2013年7月15日月曜日

冷泉氏館(山口県岩国市周東町祖生)

冷泉氏館(れいぜんしやかた)

●所在地 山口県岩国市周東町祖生
●形態 館跡
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 冷泉判官隆豊
●高さ 標高100m(比高10m)
●登城日 2013年5月1日

◆解説(参考文献『サイト・城郭放浪記』『日本城郭体系第14巻』等)
 冷泉氏館跡は、以前紹介した周防の鞍掛山城(山口県岩国市玖珂町字谷津)のある玖珂から南東に伸びる国道437号線を南下し、祖生(そお)の東小学校北に見える丘状にある。
【写真左】冷泉氏館跡遠望・その1
 南側から見たもので、竹藪が見えるところ。








冷泉氏

 当館の主といわれる冷泉隆豊は、以前とりあげた大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)でも紹介したように、天文20年(1551)大内義隆が重臣陶晴賢の謀反によって当地に追われ、義隆が自害する際介錯を行った人物である。
【写真左】冷泉氏館跡遠望・その2
 緩やかな棚田状の一角に残っており、現在残っている規模は、東西150m×南北200m前後ぐらいだろうか。

 周辺部が土地改良によって改変されているため、当時の周辺の状況は不明だが、要害性はこの位置からはあまり感じられない。
ただ、下段に示すように東側にはみるべきものがある。



 なお、この年から23年後の天正2年(1574)、毛利氏は備中三村氏討伐を行い、最期に残った常山城(岡山県玉野市字藤木・岡山市灘崎町迫川)の城主上野隆徳を滅ぼしたが、その際当城の一時的な城番として、冷泉元満らを置いている。
【写真左】南側の入口付近
 現在周囲は畑や田圃が取り囲んでいるが、入口に当たる南側には簡易舗装された道が設置されている。






 この元満は大寧寺で義隆を介錯・殉死した隆豊の嫡男である。

 父隆豊が亡くなったとき幼少であったことから庇護を受け、平賀弘保(頭崎城(広島県東広島市高屋町貞重)参照)に仕えたのち、毛利氏の重臣として活躍していく。

 天正20年(1592)の秀吉による文禄の役で朝鮮に出兵、一時帰国したとき、出雲国の亀嵩城(旧三沢氏居城:下段2つの写真参照)の城主になっているが、その後再び朝鮮に出兵(慶長の役)、蔚山城の戦いで討死している。
【写真右】亀嵩城遠望
 三沢氏後期の居城で、島根県奥出雲町亀嵩にある。

 付近は松本清張の小説「砂の器」の舞台となった所で、記念碑などがある。
【写真右】冷泉民部の墓
 亀嵩城の麓・覚融寺から少し下がった所に、清龍寺廃寺があり、その入り口に案内石碑がある。ただ、廃寺跡には民部と思われる墓は見いだせなかった。(2013年11月25日)


【写真左】冷泉氏館跡・南側の箇所
 以前は畑地となっていたようだが、野地になっている。この左側の高くなったところに居館跡があるが、この位置からの比高差は約6,7m前後あり、そのまま東に回り込んでさらにその比高差を持たせている。




館附近に残る名所

 馬屋の跡、蔵の跡、風呂屋の跡、築山の跡、鞠の庭といわれている箇所があるというが、具体的にはどの場所なのか分からない。

 また、この近くの末元城の山に、冷泉氏の一の家老木村勘七が居住したというところ、及び同じく末元の小字北が迫に、二の家老尾高高庄兵衛が居住した場所があるという。
【写真左】鳥居
 この先には冷泉社という社が祀られているが、その手前にこの木製の鳥居がある。
この位置は東側に当たり、そのまま北の方へ進む。
【写真左】東側の箇所
 冷泉氏の居館が単純な館ではなく、要害性を併せ持ったものであることを感じさせるのはこの東側の法面(切崖)とその比高差である。
 右の田圃からの比高差は10m以上はある。
【写真左】冷泉社
 冷泉氏を祀ったものと思われるが、鉄筋コンクリート製の社が建つ。
【写真左】五輪塔群
 社のすぐ近くには中小の五輪塔20前後が残る。冷泉氏一族のものだろう。
【写真左】中央部
 社からさらに中央部に進むと、かなり奥行きのある削平地が見える。おそらく、当時は数棟かの建物があったものと思われる。
【写真左】北側から遠望する。
 手前は田圃で土地改良されているため館周囲の状況は解らないが、この付近にも何らかの付属施設があったのかもしれない。

