佐用城(さようじょう)
●所在地 兵庫県佐用郡佐用町佐用字福原
●別名 福原城・佐用構
●築城期 建武年間(1334~38)
●築城者 佐用範家
●城主 佐用範家、福原則尚
●形態 平山城
●遺構 郭・石垣・土塁・空堀
●登城日 2014年5月4日
◆解説
佐用城は以前取り上げた西播磨の上月城から、佐用川沿いに約3キロ余りさかのぼった佐用町佐用に築かれた平山城である。
【写真左】佐用城
城跡に福原霊社(頭様(こうべさま))が祀られている。
現地の説明板より
“佐用城(福原城)(さようじょう・ふくはらじょう)
中世に築かれた代表的な「平山城」で、南面に川、後背に山の「城堅固」の立地で、空堀、防塁、馬落としなどよくその原型をとどめている。
元弘3年(1331)4月28日、淀の久我畷(くがなわて)の戦いにおいて鎌倉方の総大将名越尾張守高家(なごえおわりのかみたかいえ)をただ一箭に討ち取った佐用兵庫介範家の築城と伝えられ、その後、赤松三十六家衆のうちの福原氏がこの城を継いだので、福原城ともいわれている。
【写真左】佐用城遠望
東麓を走る国道179号線の脇に案内板が設置されているが、その脇道から少し入ると「仮設の駐車場」があり、車をそこに停めて、歩いて向かうとすぐに北側に棚田が見え、その奥に福原氏を祀る福原霊社が見える。
戦国時代末期、東西の勢力拮抗の狭間で、西の上月城、南の高倉城、東の利神城(りかんじょう)とともに赤松一統の城郭群を形成していたが、天正5年(1577)11月、上方勢の羽柴秀吉との攻防により落城しその役割を終えた。
【写真左】登城道
写真右側に福原霊社があり、城域はこの右側となっているようだが、中央の道も当時は空堀の役目を持ったものだったかもしれない。
後世、土地の人々によって、時の城主福原藤馬允則尚(ふくはらとうまのじょうのりなお)の首級を祀るため、城跡に一社が造営され、「福原霊社(俗に頭様(こうべさま))」として今に広く崇敬されている。”
【写真左】福原霊社
当社の奥から北に土塁が伸びているので、当時はこの付近も土塁の一部だったかもしれない。
羽柴秀吉の佐用攻略
以前取り上げた上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その1でも述べているが、天正5年(1577)における秀吉の播磨攻めにおいて、上月城攻略前に落ちたのがこの佐用城である。
写真でも分かるように、当城は一般的な山城でなく、平山城の形態を持つ城館である。このため、攻めるに易く、守備するには難のある城砦といえるだろう。
しいていえば、東麓を流れる佐用川が一時的には濠の役目をしたであろうが、南北両方向からの攻めに対し、北側の切崖はあるものの、要害性は低い。
このため、城砦の機能より館としての役割が大きかったものと思われる。
【写真左】福原霊社の西側
空堀跡のような道を挟んで西側の方には墓地が見える。
【写真左】墓地側
この墓地は西から伸びてきた尾根の先端部に当たるが、当時はこの辺りにも遺構などがあったのかもしれない。
【写真左】北側に伸びる土塁
霊社からさらに北に伸びる土塁で、幅3m前後、高さ2m前後(右側郭段からの高さ)。
この土塁はそのまま伸びて、東に回り込んでいく(下の写真参照)
【写真左】東西に伸びる土塁
最近伐採されたようで、土塁の形状がよく分かる。
長さは30m前後か。このまま東に伸びて南に折れている。
【写真左】福原霊社から東の郭段を見る。
ご覧のように現在は田畑となっているが、おそらく数段の高低差を持たせた郭段となっていたものと思われる。
【写真左】北側の切崖
東西に延びる土塁の北側には急峻な切崖が残る。
比高差は最高値で7m前後ある。このことから、北からの攻めは大分意識されていたようだ。
【写真左】東端部から佐用川を見る。
現在佐用城と佐用川の間には国道179号線が走っているが、当時は佐用川が当城の際を流れていたのかもしれない。
【写真左】東端部を見る。
南側から見たもので、奥に土塁が見えるが、当時はこの東側にも土塁が構築されていたものと思われる。
また、土塁で囲まれた中央部は、現在畑地となっている。
なお、青い幟には「軍師 官兵衛 ゆかりの地 佐用町」と書かれいる。
【写真左】南東部の切崖か
南側の一段下がった郭付近だが、ご覧のように右・上段部は田圃となっており、元は郭段だったと考えられる。
この箇所も当時の切崖だった痕跡を残している。
【写真左】南側から奥の土塁などを見る。
手前の畑地となっているところに郭があったものとみられ、南北で2段の構成となっている。
奥行は70m前後か。
●所在地 兵庫県佐用郡佐用町佐用字福原
