昼寝城(ひるねじょう)
●所在地 香川県さぬき市多和
●指定 さぬき市指定史跡
●高さ 460m(比高220m)
●築城期 嘉吉年間(1441~44)ごろ
●築城者 寒川氏
●城主 寒川氏
●遺構 郭、土塁等
●登城日 2016年10月31日
◆解説
「昼寝城」とは変わった城名である。伝承では、当城が難攻不落の城郭で、「昼寝をしていても落とされない」ことからこの名がつけられたともいわれている。
当城はさぬき市を流れる鴨部川の上流部多和にあって、その支流・太郎兵衛川と並行して走る同名の矢筈大郎兵衛林道の途中から南に登った標高460mの山塊に築かれている。
讃岐山脈(阿讃山脈)の一角に所在し、近くには矢筈山・女体山・東女体山といった標高800m近くの峰々が林立し、これを超えると四国88ヶ所霊場の結願所となる大窪寺がある。
【写真左】昼寝城遠望
林道の途中から見たもので、讃岐山脈の山並みの一角にあるため、麓からはどの山に当たるのか分かりづらい。
下山したあと、改めて確認できた。
現地の説明板より
‟昼寝城
古代の讃岐公の一族で、世々寒川郡司をつとめた寒川氏は、室町時代後期には、大内・寒川の二郡のほかに小豆島も兼領し、この昼寝城を本城に、池の内の台ガ山城(長尾町名(長尾名か))を出城に、大内郡の虎丸(大内町)引田城(引田町)を支城にした。戦国期の終わり頃まではここに城があったと考えられる。
【写真左】案内図
県道志度山川線と昼寝城に向かう枝線(林道矢筈大郎兵衛線)の分岐点に設置されているもので、昼寝城は中央右に描かれている。なお、下方が北になる。
1980年の調査で、白磁は(ほ?)どの陶磁器や、銅環・銅製切羽などの金属製品、多数の銅銭、砥石、玉石などが出土した。また、最近の調査では、(1988年『中世城郭研究』)「遺構は尾根筋を堀切で遮断、土塁囲みを構築した本丸曲輪が見られ、シンプルな縄張りであるが、在地領主の小規模城郭としては、防御構築物に合理性が見られ、良くできた城郭と言える。」と評価されている。
【写真左】登城口
林道の途中に車2,3台分駐車できるスペースがあり、当城の説明板などが設置されている。
右側は谷となっており、しばらく山の右側斜面を進む道がついている。
もともと、大多和神社(延喜式内社)から行基菩薩が布施屋を開いたという伝承のある古大窪に通じる道の途中、今も比丘尼(女性の宗教者がいたか?)渕と呼ばれる所から右に登る道があった。
なぜ、こんな奥地にという疑問があるだろうが、古代の信仰集団の存在や、鉱物資源を求める工人集団の存在を示す遺構があり、今周辺に見られる石垣の見事さから、かなりの人の住居が想像できるのである。
さぬき市教育委員会″
【写真左】登城道
しばらくこうした斜面の道が続く。ところどころ道が崩れ、荒れた箇所が多いので、足元をすくわれそうになる。
古代讃岐公の後裔
築城者は寒川氏(さんがわし)といわれている。説明板にもあるように、同氏は古代讃岐公の一族とされる。讃岐公という名称は、『新撰姓氏録』の記載名で、一般には古代氏族讃岐氏と呼ばれる(以下「讃岐氏」とする。)。
讃岐氏は延暦年間(782~)ごろから本貫地を寒川郡神崎郷に置いている。この場所は、現在のさぬき市寒川町神前(かんざき)付近で、東に津田川、西に鴨部川の二つに囲まれた位置にある。
讃岐氏の後裔としては、当城の築城者・寒川氏をはじめ、和気氏、植田氏(戸田山城(香川県高松市東植田町南城)参照) 、神内氏、三谷氏(王佐山城(香川県高松市西植田町) 参照)、由良氏、十河氏(十河城(香川県高松市十川東町) 参照)、高松氏(旧・高松城(香川県高松市高松町帰来) 参照)、高木氏、三木氏などの諸氏が輩出した。
【写真左】尾根にたどり着く。
トラバース状の道をしばらく進むと、やっと尾根にたどり着いた。
この個所には若干の平坦地があり、郭らしき雰囲気がある。
寒川氏と安富氏の東讃覇権争い
さて、今稿の昼寝城の城主として名が残るのは、寒川元家・元政父子らである。室町時代後期には、大内郡・寒川郡、及び小豆島を支配下に治めていたというから、現在のさぬき市・東かがわ市・小豆島町・土庄町となり、東讃のほぼ全域を領有していたことになる。
