杉山城(すぎやまじょう)
●所在地 岡山県浅口市鴨方町大字小坂東
●別名 要害山城
●築城期 建武年間
●築城者 小坂越中守
●城主 細川道董・河田紀伊守睦長、小坂宗右衛門経通
●高さ 226m(比高150m)
●遺構 本丸・出丸、馬場など
●備考 軍神社
●登城日 2013年5月11日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『「備前物語・宇喜多秀家」津本陽著、サイト『城郭放浪記』等等)
杉山城は前稿経山城(岡山県総社市黒尾)でも紹介したように、元亀2年2月、宇喜多直家が尼子再興軍とともに攻め入った城砦である。
【写真左】杉山城遠望
南方からみたもので、頂部はご覧の通り二つの峰を持ち、おそらく左側が出丸で、右(実際には奥になるが)に本丸跡があったものと思われる。
所在地は、鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)から直線距離で約2キロ北方にある小坂東という地区で、今回登城始点とした南麓部には宇月原地区という集落がある。
ときの城主は、鴨山城の稿でも紹介したように、細川道董(みちただ)である。道董は、鴨山城を本城とし、周囲に支城を配置している。このうち、北東には西知山城、北西にこの杉山城を築城した。
【写真左】南側中腹部
写真にみえる宇月原の集落は狭い道が多く、駐車できるスペースは殆どない。このため、県道脇の空き地を探し、そこに停めてから集落内の路地を進んだ。
写真中央部には下段で紹介する「軍神社」が祀られている。
失敗した尼子式部による降伏の誘い
このころ、備中の主だった国人領主は毛利氏の命によって、九州の大友宗麟との合戦に駆り出されていたため、この隙をついて美作側から尼子再興軍が、そして備前から宇喜多勢が侵攻してきた。
前稿「経山城」と同じく、尼子式部は戦う前に道董に降伏を勧めている。当城に籠る細川氏らの軍勢もまた、九州への参陣のため、当然ながら手薄であった。このため、尼子式部は杉山城がすぐに陥落することを予期し、戦う前に降伏を勧めたわけである。
【写真左】軍神社・その1
杉山城の築城期は建武年間、すなわち南北朝期といわれている。
このころ、当社の位置はこの場所ではなく、主郭付近に祀られていたという。
軍神社(ぐんじんじゃ)といういかにも武者の時代を彷彿とさせる名称だが、おそらく当城周辺も北朝方と南朝方による激しい戦いがあったものだろう。
尼子・宇喜多勢の攻囲
しかし、道董は、降伏を勧めに来た尼子の使者を切り捨て、150余騎と雑兵2,000余をもって抗戦することを決断した。これに対し、尼子式部らは、当然ながら怒り、宇喜多勢と併せ7,000余騎を従え、杉山城を包囲した。細川勢は劣勢ながら果敢な反撃を繰り返し、津々加賀守・福井孫左衛門らを討取ったが、力尽き、幸山城へ奔った。
【写真左】軍神社・その2
階段わきには「武運長久」と刻銘された石碑や、「征露紀念」という文字の入った石柱並びに、愛宕神社・毘沙門天・龍王神社などの小祠が境内に合祀されている。
毛利方備中勢、幸山城へ奔る
この後、尼子勢は同国の国人衆らを幕下に従え、酒津城(倉敷市酒津)をも襲い、城番だった高橋玄蕃の弟・右馬充、庄九郎らも幸山城へ奔った。
毛利氏に属し備中国で留守を預かっていた国人衆は、こうして殆どが幸山城へ逃げ込んだ。この結果、宇喜多・尼子再興軍は、幸山城に逃げ込んだ毛利方国衆との戦いを繰り広げることになる。
【写真左】崩落個所
登城前、地元の宇月原集落の初老の方に登城道を尋ねたところ、以前はあったが現在はまったく整備されていないので、頂部(本丸)までは無理だろう、と教えていただいた。
しかし、せっかくここまで来たこともあり、軍神社の東側に古い道らしきものがあったので、この道を進んでみた。
幸山城の戦いについては、以前幸山城・その2(岡山県総社市清音三因)でも述べたように、当城の城主であった石川左衛門尉(久式)も九州へ出陣していたため、留守を預かっていた城代・禰屋(ねや)七郎兵衛が懸命の防戦を行った。
ちなみに、幸山城での緒戦は、浅原峠で行われ、三日の間に7度戦い、遂に禰屋七郎は尼子方へ降伏した。
話が前後するが、前稿経山城(岡山県総社市黒尾)での戦いは、この杉山城の戦いが終わった2か月後のことである。
【写真左】採石跡・その1
途中まで簡易舗装された古い道が続いていたので、これを頼りに向かったところ、ご覧の作業小屋風の建物があった。
どうやら大分前までこの付近は採石場だったようだ。
【写真左】採石場跡・その2
南東側の斜面に当たる個所だが、道はここで途切れた。
本丸はこの写真の右の頂部付近と思われるが、ここで断念。
帰宅してから、もう一度地図を見たところ、この箇所より北側の位置にも谷沿いに道らしきものが表示されているが、頂部の半分程度が採石されたように記されている。
冬期だったらこの別の道を辿れば行けるかもしれない。
●所在地 岡山県浅口市鴨方町大字小坂東
