2014年5月9日金曜日

佐敷城(熊本県芦北郡芦北町大字佐敷字下町)

佐敷城(さしきじょう)

●所在地 熊本県芦北郡芦北町大字佐敷字下町
●指定 国指定史跡
●築城期 天正17年(1588)
●築城者 加藤与左衛門重次(加藤清正)
●城主 加藤与左衛門重次(加藤清正)
●遺構 郭・石垣等
●高さ 88m(比高80m)
●登城日 2013年10月13日

◆解説(参考文献『戦国九州三国志』学研等)
 佐敷城は、前稿まで紹介した宇土市から八代海沿いに南方へ約46キロほど下った芦北町に築かれた近世城郭である。
【写真左】佐敷城遠望
 東側からみたもので、中央平坦部となっているところが本丸付近になる。






 現地の説明板より・その1

“国史跡
  佐敷城跡(さしきじょうあと)
    (指定年月日 平成20年3月28日)

◇指定名称 佐敷城跡
◇指定面積 83,490.54㎡
◇所在地 芦北郡芦北町大字佐敷字中丁49番1号ほか
【写真左】航空写真
 南方向からみたもの。
 東麓を流れるのは佐敷川で、西(左側)に迂回しながら八代海に注ぐ。







 佐敷城は、16世紀後半に肥後国(現在の熊本県)を治めた加藤清正が薩摩国(現在の鹿児島県)や球磨、天草地方へつながる交通の要であった佐敷に築かれた近世城郭で、城山(標高87.3m)と呼ばれる丘陵一帯を城域とし、山上からは不知火海や天草諸島、城下町、薩摩街道の難所である佐敷太郎峠を一望できます。

 肥薩国境を守る「境目の城」であり、島津軍とは二度、直接戦火を交え、これらの戦いにまつわる言い伝えは芦北郡一帯に残っています。

 大阪夏の陣で豊臣家が滅んだ元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となり壊されますが、寛永15年(1638)、天草・島原の乱終結直後にも江戸幕府から「壊し方が不十分」と指摘され再度壊されたことが、古文書や発掘調査等により確認されました。
【写真左】縄張図
 南側から伸びた尾根は一旦三の丸付近で細くなり、再び北に向かって広がっている。

 近世城郭としての地どりも理想的な場所だったことが窺える。



 城は、山上にある本丸、二の丸、三の丸が総石垣造りで構成され、石垣は石材や積み方の違いなどから3時期に分けられ、築造技術の進歩を一体的に確認することができます。また、石垣隅部や石段を念入りに壊すなど、「城の壊し方」の痕跡が確認されています。

 発掘調査では、戦乱の無い時代の到来を願った天下泰平国土安穏銘鬼瓦や、豊臣政権との深い関係を示す桐紋入鬼瓦、文禄・慶長の役に際し朝鮮半島から連れてきた職人が作ったと考えられる瓦等、当時の社会情勢を示す遺物が出土しました。

 また、本丸周辺からは、お酒を飲む杯(かわらけ)とともに、魚の骨や貝殻が出土し、宴会を楽しむ人たちの姿を想像することができます。
 このように佐敷城跡は、石垣築造技術の進歩や一国一城令による破壊の実態等、近世初頭頃の政治・軍事を知るうえで重要な遺跡であるとして、国史跡に指定されました。”
【写真左】入口付近
 南側の三の丸南西端に当たる個所で、ここまで車で来ることができる。

 駐車場・便所など整備され、この日は日曜日であったこともあり、10人前後の探訪者があった。


梅北国兼の乱

 文禄元年(1592)1月5日、秀吉は朝鮮・明へ諸将を出陣させることを決行した。同年4月13日、小西行長・有馬晴信らは兵船700余を率いて朝鮮の釜山に入港。同5月、小西行長・加藤清正らは京城に入った。
【写真左】西側登城道
 右側には三ノ丸・二の丸及び本丸の石垣群が続く。