2013年7月11日木曜日

西長尾城(香川県丸亀市綾歌町岡田上・仲多度郡まんのう町長尾)

西長尾城(にしながおじょう)

●所在地 香川県丸亀市綾歌町岡田上・仲多度郡まんのう町・長尾
●別名 国吉城
●築城期 応安元年(1368)
●築城者 長尾大隅守元高
●城主 長尾氏、国吉甚左衛門
●高さ 標高375.2m
●指定 丸亀市指定文化財
●遺構 郭・土塁・井戸・櫓・堀切・竪堀等
●登城日 2013年4月10日

◆解説
 西長尾城は、古来より讃岐国と阿波国を結ぶ主要な道の一つである現在の国道438号線の東側にあって、丸亀市と仲多度郡まんのう町の境をなす城山(H:375m)に築かれた城砦である。
【写真左】西長尾城遠望・その1
 北側から見たもの。
2015年3月14日撮影。
【写真左】西長尾城遠望・その2
 東側中腹部より見る。




【写真左】登城口付近
 登城口は何か所かあるようだが、この日は北麓部のレオマールドに向かう道の位置から向かった。

 ここから簡易舗装の道が整備されて、途中にある「語らいの広場」などへ車で向かうようになっているが、この日は入口付近で鎖による施錠がされていたため、道路脇の駐車場に車を置き、かなり長い距離を歩いて登った。


 現地の説明板より

“長尾城跡(国吉城跡)
     丸亀市指定文化財(平成16年9月27日)
歴史
 西長尾城は、丸亀平野南端、讃岐山脈の最前線ともいえる三山(大高見峰(おおたかみほう)・猫山・城山)の西端に位置する城山山頂(標高375.2m)付近に築かれている。初代城主は、細川頼之に協力して白峰合戦で活躍した長尾大隅守元高が応安元年(1368)にその座に就く。以降、代々の長尾大隅守によって200年近く守られてきた。
【写真左】遠望
 最初に「語らいの広場」という施設があり、この位置で北側から当城のなだらかな山容が見えるが、頂部手前から傾斜がきつくなっている。



 長尾一族は、この間に鵜足(うた)郡南部や那珂郡で勢力を増して岡田、栗隈(くりくま)、炭所(すみしょ)に支城を構える。丸亀平野南部地域を支配することにより、西長尾城は中讃地域の拠点としての地位を確立する。

 戦国時代が終わる頃、土佐の長宗我部元親が讃岐へ侵攻を始める。これに羽床(はゆか)氏(羽床城主)が奮戦するが、長宗我部氏との和平に同意した香川氏(天霧城主)が土佐方につき、仲介に入ったことから降伏した。
【写真左】レオマールド
 登り始めてしばらくすると、東側に見える。
 遊園地・おもちゃのテーマパークらしい。


 これによって長尾大隅守も長宗我部氏と和議を結ぶ。すぐさま、長宗我部氏の重臣だった国吉甚左衛門が入城したので長尾氏はこれに城主の座を譲る。このことから西長尾城は国吉城とも称される。

 天正13年(1585)、豊臣秀吉の全国統一に伴う四国征伐に屈し、長宗我部勢は土佐へ退却する。これにより西長尾城(国吉城)の歴史は幕を下ろす。
【写真左】西長尾城絵図
 現地に設置してあるもので、北側から見たものだが、右側(西側)の主郭を中心とした縄張りと、左側(南東側)のヤグラを両端部に配置した遺構との対比が面白い。