本城となる昼寝城は、冒頭でも述べたように、東讃の中でももっとも南に向かった阿波国と接するさぬき市の多和の山間部に所在する。出城とした池の内の台ガ山城は、昼寝城から北に降りた長尾名にあって、別名池内城とよばれた標高87mの丘城である。また、支城とされるのは既に紹介した虎丸城(香川県東かがわ市与田山) と、引田城跡(香川県東かがわ市 引田) である。
【写真左】尾根左側へ
尾根筋にたどり着いたものの、そのあと何度か尾根の左右を交互に進むルートとなる。
ところで、この寒川氏と相争ったのが、讃岐・雨滝城(香川県さぬき市大川町富田中) の安富氏である。安富氏は、讃岐南北朝期における白峰合戦(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町) 参照)で、細川頼之が南朝方を一掃したあと、細川氏は直臣を当地に下向させ支配を行っていくが、このとき下向したのが、安富氏をはじめ、香川氏(天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)参照)、奈良氏(聖通寺城(香川県綾歌郡宇多津町坂下・平山) 参照)といった外来一族である。
安富氏の居城雨滝城の所在地は、寒川氏の初期の本貫地寒川郡神崎とは津田川を介して僅か2キロほどしか離れていない。このため、安富氏の東讃下向時、在来の寒川氏との対立が勃発するのは当然の成り行きだった。しかし、讃岐守護細川氏の後ろ盾を背景に、東讃の守護代となり、名目上寒川氏は安富氏の傘下に置かれ、西讃の守護代は香川氏となっていく。
【写真左】再び右の斜面へ
同じような写真が続くが、このあたりになると道はほとんど崩落状態で、しかも傾斜がさらにきつくなる。
しかし、こうした東讃の勢力図も応仁・文明の乱のころになると極めて不安定な様相を呈し、文明元年(1469)、元は同族であった王佐山城の三谷氏と不和を生じ、細川政元の命よって一時は矛を収めたが、再び同氏を攻めている。このほか、応仁・文明の乱における東軍と西軍の対立は讃岐国にも及び、守護代をはじめ、中小の国人領主らが錯綜した争いを展開している。
【写真左】前方が開けてきた。
山の形状が急峻なため、登城道はどうしても良好な状態には保てないようだ。
逆に言えば、敵の侵入を困難にさせるまさに天然の要害ともいえる。
十河・三好氏の圧迫
永正5年(1508)、大内義興が足利義稙を奉じて入京したころ、阿波の三好氏は東讃に介入し始めた。そして、植田氏及び、その系譜に繋がる十河氏らを抱き込み、香西・寒川氏らを攻め始めた。
大永6年(1526)12月、三好氏の支援を受けた十河氏は、三千余騎をもって寒川氏を攻めた。これに対し、寒川氏は巧みな戦術で十河軍に大勝した。しかし、このころ、十河氏は、植田・神谷・三谷氏らとも連合し、数の上では圧倒的に寒川氏を上回っていた。このため、十河・三好氏の圧迫は寒川氏にとって次第に脅威となり、西讃の諸氏に援けを求めた。
【写真左】細尾根の郭
尾根にたどり着くと、奥に向かって削平された長い郭が続く。昼寝城は細長い尾根上に構築された城郭のため、まとまった規模の郭は少ない。
両岸は険峻な切岸である。
それに応えたのが、香川山城守(天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原) 参照)と香西豊前守(勝賀城(香川県高松市鬼無町) 参照)である。さらに一宮大宮司らと図って、寒川氏支援のため、一宮に大軍を出兵させた。この場所は、現在の高松市一宮町付近で、十河氏の居城十河城や、由良山城などを寒川氏側と挟む位置にある。このため遠巻きに陣していた十河・三好氏連合軍は、これを知って兵を引き上げた。
ところで、この戦いの6年後となる天文元年(1532)、十河一存(かずまさ)が、長尾名村の池内城を攻め、寒川方の神内左衛門兄弟の槍に左腕を刺されたが、これに屈せず一存は左衛門らを討った。この武勲により一存は「鬼十河」と巷間伝えられている。しかし、十河(三好)一存は、この戦いの年(1532年)に生まれているので、全く時期が合わない。おそらく、これはその後、兄・三好長慶を支えながら戦った畿内での武勇伝から生まれた逸話だろう。
十河氏との戦いは、そのあと細川晴元(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山) 参照)の斡旋により両者は和睦した。
【写真左】本丸が見えてきた。
尾根伝いに中小の郭段が続いていくが、その奥には祠が祀られた本丸が見えてきた。
