岡城から騎牟礼城を遠望する。
 騎牟礼城は岡城から西方へ約5キロほど向かった飛田川字古城にある城砦で、仁平年間、源為朝が築いたといわれる。

 戦国期の天正年間には、岡城の支城となり、薩摩島津氏の襲来に備えたといわれる。
【写真左】西の丸
 最初に登城した大手門の左側にある郭。非常に広大で、ほぼ長方形となっている。







おわりに

 岡城は今稿で紹介したところ以外にも多くの遺構があり、城下の武家屋敷・足軽屋敷跡や市街地の中にも多くの史跡が点在している。

 今回の登城はあまり時間がなかったため、駆け足で見た程度である。岡城そのものも見どころ満載だが、竹田市の街並みも旅情をそそる。いずれまた機会があったら、じっくりと散策探訪したい城下町である。

2014年5月14日水曜日

人吉城(熊本県人吉市麓町18番地)

人吉城(ひとよしじょう)

●所在地 熊本県人吉市麓町18番地
●史跡 国指定史跡
●築城期 建久9年(1198)以前、又は元久年間(1204~1206)
●築城者 矢瀬主馬祐(平頼盛代官)又は、相良長頼
●城主 相良氏
●廃城年 明治4年(1871)
●形態 梯郭式平山城
●遺構 石垣・郭・土塁・礎石その他
●登城日 2013年10月13日

◆解説(参考文献『〈相良氏の居城〉史跡人吉城跡 2010年人吉市教育委員会編』など)
 人吉城は、前稿の佐敷城(熊本県芦北郡芦北町大字佐敷字下町)から、東に佐敷川沿いの佐敷道(人吉街道)を遡り、神瀬で球磨川本流に合流し、人吉本街道(国道219号線)を約17キロほど上った人吉市に築かれた城館である。
【写真左】人吉城遠望
 西側から見たもので、手前の左側に人吉城歴史館、右側には武家屋敷跡がある。
 中央奥に中世人吉城時代の内御城(近世人吉城時代の本丸)などが見える。


 人吉城は、築城されてから廃城まで約800年という長い歴史を持つ。このため、当城は大まかにいえば、
  • 中世人吉城
  • 近世人吉城
の2期に分けられる。

中世人吉城

 冒頭でも示したように、築城期については建久2年(1198)説と、元久年間(1204~1206)説の二説があり、確定していないが、城郭として確立したのはおそらく相良長頼が入城してからだろう。
【写真左】中世人吉城時代の構成
 左上の区域が現在残る近世城郭(本丸・二の丸・三の丸など)中心部で、中世時代には、既にこれとは別に、右側に、下原城、その下に原城外廻、中央に中原城、その下に上原城、その左(西側)西の丸などがあり、大規模なものである。

 これをさらに詳細に示した図面が下段のもの。
【写真左】中世人吉城時代の配置図
 相良氏が入国した鎌倉時代から縄張として平山城を構築していったものと思われるが、その大きさに改めて驚かされる。



相良長頼(さがらながより)

 建久9年(1198)遠江国相良庄(現在の静岡県牧之原市相良)から地頭として人吉庄に下向した相良長頼は、当時人吉城を本拠とし、平頼盛の代官であった矢瀬主馬祐を滅ぼし、翌年から当城の修築を行ったとされている。
【写真左】上から見た人吉城
 南西方向から見たもので、近世城郭は中世城郭区域にほぼ重なるが、さらに手前左側の球磨川沿いに曲輪(削平地)を増設し、武家屋敷などを置いた。


南北朝期から戦国期

 この時期は各地であったように宮方と武家方に分かれた戦いがこの人吉地方でも行われた。文安5年(1448)、第11代当主長続が、当時多良木(人吉市から東方へ約20km)を支配していた上相良氏を滅ぼし、球磨郡を統一。以後、相良氏は葦北・八代・北薩摩まで支配を広げ、戦国大名となっていく。
【写真左】相良神社
 相良氏を祀ったもので、周囲には御館跡の礎石群や井戸跡がある。
 この写真の右側から少し高くなった位置に三の丸などが繋がる。



秀簹書状

 読みはおそらく「しゅうとう」と思われるが、文明2年(1470)、時の当主為続は、従五位下に任じられた。この写真はそのとき大内政弘の僧・秀簹から贈られた祝いの文書で、宛名に「人吉御城 日人々御中」と記されている。
【写真左】秀簹書状(影写本)
 人吉市教育委員会所蔵
人吉城の史料上初見とされる文書である。