遺構

 山の至る所を人工的に切り盛りしており、曲輪(削平等により平らにした空間)や竪堀、堀切などの空堀(山の表面を溝状に掘り込んだもの)、土塁(曲輪の縁辺などに塀状に土を盛り上げたもの)などを装備する。
【写真左】櫓跡
 北側から登る登山道は殆ど簡易舗装された道となっているが、途中でそのコースから外れた「しろ(城)の道」という当時の遺構をそのまま残した箇所がある。

 ジグザグに登っていくと、長さ30m×幅20m程度の頂部があり、この箇所が櫓跡と思われる。
 この場所を過ぎると再び簡易舗装の道に出てそのまま広場(駐車場か)まで向かうことができる。しかし、管理人はその後再び当時の登城道(「北口」と表示された箇所から)があったのでこのコースを進んだ。


 山頂の主郭から北東に延びる2筋の尾根上には、それぞれ連郭式郭列と呼ばれる連続する大小様々な曲輪がつくられる。その両端部には、土塁が廻らされる。更にその側面部や外側には多くの空堀が配置される。これらの装備によって外部からの侵攻にたいする守りを強固にする。連郭式郭列に挟まれた谷筋には水の手曲輪と呼ばれる水源が設けられている。
【写真左】登城途中から讃岐富士などを俯瞰する。
 ほぼ真北には飯野山(通称讃岐富士)や、瀬戸内が見える。



 頂上から南東に下ると、ヤグラと呼ばれる小高い所があり、その外側は堀切で尾根が断ち切られている。この堀切より東は、長宗我部勢により拡充されたものと考えられる。広大な削平地が続き、先端にもヤグラが設けられる。ヤグラの外側には堀切が二重に配置されており守備力が増している。

 他にも尾根上や谷筋に様々な遺構が配置されているようであるが、未だ全容は解明されていない。
   丸亀市教育委員会”
【写真左】土塁と郭群
 北側には連続する郭群が東西に2か所認められるが、これはそのうちの西側のもので、3段からなる郭をこの土塁が縦につないでいる。

 また、このさらに西には竪堀が2本あるようだが、整備されていないため確認はしていない。


西長尾城の支城
 
 説明板にもあるように本城を西長尾城とし、これを支えていた支城は次のものである。
  1.  炭所城(まんのう町炭所東種子)   城主  長尾大隅守次男伊勢守及び、八男惣左衛門                             
  2.  岡田城(綾歌町岡田下)         城主  長尾大隅守三男左衛門乃督                                     
  3.  栗隅城(別名湯船城)(綾歌町栗熊) 城主 長尾元高四男田村上野親光    

1.の炭所城は、西長尾城から東に約3キロ向かった位置にあり、2.の岡田城は西長尾城のほぼ真北約3キロの場所で、3.の栗隅城は、最も東の位置にあって西長尾城から7キロ程隔てている。

 このうち、栗隅城は、城域が3キロにもおよび、当城も含め、近接して星濡城・田村城・城之岡城・大流城などといった城砦が複合的に配置されているという。機会があれば登城してみたいものだ。
【写真左】郭群
 先ほどの位置からさらに上に向かったところで、このあたりから九十九折となっていく。右側には数段の郭が連続している。
【写真左】本丸直近から南東を見る
 中央に見える林道のような道がおそらくもう一つの登山道と思われ、この先で二つに分岐し、東に向かうと猫山、もう一つは西長尾城に登る道となるが、ここからは急坂が多いようだ。
【写真左】本丸・その1
 登城途中の郭段の規模から想像していたものより大きい。
 東西に長く楕円形のもので、長径20m×短径15m前後か。
【写真左】本丸・その2
 三角点付近には、地元の方がのぼった記録板が掲げられている。
【写真左】本丸西の郭
 本丸西を降りていくと、小規模な郭が残る。この先からは急勾配の斜面が続いており、このコースを上りとすると相当の体力を必要とするだろう。
【写真左】本丸跡から金比羅宮を見る
 西北西には琴平山中腹に祀られた金刀比羅宮(こんぴらさん)がかすかに見える。
【写真左】井戸跡
 この辺りは殆ど保水力のない山が多いが、当城にはいまでもこのような水をたたえた箇所が残る。
【写真左】東側に伸びる削平地・ヤグラ跡
 本丸から東側を降りると、猫山方面にむかって両端部に設置されたヤグラ跡がある。
 現在はその北側の脇に登城道が別に造られ、猫山方面に向かう道が並行して走る