安富氏と再びの攻防
十河氏は、細川晴元の斡旋を受け入れたが、しかし、安富氏はこれに従わなかった。安富氏がこうした行動に出たのは、すでに安富氏が寒川氏をはじめ、三好氏(十河氏)とも対立していた背景があった。
天文9年(1540)、安富盛方は一千余騎をもって寒川領に侵攻、当時平時の住まいとしていた長尾名(池内城)を落とすと、寒川元政の子・元隣は昼寝城に立て籠った。すると、安富方はこの城を兵糧攻めにした。この戦いは3年に及んだが、戦いの決着はつかなかった。
【写真左】「昼寝山」と記された看板
本丸付近には、「昼寝山 460m さぬき市合併10周年」と書かれた看板が木に懸けられている。
当市は、2002年に合併しているので、2012年に設置されたものだろう。
昼寝城の落城と寒川氏の滅亡
東讃における安富・寒川氏らの攻防はその後も続き、元亀3年(1572)、安富氏が盛定となると、三好氏の重臣・篠原長房(上桜城(徳島県吉野川市川島町桑村)参照)の女を娶り、三好氏との関係を修復し、寒川氏打倒へと動いた。
●所在地 香川県さぬき市多和
●指定 さぬき市指定史跡
●高さ 460m(比高220m)
●築城期 嘉吉年間(1441~44)ごろ
●築城者 寒川氏
●城主 寒川氏
●遺構 郭、土塁等
●登城日 2016年10月31日
◆解説
「昼寝城」とは変わった城名である。伝承では、当城が難攻不落の城郭で、「昼寝をしていても落とされない」ことからこの名がつけられたともいわれている。
当城はさぬき市を流れる鴨部川の上流部多和にあって、その支流・太郎兵衛川と並行して走る同名の矢筈大郎兵衛林道の途中から南に登った標高460mの山塊に築かれている。
讃岐山脈(阿讃山脈)の一角に所在し、近くには矢筈山・女体山・東女体山といった標高800m近くの峰々が林立し、これを超えると四国88ヶ所霊場の結願所となる大窪寺がある。
【写真左】昼寝城遠望
林道の途中から見たもので、讃岐山脈の山並みの一角にあるため、麓からはどの山に当たるのか分かりづらい。
下山したあと、改めて確認できた。
現地の説明板より
‟昼寝城
古代の讃岐公の一族で、世々寒川郡司をつとめた寒川氏は、室町時代後期には、大内・寒川の二郡のほかに小豆島も兼領し、この昼寝城を本城に、池の内の台ガ山城(長尾町名(長尾名か))を出城に、大内郡の虎丸(大内町)引田城(引田町)を支城にした。戦国期の終わり頃まではここに城があったと考えられる。
【写真左】案内図
県道志度山川線と昼寝城に向かう枝線(林道矢筈大郎兵衛線)の分岐点に設置されているもので、昼寝城は中央右に描かれている。なお、下方が北になる。
1980年の調査で、白磁は(ほ?)どの陶磁器や、銅環・銅製切羽などの金属製品、多数の銅銭、砥石、玉石などが出土した。また、最近の調査では、(1988年『中世城郭研究』)「遺構は尾根筋を堀切で遮断、土塁囲みを構築した本丸曲輪が見られ、シンプルな縄張りであるが、在地領主の小規模城郭としては、防御構築物に合理性が見られ、良くできた城郭と言える。」と評価されている。
【写真左】登城口
林道の途中に車2,3台分駐車できるスペースがあり、当城の説明板などが設置されている。
右側は谷となっており、しばらく山の右側斜面を進む道がついている。
もともと、大多和神社(延喜式内社)から行基菩薩が布施屋を開いたという伝承のある古大窪に通じる道の途中、今も比丘尼(女性の宗教者がいたか?)渕と呼ばれる所から右に登る道があった。
なぜ、こんな奥地にという疑問があるだろうが、古代の信仰集団の存在や、鉱物資源を求める工人集団の存在を示す遺構があり、今周辺に見られる石垣の見事さから、かなりの人の住居が想像できるのである。
さぬき市教育委員会″
【写真左】登城道
しばらくこうした斜面の道が続く。ところどころ道が崩れ、荒れた箇所が多いので、足元をすくわれそうになる。
古代讃岐公の後裔
築城者は寒川氏(さんがわし)といわれている。説明板にもあるように、同氏は古代讃岐公の一族とされる。讃岐公という名称は、『新撰姓氏録』の記載名で、一般には古代氏族讃岐氏と呼ばれる(以下「讃岐氏」とする。)。
讃岐氏は延暦年間(782~)ごろから本貫地を寒川郡神崎郷に置いている。この場所は、現在のさぬき市寒川町神前(かんざき)付近で、東に津田川、西に鴨部川の二つに囲まれた位置にある。