 このころは、応仁の乱が最も激しくなった頃で、相良為続は大内政弘側から祝いの書状を拝受していることから、西軍に属して戦ったと思われる。

【写真左】三の丸・二の丸・本丸へ向かう階段
 進入口はこれ以外に北側の御下門跡からも向かうことができる。





八代古麓城

 ところで、相良氏が人吉地方を中心として、葦北・八代・北薩摩まで支配を広げていたことは前述の通りだが、戦国期まで常に人吉城を本拠としていたわけでもないようだ。

 『八代日記』という文書によれば、大永4年(1524)ごろには、相良氏は本拠を八代古麓城に置き、人吉城には同族の上村頼興を城代として置いている。
 具体的に八代古麓城を本拠城としていたのは、
第16代・義滋(~1546)から、第17代・春廣(~1555)~第18代・義陽(~1581)までである。
【写真左】城郭配置詳細図
 これまで何度も改築された関係上、時代によって遺構部名称に違いがあるが、主だった箇所はほぼ固定している。


【写真左】三の丸西側下段部
 相良神社と三の丸の間には忠霊塔があり、そこから南に進むと、三の丸にたどり着く。
 写真左側が三の丸




水俣合戦

 さて、第18代・義陽の代となった天正9年(1581)、薩摩の島津義久の北方進出における水俣合戦において敗れ、所領としていた葦北・八代を失った。そして、その後義久に降った義陽は、宇城市の響野原において討死した。
【写真左】三ノ丸
 単独で残るものとして規模は長径100m×短径50mの規模を持つもので、北東部の井戸を介して、飛び地の三の丸が二か所ある。
また、三の丸の北東端には中の御門跡がある。
【写真左】二ノ丸
 三の丸の東側に構築され、中央に南北方向に本丸に向かう道が設置されている。
 写真奥には、本丸に繋がる階段が見える。
【写真左】二の丸側から本丸を見る。
 本丸付近は二の丸に比べ周辺部の樹木などは伐採されておらず、こんもりとした景観となっている。
【写真左】本丸
 中世には「高御城(たかおしろ)」と呼ばれ、主として宗教的空間として使われていたという。
 江戸期に入って、護摩堂が建てられ、さらに付近には太鼓屋、山伏番所などがあったという。
 礎石群は当時の二階建て四間四方の護摩堂のものが残る。



近世人吉城

 現在残る人吉城、すなわち近世城郭として着手したのは、第20代・頼房である。別名長毎(ながつね)ともいう。なお、相良氏にはもう一人同じ長毎がいるが、これは第13代当主で戦国前期(文明元年~永正15年)に活躍した城主である。
【写真左】近世人吉城時代の構成
 現在残る本丸・二の丸・三の丸は慶長3年(1598)に改築され、中央にある相良神社付近は慶長6年(1601)それぞれ改築されている。

 また、左側の角櫓・二棟の多門櫓などは正保年間にそれぞれ手が加えられた。

【写真左】下台所跡・犬童(いんどう)市衛門屋敷跡
 江戸初期の絵図によれば、球磨川と後口馬場に挟まれた区域は相良清兵衛屋敷及び息子の内蔵助屋敷などがあり、同じく写真付近には下台所や犬童市衛門屋敷などがあったという。
 左奥の建物は人吉市役所。


 天正15年(1587)における秀吉の九州島津氏討伐においては、当初島津氏に属していたが、家臣・深水長智の働きによって、秀吉(秀長)との交渉により所領の安堵をみた。しかし、その後肥後を治めていた佐々成政が、同国の国人一揆平定の際、取り返しのつかない判断ミスを犯してしまう。
【写真左】御下門跡付近
 本丸を探訪した後、今度は北側の球磨川沿いに向かうルートを降ると、御下門という場所に出る。
 周囲の石垣群に囲まれ、さらには色鮮やかな樹木が頭上に揺れる。
 紅葉の時期になれば、もっと楽しめるだろう。


 それは、一揆平定のために、秀吉が島津義弘らを肥後に支援に向かわせるようにしたところ、成政は島津氏らが自らを攻めてくるものと勘違いし、相良頼房は成政の命に従って、義弘入国を阻止してしまった。激怒した秀吉は、翌天正16年閏5月14日、成政をその責によって自害させた。

 相良氏はすぐさま、深水長智を大阪に向かわせ、秀吉に詫びを請い、また島津氏との誤解を解くため奔走、かろうじて相良氏は処罰を逃れた。
【写真左】水の手門跡・その1
 慶長12年(1607)から球磨川沿いに石垣工事が始まり、外曲輪が川沿いにかけて構築された。さらに、球磨川沿いに7か所の船着場が設置された。