 ヤグラ跡はさほど高くはないが、削平地と併せて東西に長い規模を持つ。
 写真の左にみえる三角の山は猫山。

2013年7月4日木曜日

矢滝城(島根県大田市温泉津町湯里 西田)

矢滝城(やたきじょう)

●所在地 島根県大田市温泉津町湯里 西田
●築城期 享禄元年(1528)以前
●築城者 大内氏
●城主 大内氏、小笠原氏等
●高さ 634m
●指定 世界遺産登録、国指定史跡
●遺構 郭、腰郭、堀切、竪堀、虎口
●登城日 2013年4月5日

◆解説(『日本城郭体系第14巻』『山陰史跡ガイドブック第1巻 山陰の城館跡 改訂版 史跡整備ネットワーク会議編』等)
【写真左】矢滝城遠望・その1
 南麓部の谷を走る県道201号線(湯里停車場祖式線)の南側から見たもので、この箇所で大きく道が谷を跨いでカーブしている。

 この方向からみた矢滝城はかなり険峻な山容を見せる。


現地の説明板より

“矢滝城跡
 矢滝城跡は、標高634mの矢滝城山の頂上にあります。戦国時代に石見銀山の支配権をめぐって激しい争奪戦がありましたが、その争奪戦の拠点のひとつが矢滝城で、遅くとも享禄元年(1528)には築城されていたと思われます。
【写真左】矢滝城遠望・その2
 同じく県道201号線から見たものだが、当城から西に約2キロ余り下った西田地区から見たもの。




 矢滝城の北側には石見銀山から温泉津港に至る銀山街道(温泉津・沖泊)があり、更にその北側には矢筈城跡があります。銀山街道をはさむ形で築かれた矢滝城と矢筈城が一対となって銀山防衛、交通路掌握の機能を担っていました。

 山頂部の北側曲輪群には枡形をした入口(虎口)や竪堀、南側曲輪群には堀切などが残っています。
❶曲輪
 城の一つの区画
❷竪堀
 山の斜面の上下方向に堀を掘って敵の移動や侵入を防ぐもの
❸堀切
 山の峰つづきの所などを掘って敵の侵入を防ぐもの”
【写真左】石見銀山遺跡図
 この図には登録された当城の他、石見城・矢筈城および、山吹城などが図示されている。






世界遺産の石見銀山

 矢滝城については、これまで石見(いわみ)城(島根県大田市)および温湯城・その2(島根県邑智郡川本町河本谷)でも紹介してきたが、石見銀山・山吹城(島根県大田市大森銀山)の稿でも紹介したように、2007年6月に世界遺産として登録された石見銀山の登録対象の中の一つで、当城以外の山城としては、前出の山吹城・石見城と併せ、もう一つは未投稿だが、矢筈城がある。
【写真左】矢滝城要図
 上部が北を示し、南北に長く伸びた縄張である。構成は単純なものとなっているが、登城道途中の東斜面が天険の要害となっている。



 世界遺産登録された当初、石見銀山の観光客は大変なにぎわいを見せたものだが、さすがに6年も経つとだいぶ落ち着いてきているようで、むしろ現在では観光客の減少に歯止めをかける方策が講じられているようだ。

 さて、この矢滝城については、登録された中心部である大森・銀山地区のエリアから少し離れた南端部に築城されている。この位置は数コースある石見銀山街道の中の、温泉津沖泊道の降路坂側にあって、この道の南に矢滝城、北側に矢筈城があり、両城がいわばこの道の西側を守備するための城砦として築かれたという。
【写真左】登城口付近
 県道201号線のトンネルで、東側の祖式側から見たもの。登城口はこの写真の左側にある。なお、その手前には車2,3台分程度の駐車スペースがある。