●別名 要害山城
●築城期 建武年間
●築城者 小坂越中守
●城主 細川道董・河田紀伊守睦長、小坂宗右衛門経通
●高さ 226m(比高150m)
●遺構 本丸・出丸、馬場など
●備考 軍神社
●登城日 2013年5月11日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『「備前物語・宇喜多秀家」津本陽著、サイト『城郭放浪記』等等)
杉山城は前稿経山城(岡山県総社市黒尾)でも紹介したように、元亀2年2月、宇喜多直家が尼子再興軍とともに攻め入った城砦である。
【写真左】杉山城遠望
南方からみたもので、頂部はご覧の通り二つの峰を持ち、おそらく左側が出丸で、右(実際には奥になるが)に本丸跡があったものと思われる。
所在地は、鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)から直線距離で約2キロ北方にある小坂東という地区で、今回登城始点とした南麓部には宇月原地区という集落がある。
ときの城主は、鴨山城の稿でも紹介したように、細川道董(みちただ)である。道董は、鴨山城を本城とし、周囲に支城を配置している。このうち、北東には西知山城、北西にこの杉山城を築城した。
【写真左】南側中腹部
写真にみえる宇月原の集落は狭い道が多く、駐車できるスペースは殆どない。このため、県道脇の空き地を探し、そこに停めてから集落内の路地を進んだ。
写真中央部には下段で紹介する「軍神社」が祀られている。
失敗した尼子式部による降伏の誘い
このころ、備中の主だった国人領主は毛利氏の命によって、九州の大友宗麟との合戦に駆り出されていたため、この隙をついて美作側から尼子再興軍が、そして備前から宇喜多勢が侵攻してきた。
前稿「経山城」と同じく、尼子式部は戦う前に道董に降伏を勧めている。当城に籠る細川氏らの軍勢もまた、九州への参陣のため、当然ながら手薄であった。このため、尼子式部は杉山城がすぐに陥落することを予期し、戦う前に降伏を勧めたわけである。
【写真左】軍神社・その1
杉山城の築城期は建武年間、すなわち南北朝期といわれている。
このころ、当社の位置はこの場所ではなく、主郭付近に祀られていたという。
軍神社(ぐんじんじゃ)といういかにも武者の時代を彷彿とさせる名称だが、おそらく当城周辺も北朝方と南朝方による激しい戦いがあったものだろう。
尼子・宇喜多勢の攻囲
しかし、道董は、降伏を勧めに来た尼子の使者を切り捨て、150余騎と雑兵2,000余をもって抗戦することを決断した。これに対し、尼子式部らは、当然ながら怒り、宇喜多勢と併せ7,000余騎を従え、杉山城を包囲した。細川勢は劣勢ながら果敢な反撃を繰り返し、津々加賀守・福井孫左衛門らを討取ったが、力尽き、幸山城へ奔った。
【写真左】軍神社・その2
階段わきには「武運長久」と刻銘された石碑や、「征露紀念」という文字の入った石柱並びに、愛宕神社・毘沙門天・龍王神社などの小祠が境内に合祀されている。
毛利方備中勢、幸山城へ奔る
この後、尼子勢は同国の国人衆らを幕下に従え、酒津城(倉敷市酒津)をも襲い、城番だった高橋玄蕃の弟・右馬充、庄九郎らも幸山城へ奔った。
毛利氏に属し備中国で留守を預かっていた国人衆は、こうして殆どが幸山城へ逃げ込んだ。この結果、宇喜多・尼子再興軍は、幸山城に逃げ込んだ毛利方国衆との戦いを繰り広げることになる。
【写真左】崩落個所
登城前、地元の宇月原集落の初老の方に登城道を尋ねたところ、以前はあったが現在はまったく整備されていないので、頂部(本丸)までは無理だろう、と教えていただいた。
しかし、せっかくここまで来たこともあり、軍神社の東側に古い道らしきものがあったので、この道を進んでみた。
幸山城の戦いについては、以前幸山城・その2(岡山県総社市清音三因)でも述べたように、当城の城主であった石川左衛門尉(久式)も九州へ出陣していたため、留守を預かっていた城代・禰屋(ねや)七郎兵衛が懸命の防戦を行った。
ちなみに、幸山城での緒戦は、浅原峠で行われ、三日の間に7度戦い、遂に禰屋七郎は尼子方へ降伏した。
話が前後するが、前稿経山城(岡山県総社市黒尾)での戦いは、この杉山城の戦いが終わった2か月後のことである。
【写真左】採石跡・その1
途中まで簡易舗装された古い道が続いていたので、これを頼りに向かったところ、ご覧の作業小屋風の建物があった。
どうやら大分前までこの付近は採石場だったようだ。
【写真左】採石場跡・その2
南東側の斜面に当たる個所だが、道はここで途切れた。
本丸はこの写真の右の頂部付近と思われるが、ここで断念。
帰宅してから、もう一度地図を見たところ、この箇所より北側の位置にも谷沿いに道らしきものが表示されているが、頂部の半分程度が採石されたように記されている。
冬期だったらこの別の道を辿れば行けるかもしれない。
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