讃岐氏の後裔としては、当城の築城者・寒川氏をはじめ、和気氏、植田氏(戸田山城(香川県高松市東植田町南城)参照) 、神内氏、三谷氏(王佐山城(香川県高松市西植田町) 参照)、由良氏、十河氏(十河城(香川県高松市十川東町) 参照)、高松氏(旧・高松城(香川県高松市高松町帰来) 参照)、高木氏、三木氏などの諸氏が輩出した。
【写真左】尾根にたどり着く。
トラバース状の道をしばらく進むと、やっと尾根にたどり着いた。
この個所には若干の平坦地があり、郭らしき雰囲気がある。
寒川氏と安富氏の東讃覇権争い
さて、今稿の昼寝城の城主として名が残るのは、寒川元家・元政父子らである。室町時代後期には、大内郡・寒川郡、及び小豆島を支配下に治めていたというから、現在のさぬき市・東かがわ市・小豆島町・土庄町となり、東讃のほぼ全域を領有していたことになる。
本城となる昼寝城は、冒頭でも述べたように、東讃の中でももっとも南に向かった阿波国と接するさぬき市の多和の山間部に所在する。出城とした池の内の台ガ山城は、昼寝城から北に降りた長尾名にあって、別名池内城とよばれた標高87mの丘城である。また、支城とされるのは既に紹介した虎丸城(香川県東かがわ市与田山) と、引田城跡(香川県東かがわ市 引田) である。
【写真左】尾根左側へ
尾根筋にたどり着いたものの、そのあと何度か尾根の左右を交互に進むルートとなる。
ところで、この寒川氏と相争ったのが、讃岐・雨滝城(香川県さぬき市大川町富田中) の安富氏である。安富氏は、讃岐南北朝期における白峰合戦(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町) 参照)で、細川頼之が南朝方を一掃したあと、細川氏は直臣を当地に下向させ支配を行っていくが、このとき下向したのが、安富氏をはじめ、香川氏(天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)参照)、奈良氏(聖通寺城(香川県綾歌郡宇多津町坂下・平山) 参照)といった外来一族である。
安富氏の居城雨滝城の所在地は、寒川氏の初期の本貫地寒川郡神崎とは津田川を介して僅か2キロほどしか離れていない。このため、安富氏の東讃下向時、在来の寒川氏との対立が勃発するのは当然の成り行きだった。しかし、讃岐守護細川氏の後ろ盾を背景に、東讃の守護代となり、名目上寒川氏は安富氏の傘下に置かれ、西讃の守護代は香川氏となっていく。
【写真左】再び右の斜面へ
同じような写真が続くが、このあたりになると道はほとんど崩落状態で、しかも傾斜がさらにきつくなる。
しかし、こうした東讃の勢力図も応仁・文明の乱のころになると極めて不安定な様相を呈し、文明元年(1469)、元は同族であった王佐山城の三谷氏と不和を生じ、細川政元の命よって一時は矛を収めたが、再び同氏を攻めている。このほか、応仁・文明の乱における東軍と西軍の対立は讃岐国にも及び、守護代をはじめ、中小の国人領主らが錯綜した争いを展開している。
【写真左】前方が開けてきた。
山の形状が急峻なため、登城道はどうしても良好な状態には保てないようだ。
逆に言えば、敵の侵入を困難にさせるまさに天然の要害ともいえる。
十河・三好氏の圧迫
永正5年(1508)、大内義興が足利義稙を奉じて入京したころ、阿波の三好氏は東讃に介入し始めた。そして、植田氏及び、その系譜に繋がる十河氏らを抱き込み、香西・寒川氏らを攻め始めた。
大永6年(1526)12月、三好氏の支援を受けた十河氏は、三千余騎をもって寒川氏を攻めた。これに対し、寒川氏は巧みな戦術で十河軍に大勝した。しかし、このころ、十河氏は、植田・神谷・三谷氏らとも連合し、数の上では圧倒的に寒川氏を上回っていた。このため、十河・三好氏の圧迫は寒川氏にとって次第に脅威となり、西讃の諸氏に援けを求めた。
【写真左】細尾根の郭
尾根にたどり着くと、奥に向かって削平された長い郭が続く。昼寝城は細長い尾根上に構築された城郭のため、まとまった規模の郭は少ない。
両岸は険峻な切岸である。
それに応えたのが、香川山城守(天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原) 参照)と香西豊前守(勝賀城(香川県高松市鬼無町) 参照)である。さらに一宮大宮司らと図って、寒川氏支援のため、一宮に大軍を出兵させた。この場所は、現在の高松市一宮町付近で、十河氏の居城十河城や、由良山城などを寒川氏側と挟む位置にある。このため遠巻きに陣していた十河・三好氏連合軍は、これを知って兵を引き上げた。