 登城ルートはここからすぐに北に向かって尾根を進み、このトンネルの真上を通ることになる。



毛利氏と尼子氏の銀山争奪戦

 説明板にもあるように、銀山を守備するこれらの城砦については、特に温湯城・その2(島根県邑智郡川本町河本谷)において記したように、戦国期の享禄4年(1531)4月、小笠原長隆が大内氏に反旗を掲げ、矢滝城を急襲、一時は銀山を支配下に置いている。

 しかし、それから20年余りの弘治3年(1557)毛利元就が銀山を支配すると、出雲の尼子晴久が翌永禄元年(1558)、大挙して来攻、特に銀山中心地の山吹城は孤立し、結果尼子氏の手に入った。おそらく矢滝城も同じような状況になっていたと思われる。
【写真左】登城道・その1
 尾根道は最初に北に進み、途中から西に向かう。
 道の周囲は整備されており、歩きやすい。



 ところが、永禄3年(1561)になると、再び毛利元就は捲土重来を期して銀山奪還をはかった。当時、山吹城を守備していたのは尼子氏の麾下にあった本城常光(本城常光(ほんじょうつねみつ)について参照)である。

 彼については以前にも述べたように、武勇にはひときわ秀でていた武将ではあったが、利にさとく、しかも麾下としてあっても忠義はほとんどなく、主従関係つまり命に従うことを嫌い、その横妨さには目に余るものがあった。こうした常光の能力・性格を知っていた元就は、謀略をもって常光を誘降し、山吹城は元就の手に落ちた。その後、石見銀山は尼子氏の手に戻ることなく、毛利氏の支配下となった
【写真左】登城道・その2
 途中から西側に向かって尾根道が続く。この先に少し高い土壇のような箇所がある。城域の西麓直下にあたり、しかも北方には山吹城が俯瞰できるので、物見台的なものがあったと思われる。


 さて、このころの矢滝城については詳細な記録が残っていないが、おそらく山吹城が毛利氏の手中に入った永禄年間以後、不要となったものと考えられる。
【写真左】南側曲輪群の東斜面
 この位置からいよいよ南側曲輪群の始点となり、急峻な東側斜面をトラバースしながら高度を上げる。
【写真左】南曲輪群と北曲輪群の中間点
 先ほどの斜面をしばらく進むと、南曲輪群と北曲輪群の中間点である尾根鞍部にたどり着く。
 この写真の左側が南曲輪群で、右に行くと長い郭があり、その先に主郭が見えてくる。
【写真左】主郭・その1
 先ほどの位置から約50m程北に向かって進むと、主郭が見えてくる。
【写真左】虎口跡
 主郭に向かって西側に3か所の虎口が現地の要図に示されているが、現場はご覧のように明瞭ではない。
 この虎口は2番目のもので、大分劣化しているようだ。
【写真左】主郭・その2
 主郭はほぼ円形に近いもので、長径20~25m前後。北東部にはご覧のような鉄筋コンクリート製の建物跡がある。電波施設のようなものだろうか。現在は廃墟となっている。
【写真左】虎口か
 要図にはこの位置に虎口があったものとして記され、実際このような窪みが残る。

 ただ、前掲した施設施工の際、この付近も改変されたような跡が残ることから、果たしてこれを虎口と比定してよいものか管理人には判断しかねる。
【写真左】主郭西側の郭
 主郭周辺には連続するような帯郭はなく、単発の小規模な腰郭が点在している。
 このうち、西側に幅3m×長さ5m前後のものと、北側に少し離れて小規模な腰郭が残っている。
 この写真はそのうちの西側のもの。

【写真左】山吹城を遠望する

 主郭跡から北東方向に山吹城が見える。
標高634mの矢滝城に対し、山吹城は412mと約200mほど低い。
 秋から初冬にかけて、山吹城の本丸付近はかなり明瞭に見えるだろう。
【写真左】仙の山を遠望する
 山吹城からさらに東に目を転ずると、矢滝城から直線距離で約2キロ余りの位置には最も多くの銀が産出されたという仙の山(H:538m)が見える。
【写真左】矢筈城及び城上山、高山を遠望する。
 北西方面には、左側に矢筈城、その奥には城上山及び高山が見える。

 なお、これらの山並みの奥に霞んで見えるのは日本海。