●別名 福原城・佐用構
●築城期 建武年間(1334~38)
●築城者 佐用範家
●城主 佐用範家、福原則尚
●形態 平山城
●遺構 郭・石垣・土塁・空堀
●登城日 2014年5月4日
◆解説
佐用城は以前取り上げた西播磨の上月城から、佐用川沿いに約3キロ余りさかのぼった佐用町佐用に築かれた平山城である。
【写真左】佐用城
城跡に福原霊社(頭様(こうべさま))が祀られている。
現地の説明板より
“佐用城(福原城)(さようじょう・ふくはらじょう)
中世に築かれた代表的な「平山城」で、南面に川、後背に山の「城堅固」の立地で、空堀、防塁、馬落としなどよくその原型をとどめている。
元弘3年(1331)4月28日、淀の久我畷(くがなわて)の戦いにおいて鎌倉方の総大将名越尾張守高家(なごえおわりのかみたかいえ)をただ一箭に討ち取った佐用兵庫介範家の築城と伝えられ、その後、赤松三十六家衆のうちの福原氏がこの城を継いだので、福原城ともいわれている。
【写真左】佐用城遠望
東麓を走る国道179号線の脇に案内板が設置されているが、その脇道から少し入ると「仮設の駐車場」があり、車をそこに停めて、歩いて向かうとすぐに北側に棚田が見え、その奥に福原氏を祀る福原霊社が見える。
戦国時代末期、東西の勢力拮抗の狭間で、西の上月城、南の高倉城、東の利神城(りかんじょう)とともに赤松一統の城郭群を形成していたが、天正5年(1577)11月、上方勢の羽柴秀吉との攻防により落城しその役割を終えた。
【写真左】登城道
写真右側に福原霊社があり、城域はこの右側となっているようだが、中央の道も当時は空堀の役目を持ったものだったかもしれない。
後世、土地の人々によって、時の城主福原藤馬允則尚(ふくはらとうまのじょうのりなお)の首級を祀るため、城跡に一社が造営され、「福原霊社(俗に頭様(こうべさま))」として今に広く崇敬されている。”
【写真左】福原霊社
当社の奥から北に土塁が伸びているので、当時はこの付近も土塁の一部だったかもしれない。
羽柴秀吉の佐用攻略
以前取り上げた上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その1でも述べているが、天正5年(1577)における秀吉の播磨攻めにおいて、上月城攻略前に落ちたのがこの佐用城である。
写真でも分かるように、当城は一般的な山城でなく、平山城の形態を持つ城館である。このため、攻めるに易く、守備するには難のある城砦といえるだろう。
しいていえば、東麓を流れる佐用川が一時的には濠の役目をしたであろうが、南北両方向からの攻めに対し、北側の切崖はあるものの、要害性は低い。
このため、城砦の機能より館としての役割が大きかったものと思われる。
【写真左】福原霊社の西側
空堀跡のような道を挟んで西側の方には墓地が見える。
【写真左】墓地側
この墓地は西から伸びてきた尾根の先端部に当たるが、当時はこの辺りにも遺構などがあったのかもしれない。
【写真左】北側に伸びる土塁
霊社からさらに北に伸びる土塁で、幅3m前後、高さ2m前後(右側郭段からの高さ)。
この土塁はそのまま伸びて、東に回り込んでいく(下の写真参照)
【写真左】東西に伸びる土塁
最近伐採されたようで、土塁の形状がよく分かる。
長さは30m前後か。このまま東に伸びて南に折れている。
【写真左】福原霊社から東の郭段を見る。
ご覧のように現在は田畑となっているが、おそらく数段の高低差を持たせた郭段となっていたものと思われる。
【写真左】北側の切崖
東西に延びる土塁の北側には急峻な切崖が残る。
比高差は最高値で7m前後ある。このことから、北からの攻めは大分意識されていたようだ。
【写真左】東端部から佐用川を見る。
現在佐用城と佐用川の間には国道179号線が走っているが、当時は佐用川が当城の際を流れていたのかもしれない。
【写真左】東端部を見る。
南側から見たもので、奥に土塁が見えるが、当時はこの東側にも土塁が構築されていたものと思われる。
また、土塁で囲まれた中央部は、現在畑地となっている。
なお、青い幟には「軍師 官兵衛 ゆかりの地 佐用町」と書かれいる。
【写真左】南東部の切崖か
南側の一段下がった郭付近だが、ご覧のように右・上段部は田圃となっており、元は郭段だったと考えられる。
この箇所も当時の切崖だった痕跡を残している。
【写真左】南側から奥の土塁などを見る。
手前の畑地となっているところに郭があったものとみられ、南北で2段の構成となっている。
奥行は70m前後か。
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