 この水の手門跡はその中で最大のもの。
 奥に見えるのが球磨川で、橋は「木ノ手橋」。



人吉城の改築

 頼房が具体的に人吉城を近世城郭として改築を開始したのは、その翌年の天正17年(1589)からである。特に石垣普請については、豊後から多数の石工を呼び寄せている。
 慶長3年(1598)になると、御館の普請・作事、同5年には本丸・二の丸及び三の丸などが、また翌6年には御本丸・二の丸・堀・櫓御門などが完成した。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、直前まで豊臣方に与する方針だったが、重臣相良清兵衛の機転によって、一転して徳川方につき、改易を逃れた。その後、慶長12年(1607)、寛永3年(1626)と断続的に近世城郭としての機能を持たせた改築を行っていった。
【写真左】水の手門跡・その2
 西側から見たもので、手前の礎石状のものは間米蔵跡のもの。
 船で運ばれた米など食糧などはこの蔵に備蓄されたのだろう。


その後の人吉城

 江戸期に至ると、他藩がそうであったように、人吉藩にもお家騒動の記録が残る。

 特に、寛永17年(1640)、犬童(田代)半兵衛等清兵衛一族による「お下の乱」において、西外曲輪の北半分が焼失した。この事件をきっかけに石垣普請は断念され、大手門から南の岩下門までの石垣は設置されなくなったという。

2014年5月9日金曜日

佐敷城(熊本県芦北郡芦北町大字佐敷字下町)

佐敷城(さしきじょう)

●所在地 熊本県芦北郡芦北町大字佐敷字下町
●指定 国指定史跡
●築城期 天正17年(1588)
●築城者 加藤与左衛門重次(加藤清正)
●城主 加藤与左衛門重次(加藤清正)
●遺構 郭・石垣等
●高さ 88m(比高80m)
●登城日 2013年10月13日

◆解説(参考文献『戦国九州三国志』学研等)
 佐敷城は、前稿まで紹介した宇土市から八代海沿いに南方へ約46キロほど下った芦北町に築かれた近世城郭である。
【写真左】佐敷城遠望
 東側からみたもので、中央平坦部となっているところが本丸付近になる。






 現地の説明板より・その1

“国史跡
  佐敷城跡(さしきじょうあと)
    (指定年月日 平成20年3月28日)

◇指定名称 佐敷城跡
◇指定面積 83,490.54㎡
◇所在地 芦北郡芦北町大字佐敷字中丁49番1号ほか
【写真左】航空写真
 南方向からみたもの。
 東麓を流れるのは佐敷川で、西(左側)に迂回しながら八代海に注ぐ。







 佐敷城は、16世紀後半に肥後国(現在の熊本県)を治めた加藤清正が薩摩国(現在の鹿児島県)や球磨、天草地方へつながる交通の要であった佐敷に築かれた近世城郭で、城山(標高87.3m)と呼ばれる丘陵一帯を城域とし、山上からは不知火海や天草諸島、城下町、薩摩街道の難所である佐敷太郎峠を一望できます。

 肥薩国境を守る「境目の城」であり、島津軍とは二度、直接戦火を交え、これらの戦いにまつわる言い伝えは芦北郡一帯に残っています。

 大阪夏の陣で豊臣家が滅んだ元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となり壊されますが、寛永15年(1638)、天草・島原の乱終結直後にも江戸幕府から「壊し方が不十分」と指摘され再度壊されたことが、古文書や発掘調査等により確認されました。
【写真左】縄張図
 南側から伸びた尾根は一旦三の丸付近で細くなり、再び北に向かって広がっている。

 近世城郭としての地どりも理想的な場所だったことが窺える。



 城は、山上にある本丸、二の丸、三の丸が総石垣造りで構成され、石垣は石材や積み方の違いなどから3時期に分けられ、築造技術の進歩を一体的に確認することができます。また、石垣隅部や石段を念入りに壊すなど、「城の壊し方」の痕跡が確認されています。

 発掘調査では、戦乱の無い時代の到来を願った天下泰平国土安穏銘鬼瓦や、豊臣政権との深い関係を示す桐紋入鬼瓦、文禄・慶長の役に際し朝鮮半島から連れてきた職人が作ったと考えられる瓦等、当時の社会情勢を示す遺物が出土しました。

 また、本丸周辺からは、お酒を飲む杯(かわらけ)とともに、魚の骨や貝殻が出土し、宴会を楽しむ人たちの姿を想像することができます。
 このように佐敷城跡は、石垣築造技術の進歩や一国一城令による破壊の実態等、近世初頭頃の政治・軍事を知るうえで重要な遺跡であるとして、国史跡に指定されました。”
【写真左】入口付近
 南側の三の丸南西端に当たる個所で、ここまで車で来ることができる。

