鷹の条山(たかのじょうやま)
●所在地 広島県広島市東区福田町 市森林公園
●高さ 438m
●備考 再現された山城
●登城日 2013年3月11日
◆解説
本ブログで取り上げている城砦は、歴史的にも実際に遺跡として残るものを取り上げてきているが、今稿では番外編として、戦国期築城された山城を再現したものを紹介したいと思う。
ところで、近世城郭などでは全国にも模擬天守で再現された城館などは多くあるが、鷹の条山(城)は、「山城」を再現した全国でも珍しいものである。
【写真左】鷹の条山遠望
右側に模擬櫓(展望台)が設置してある。
所在地は、広島市東区の福田というところで、広島市森林公園の一角にある。同公園には「昆虫の森」「ピクニックの森」「子供の森」などといった親子で楽しめる施設がまとまって設置され、そのうちの一つが「山城展望台」を中心として再現された鷹の条山である。
【写真左】ハイキングコース案内板
麓にはご覧の案内板が設置してある。
※この地図は左側方向が北を示す。
この付近は、呉娑々宇山(ごさそうざん)・高尾山といった地元登山者にかなり人気のある山があり、鷹の条山はそれらの山並みの北側に突出した山である。
なお、この地図には描かれていないが、鷹の条山の北麓には東西に走る山陽自動車道と、広島湾方面に向かう広島高速1号線が交わる広島東ICがある。
現地の説明板より
“毛利元就時代の山城を再現
(広島市森林公園山城展望台)
この山城展望台は、戦国時代の智将毛利元就が活躍していた頃の山城を時代考証し再現したものです。
【写真左】第一駐車場から遠望する。
ここまで専用の道路が設置され、車でたどり着けるが、この日は閉門直前だったこともあり、下のゲート脇にあった空き地に車を停め、30分程度かけてここまで登ってきた。
元就時代の中世の山城は、山の頂上付近を段々畑状に造成して築かれ、その一つずつの壇を曲輪といいます。山城は一般に数個の曲輪でできており、要所には掘立柱で建てた小屋や木の柵が配置されていたようです。
広島城のように平野に築かれた近世の城郭は、広い水堀・高い石垣・壮大な天守を構え、城内には城主が居城する御殿も設けられていましたが、元就の時代には石垣や天守はありませんでした。
【写真左】再現された絵図
少し暗い彩色のためわかりずらいが、雰囲気は出ている。
こうした山城は、平時は少人数の番兵を置くだけで、敵の大軍が来攻した有事の際にだけ城主以下多くの城兵が籠城したようです。
この山城展望台には、自然の地形を生かしながら、中世の山城の雰囲気が感じられるよう山頂部に甲丸(つめのまる)を、少し下がった場所に二の壇、三の壇、番小屋を設け、周囲を柵で囲い、出入口には、櫓門、冠木門(かぶきもん)を配置しています。
平成9年 広島市”
【写真左】番小屋
現地の説明板より
“番小屋
中世の城郭を発掘すると、掘立柱の小屋がいくつも出てきます。番兵の居所・武具や兵糧の収納などに使われ、屋根は薄い板を用いた柿葺(こけらぶき)、壁は土壁で、内部は竹製の低い簀子(すのこ)敷となっていたようです。
杮葺の屋根の上面に横桟を打つのは、元就の時代に広島県西部で使われた古い手法です。 平成9年 広島市”
中世山城を理解するには、これまで紹介してきたような、本当の山城を実際に登城・探訪することが一番いいかもしれない。しかし、鷹の条山のように、親子・家族で森林や昆虫なども含めた自然に接する施設の中に、こうした模擬的な歴史遺跡サンプルを併設していることは特異であり、面白い試みである。
そして、特に子供たちに近世城郭とは別に山城に興味を持ってもらう試みとして、さほど体力的にも負担をかけない比高でもあり、大人の初心者などにもいいサンプルになるのではないだろうか。
【写真左】甲丸(つめのまる)・その1
現地の説明板より
“甲丸
山頂にあり、山城の中心となる曲輪です。近世以降は本丸と呼ばれましたが、毛利家の外交を努めた安国寺恵瓊は、広島城本丸を「甲丸」と記しています。
当時は掘立柱の二階楼の建物で、階上には板の垣立(かきたつ)が巡らされていたようです。中世の絵巻物『秋夜長物語絵巻』には、そのような櫓が描かれています。
【写真左】甲丸(つめのまる)・その2
近世の城郭では、石垣上に建つ瓦葺の立派な櫓に発展しました。この公園では、中世の櫓の面影を持つ展望台として建てられています。 平成9年 広島市”
【写真左】甲丸から二ヶ城山を見る。
写真中央の山が二ヶ城山(483m)で、名前から察するに山城と思われるが、詳細は不明。
【写真左】広島東ICなどを見る。
手前の樹木で遮られているが、北麓を見たもの。
【写真左】麓の石碑
下山したとき、たまたま目に留まった石碑で、甲斐の武田信玄家老の末裔と刻銘されている。以下抄出しておく。
“武田信玄家老
一世和田氏次郎左衛門源之丞
右乃人ヨリ武田ヲ出当村小右山長円寺龍謄院ト申真言寺エ洛入其後福島氏乃代ニ百姓ニ相成明治五年姓を小川と改ム。以下略”
●所在地 広島県広島市東区福田町 市森林公園