【写真左】本丸北側の下の郭
 登城道は、西側から進むようになっており、先ず北側に回り込むと、大手門に繋がる郭が控えている。





 主だった諸将が朝鮮に出陣しているとき、佐敷城は突如として梅北国兼(うめきたくにかね)という武将に乗っ取られた(「梅北の乱」)。国兼は元々肝付氏の一族で、後の戦国時代に入ってから島津氏の麾下となり、同国地頭の地位を得ていた。乱は三日間で鎮圧されたといわれていたが、最近では佐敷城を占拠したのは15日間に及んだといわれている。
【写真左】本丸西門
 先ほどの箇所から階段を登ると、本丸西門に至る。
 ここで直角に左に折れて進む。






 鎮圧したのは加藤清正臣下の者といわれ、国兼の頸はその後、肥前・名護屋城に送られ、浜辺に晒され、胴は佐敷五本松に埋められたという。
 ところで、乱の一揆勢の中には島津四兄弟の三男・歳久(としひさ)の配下が多くいた。
【写真左】本丸西門と東門を繋ぐ通路
 本丸はこの写真の右側に当たるが、この通路をまっすぐ進むと、東門に繋がる。

 左側の段は4,5m程度の幅をもち、通路と並行して造られている。



島津歳久 

 さて、これより先立つ天正15年(1587)秀吉による九州島津氏討伐の結果、当主義久が降伏したことは周知の通りであるが、島津四兄弟の中で、この歳久だけは最期まで降伏の態度を示さなかった。このことがのちに秀吉に危険人物と見られるきっかけとなる。
【写真左】本丸東門
 通路から見下ろしたもので、左側の段がそのまま東門を囲む虎口の構成。
 山城でいえば土塁もしくは物見櫓の機能をもったものだろう。



 そして、さらに秀吉を激昂させたのが、歳久がこの文禄の役出兵の命を拒否したことである。もっとも、このとき病(中風による手足の麻痺)に侵されていたためでもあったが、秀吉は当然ながら納得せず、歳久誅伐を命じた。

 命じられたのは兄義久であった。義久はこの間、再三にわたり歳久に説得を試み、秀吉の使者・細川幽斎に病状を見せ、釈明させようとしたが、歳久は応じなかった。
【写真左】本丸・その1
 本丸の形は少し歪な台形となっており、さほど大きなものではない。
【写真左】本丸・その2
 南端部を見たもので、その下には二の丸が見える。









 このため、兄義久は、遂に弟・歳久を殺害することになる。歳久は実際手足の不如意により自刃もできなかった。義久配下の討手に頼み、自らの頸を切るよう頼んだといわれる。享年56歳。
 天正19年(1591)7月18日、鹿児島竜ケ水(現鹿児島市吉野町)のことである。

歳久の辞世の句

   “晴蓑めが 玉(魂)のありかを 人問はば、
              いざ白雲の 末も知られず”


【写真左】二ノ丸
 東門付近からみたもので、当城の中では二の丸がもっとも長大な規模を持つ。








 さて、こうしたことから、佐敷城における「梅北の乱」の首謀者は確かに国兼であるが、最期まで秀吉に徹底抗戦した島津歳久が実質の首謀者であったのではないかとされる。
 しかし、この乱にはいまだに不可解な点や、謎が多い。
【写真左】二ノ丸から北の本丸を見る。
 当城を探訪する人は少なくないようで、大変に整備が行き届き、歩きやすい。
【写真左】二ノ丸南端部から三の丸を見下ろす。
 ご覧のように、南(上部)に行くにしたがって幅が狭くなっている。
【写真左】追手門付近
 東側にあるもので、この辺りの石積は良好に残っているようだ。
【写真左】「天下泰平」銘の鬼瓦出土の写真
 説明板にもあった「天下泰平」と刻銘された瓦の写真。
【写真左】貯蔵穴
 二の丸下付近の隅に残っていたもので、「貯蔵穴」の跡。
 中には、瓦・貝殻などが出土したという。
【写真左】佐敷城から八代海を眺望する。
 佐敷川河口から八代海を隔て、奥には天草諸島が見える。

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