ところで、この戦いの6年後となる天文元年(1532)、十河一存(かずまさ)が、長尾名村の池内城を攻め、寒川方の神内左衛門兄弟の槍に左腕を刺されたが、これに屈せず一存は左衛門らを討った。この武勲により一存は「鬼十河」と巷間伝えられている。しかし、十河(三好)一存は、この戦いの年(1532年)に生まれているので、全く時期が合わない。おそらく、これはその後、兄・三好長慶を支えながら戦った畿内での武勇伝から生まれた逸話だろう。
十河氏との戦いは、そのあと細川晴元(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山) 参照)の斡旋により両者は和睦した。
尾根伝いに中小の郭段が続いていくが、その奥には祠が祀られた本丸が見えてきた。
安富氏と再びの攻防
十河氏は、細川晴元の斡旋を受け入れたが、しかし、安富氏はこれに従わなかった。安富氏がこうした行動に出たのは、すでに安富氏が寒川氏をはじめ、三好氏(十河氏)とも対立していた背景があった。
天文9年(1540)、安富盛方は一千余騎をもって寒川領に侵攻、当時平時の住まいとしていた長尾名(池内城)を落とすと、寒川元政の子・元隣は昼寝城に立て籠った。すると、安富方はこの城を兵糧攻めにした。この戦いは3年に及んだが、戦いの決着はつかなかった。
【写真左】「昼寝山」と記された看板
本丸付近には、「昼寝山 460m さぬき市合併10周年」と書かれた看板が木に懸けられている。
当市は、2002年に合併しているので、2012年に設置されたものだろう。
昼寝城の落城と寒川氏の滅亡
東讃における安富・寒川氏らの攻防はその後も続き、元亀3年(1572)、安富氏が盛定となると、三好氏の重臣・篠原長房(上桜城(徳島県吉野川市川島町桑村)参照)の女を娶り、三好氏との関係を修復し、寒川氏打倒へと動いた。
三好長治は安富氏の要請により、寒川氏に対し、同氏の領域である大内郡(おおちぐん)を引き渡すように命じた。大内郡というのは、現在の東かがわ市に当たる地域で、讃岐国(香川県)の東端部に当たり、阿波国(徳島県)と接している。このころの阿波三好氏の勢力は寒川氏にとって脅威であったため、これを受託、同郡内の支城であった虎丸城・挙山両城も差出した。そして寒川元隣は、昼寝城に退くことになる。
【写真左】祠
本丸の一角に祀られているもので、大分古いようだ。
ところが、川島城(徳島県吉野川市川島町川島)の稿でも述べたように、 この年(元亀3年)の三好氏の内訌となる川島合戦により、篠原長房は三好義賢の長子・長治との戦いで敗れ、安富氏も天正3年(1575)、阿波の海部城主・海部左近の攻撃で討死してしまった。
このころ経緯は分からないが、寒川元隣は、三好存保(十河城(香川県高松市十川東町) 参照)のもとにあり、天正10年、長曾我部軍(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町) 参照)との戦いとなる阿波中富川の戦いで参陣し、討死している。
【写真左】本丸
さすがに本丸跡の規模はそれまでの細長い尾根筋と違い、削平されたようで、7,8m四方の大きさがある。
また、これに先立つ、天正3年、昼寝城は元隣の弟・光永が守城していたが、上掲した阿波の海部氏に攻められ、難攻不落の城といわれた昼寝城もついにここに落城した。このため、兄・元隣を頼るも、天正10年に元隣が討死したため、出家したといわれる。
【写真左】本丸から振り返って見る。
登ってきたときは、この長い郭の左側途中の箇所(虎口)からだったので、本丸とは反対側の先端部の方に向かうことにする。
【写真左】土塁
本丸側には確認できなかったが、下手に当たるこの個所には土塁が築かれている。
【写真左】下手先端部
本丸からこの下手先端部まではおよそ100mほどあり、この先は切岸となっている。
【写真左】瀬戸内方面を見る。
木立の間から北の方向に瀬戸内の姿が確認できた。
現在はほどんど眺望は望めないが、戦国期当時は当城から寒川氏領内がほとんど見えたことだろう。
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