●高さ 438m
●備考 再現された山城
●登城日 2013年3月11日
◆解説
本ブログで取り上げている城砦は、歴史的にも実際に遺跡として残るものを取り上げてきているが、今稿では番外編として、戦国期築城された山城を再現したものを紹介したいと思う。
ところで、近世城郭などでは全国にも模擬天守で再現された城館などは多くあるが、鷹の条山(城)は、「山城」を再現した全国でも珍しいものである。
【写真左】鷹の条山遠望
右側に模擬櫓(展望台)が設置してある。
所在地は、広島市東区の福田というところで、広島市森林公園の一角にある。同公園には「昆虫の森」「ピクニックの森」「子供の森」などといった親子で楽しめる施設がまとまって設置され、そのうちの一つが「山城展望台」を中心として再現された鷹の条山である。
【写真左】ハイキングコース案内板
麓にはご覧の案内板が設置してある。
※この地図は左側方向が北を示す。
この付近は、呉娑々宇山(ごさそうざん)・高尾山といった地元登山者にかなり人気のある山があり、鷹の条山はそれらの山並みの北側に突出した山である。
なお、この地図には描かれていないが、鷹の条山の北麓には東西に走る山陽自動車道と、広島湾方面に向かう広島高速1号線が交わる広島東ICがある。
現地の説明板より
“毛利元就時代の山城を再現
(広島市森林公園山城展望台)
この山城展望台は、戦国時代の智将毛利元就が活躍していた頃の山城を時代考証し再現したものです。
【写真左】第一駐車場から遠望する。
ここまで専用の道路が設置され、車でたどり着けるが、この日は閉門直前だったこともあり、下のゲート脇にあった空き地に車を停め、30分程度かけてここまで登ってきた。
元就時代の中世の山城は、山の頂上付近を段々畑状に造成して築かれ、その一つずつの壇を曲輪といいます。山城は一般に数個の曲輪でできており、要所には掘立柱で建てた小屋や木の柵が配置されていたようです。
広島城のように平野に築かれた近世の城郭は、広い水堀・高い石垣・壮大な天守を構え、城内には城主が居城する御殿も設けられていましたが、元就の時代には石垣や天守はありませんでした。
【写真左】再現された絵図
少し暗い彩色のためわかりずらいが、雰囲気は出ている。
こうした山城は、平時は少人数の番兵を置くだけで、敵の大軍が来攻した有事の際にだけ城主以下多くの城兵が籠城したようです。
この山城展望台には、自然の地形を生かしながら、中世の山城の雰囲気が感じられるよう山頂部に甲丸(つめのまる)を、少し下がった場所に二の壇、三の壇、番小屋を設け、周囲を柵で囲い、出入口には、櫓門、冠木門(かぶきもん)を配置しています。
平成9年 広島市”
【写真左】番小屋
現地の説明板より
“番小屋
中世の城郭を発掘すると、掘立柱の小屋がいくつも出てきます。番兵の居所・武具や兵糧の収納などに使われ、屋根は薄い板を用いた柿葺(こけらぶき)、壁は土壁で、内部は竹製の低い簀子(すのこ)敷となっていたようです。
杮葺の屋根の上面に横桟を打つのは、元就の時代に広島県西部で使われた古い手法です。 平成9年 広島市”
中世山城を理解するには、これまで紹介してきたような、本当の山城を実際に登城・探訪することが一番いいかもしれない。しかし、鷹の条山のように、親子・家族で森林や昆虫なども含めた自然に接する施設の中に、こうした模擬的な歴史遺跡サンプルを併設していることは特異であり、面白い試みである。
そして、特に子供たちに近世城郭とは別に山城に興味を持ってもらう試みとして、さほど体力的にも負担をかけない比高でもあり、大人の初心者などにもいいサンプルになるのではないだろうか。
【写真左】甲丸(つめのまる)・その1
現地の説明板より
“甲丸
山頂にあり、山城の中心となる曲輪です。近世以降は本丸と呼ばれましたが、毛利家の外交を努めた安国寺恵瓊は、広島城本丸を「甲丸」と記しています。
当時は掘立柱の二階楼の建物で、階上には板の垣立(かきたつ)が巡らされていたようです。中世の絵巻物『秋夜長物語絵巻』には、そのような櫓が描かれています。
【写真左】甲丸(つめのまる)・その2
近世の城郭では、石垣上に建つ瓦葺の立派な櫓に発展しました。この公園では、中世の櫓の面影を持つ展望台として建てられています。 平成9年 広島市”
【写真左】甲丸から二ヶ城山を見る。
写真中央の山が二ヶ城山(483m)で、名前から察するに山城と思われるが、詳細は不明。
【写真左】広島東ICなどを見る。
手前の樹木で遮られているが、北麓を見たもの。
【写真左】麓の石碑
下山したとき、たまたま目に留まった石碑で、甲斐の武田信玄家老の末裔と刻銘されている。以下抄出しておく。
“武田信玄家老
一世和田氏次郎左衛門源之丞
右乃人ヨリ武田ヲ出当村小右山長円寺龍謄院ト申真言寺エ洛入其後福島氏乃代ニ百姓ニ相成明治五年姓を小川と改ム。以下略”
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