 駐車場・便所など整備され、この日は日曜日であったこともあり、10人前後の探訪者があった。


梅北国兼の乱

 文禄元年(1592)1月5日、秀吉は朝鮮・明へ諸将を出陣させることを決行した。同年4月13日、小西行長・有馬晴信らは兵船700余を率いて朝鮮の釜山に入港。同5月、小西行長・加藤清正らは京城に入った。
【写真左】西側登城道
 右側には三ノ丸・二の丸及び本丸の石垣群が続く。

【写真左】本丸北側の下の郭
 登城道は、西側から進むようになっており、先ず北側に回り込むと、大手門に繋がる郭が控えている。





 主だった諸将が朝鮮に出陣しているとき、佐敷城は突如として梅北国兼(うめきたくにかね)という武将に乗っ取られた(「梅北の乱」)。国兼は元々肝付氏の一族で、後の戦国時代に入ってから島津氏の麾下となり、同国地頭の地位を得ていた。乱は三日間で鎮圧されたといわれていたが、最近では佐敷城を占拠したのは15日間に及んだといわれている。
【写真左】本丸西門
 先ほどの箇所から階段を登ると、本丸西門に至る。
 ここで直角に左に折れて進む。






 鎮圧したのは加藤清正臣下の者といわれ、国兼の頸はその後、肥前・名護屋城に送られ、浜辺に晒され、胴は佐敷五本松に埋められたという。
 ところで、乱の一揆勢の中には島津四兄弟の三男・歳久(としひさ)の配下が多くいた。
【写真左】本丸西門と東門を繋ぐ通路
 本丸はこの写真の右側に当たるが、この通路をまっすぐ進むと、東門に繋がる。

 左側の段は4,5m程度の幅をもち、通路と並行して造られている。



島津歳久 

 さて、これより先立つ天正15年(1587)秀吉による九州島津氏討伐の結果、当主義久が降伏したことは周知の通りであるが、島津四兄弟の中で、この歳久だけは最期まで降伏の態度を示さなかった。このことがのちに秀吉に危険人物と見られるきっかけとなる。
【写真左】本丸東門
 通路から見下ろしたもので、左側の段がそのまま東門を囲む虎口の構成。
 山城でいえば土塁もしくは物見櫓の機能をもったものだろう。



 そして、さらに秀吉を激昂させたのが、歳久がこの文禄の役出兵の命を拒否したことである。もっとも、このとき病(中風による手足の麻痺)に侵されていたためでもあったが、秀吉は当然ながら納得せず、歳久誅伐を命じた。

 命じられたのは兄義久であった。義久はこの間、再三にわたり歳久に説得を試み、秀吉の使者・細川幽斎に病状を見せ、釈明させようとしたが、歳久は応じなかった。
【写真左】本丸・その1
 本丸の形は少し歪な台形となっており、さほど大きなものではない。
【写真左】本丸・その2
 南端部を見たもので、その下には二の丸が見える。









 このため、兄義久は、遂に弟・歳久を殺害することになる。歳久は実際手足の不如意により自刃もできなかった。義久配下の討手に頼み、自らの頸を切るよう頼んだといわれる。享年56歳。
 天正19年(1591)7月18日、鹿児島竜ケ水(現鹿児島市吉野町)のことである。

歳久の辞世の句

   “晴蓑めが 玉(魂)のありかを 人問はば、
              いざ白雲の 末も知られず”


【写真左】二ノ丸
 東門付近からみたもので、当城の中では二の丸がもっとも長大な規模を持つ。








 さて、こうしたことから、佐敷城における「梅北の乱」の首謀者は確かに国兼であるが、最期まで秀吉に徹底抗戦した島津歳久が実質の首謀者であったのではないかとされる。
 しかし、この乱にはいまだに不可解な点や、謎が多い。
【写真左】二ノ丸から北の本丸を見る。
 当城を探訪する人は少なくないようで、大変に整備が行き届き、歩きやすい。
【写真左】二ノ丸南端部から三の丸を見下ろす。
 ご覧のように、南(上部)に行くにしたがって幅が狭くなっている。
【写真左】追手門付近
 東側にあるもので、この辺りの石積は良好に残っているようだ。
【写真左】「天下泰平」銘の鬼瓦出土の写真
 説明板にもあった「天下泰平」と刻銘された瓦の写真。
【写真左】貯蔵穴
 二の丸下付近の隅に残っていたもので、「貯蔵穴」の跡。
 中には、瓦・貝殻などが出土したという。
【写真左】佐敷城から八代海を眺望する。
 佐敷川河口から八代海を隔て、奥には天草諸島が見える。