淡相城(あわいじょう)
●所在地 岡山県美作市粟井中馬形
●指定 美作市指定史跡
●別名 粟井中村城
●築城期 長和3年(1013)2月、又は応仁年間(1467~68)
●築城者 淡相佐盛・菅原景盛
●城主 淡相氏
●高さ 202m(比高 45m)
●遺構 郭・堀・土塁等
●備考 春日神社
●登城日 2016年9月11日、2019年5月23日
◆解説
淡相城は岡山県の旧吉野郡粟井中に所在する丘城で、城域には春日神社が祀られている。旧国名でいえば美作国の北東部に当たり、さらに北東に進めば、因幡と播磨を繋ぐ大原宿へ繋がる。現在の429号線は当時の街道をほぼトレースしているルートのようだ。
【写真左】淡相城遠望
北側を走る国道429号線から見たもの。
当城北麓には「粟井春日座」という農村歌舞伎専用の小屋が建っている。
現地の説明板より
‟春日神社由緒沿革
当神社が初めて吉野郡淡相(よしのごおりあわい)の郷(美作市粟井中)に建立されたのは、67代三条天皇の御世、長和2年(1013)3月で平安時代である。備前・美作の国造(くにのみやつこ)(地方官で祭事を行った)和気清麻呂(わけのきよまろ)公5世の孫・相法公(しょうほうこう)によって大和国官幣大社春日大社の御分霊を奉斎した由緒ある古社である。
【写真左】淡相城及び春日神社入口
国道429号線沿いに「春日神社・春日座」という看板が立っており、その脇の道を進んでいくと、御覧の看板が設置された駐車スペースがある。
ここに車を停めて、右側の坂を登って行くと春日神社境内に繋がる。
奥には春日座の建物が見える。
当時の日本は藤原氏の全盛時代であり、その氏神である春日大神がこの地に勧請された政治的な意味は大きかったと思われる。
「枕草子」「源氏物語」が書かれたのもこの頃である。この粟井の郷は京の都から播磨国を通って西国へ行く街道筋であり、中央政府から近国の重要地点としての扱いを受けていたものと思われる。
万葉集(巻11 柿本人麻呂歌集 2424)に小野の双子山が、
さて、上記の説明板では、後醍醐天皇はこの春日神社に参詣したと記されている。後醍醐天皇が隠岐に配流されたときの経路は、六波羅の南方館を始点とし、摂津、播磨、美作を通り、中国山地を超えて伯耆に入り、出雲の美保関から船で隠岐に向かったとされている。
この経路で考えると、播磨と美作の国境に当たる杉坂峠を越えたあと、しばらく西進し、江見で吉野川に出て、そこから北へ遡り粟井へ向かったことになる。
帝の配流警護に当たっては、佐々木導誉(勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)参照) をはじめ、千葉介貞胤らがその任を努めた。導誉が帝の配流警護を担った経緯ははっきりしないが、『増鏡』で帝が京都南郊の淀の渡りで、むかし橋渡しを勤めた導誉の姿を見て懐旧の念を禁じえなかったと記していることから、導誉の奏上にも応じ、粟井の春日神社参詣に赴いたのだろう。
【写真左】粟井・安東の姓名が入った玉垣
春日神社境内に後醍醐天皇所縁の腰掛岩があったことにも驚いたが、玉垣に筆耕された「安東」姓のものにはさらに驚かされた。
この安東氏は、藤原道長六男長家から出た備前国安東氏を出自とし、以後美作英田郡山口城主となり、その後織田信長の小姓となったものの、信長が本能寺で横死したため、帰郷し作東町国貞に住み国貞を名乗ったが、のちに同族の安東家の娘婿となっている。おそらく玉垣にある安東氏らはその末孫だろう。
「旧社格」 郷社(粟井郷の総社)
(小宮)荒神社 稲荷神社 国司(くにし)神社
時代により10月17日から10月10日となり、現在は体育の日の前日の土・日曜となった。伝統の春日神楽奉納 御神幸祭 保存会による春日歌舞伎など。
●所在地 岡山県美作市粟井中馬形
●指定 美作市指定史跡
●別名 粟井中村城
●築城期 長和3年(1013)2月、又は応仁年間(1467~68)
●築城者 淡相佐盛・菅原景盛
●城主 淡相氏
●高さ 202m(比高 45m)
●遺構 郭・堀・土塁等
●備考 春日神社
●登城日 2016年9月11日、2019年5月23日
◆解説
淡相城は岡山県の旧吉野郡粟井中に所在する丘城で、城域には春日神社が祀られている。旧国名でいえば美作国の北東部に当たり、さらに北東に進めば、因幡と播磨を繋ぐ大原宿へ繋がる。現在の429号線は当時の街道をほぼトレースしているルートのようだ。
【写真左】淡相城遠望
北側を走る国道429号線から見たもの。
当城北麓には「粟井春日座」という農村歌舞伎専用の小屋が建っている。
現地の説明板より
‟春日神社由緒沿革
当神社が初めて吉野郡淡相(よしのごおりあわい)の郷(美作市粟井中)に建立されたのは、67代三条天皇の御世、長和2年(1013)3月で平安時代である。備前・美作の国造(くにのみやつこ)(地方官で祭事を行った)和気清麻呂(わけのきよまろ)公5世の孫・相法公(しょうほうこう)によって大和国官幣大社春日大社の御分霊を奉斎した由緒ある古社である。
【写真左】淡相城及び春日神社入口
国道429号線沿いに「春日神社・春日座」という看板が立っており、その脇の道を進んでいくと、御覧の看板が設置された駐車スペースがある。
ここに車を停めて、右側の坂を登って行くと春日神社境内に繋がる。
奥には春日座の建物が見える。
当時の日本は藤原氏の全盛時代であり、その氏神である春日大神がこの地に勧請された政治的な意味は大きかったと思われる。
「枕草子」「源氏物語」が書かれたのもこの頃である。この粟井の郷は京の都から播磨国を通って西国へ行く街道筋であり、中央政府から近国の重要地点としての扱いを受けていたものと思われる。
万葉集(巻11 柿本人麻呂歌集 2424)に小野の双子山が、
紐鏡能登香の山も誰がゆゑか 君来ませるに 紐開(解)かず寝む(能登香山=双子山)
「後醍醐天皇の行幸」元弘2年(1332)隠岐へ配流の途上の3月16日、警護役の近江守護佐々木導誉から『美作国粟井郷に春日大明神と申す古社があり、昔皇位の危機を救った和気清麻呂の子孫が勧請したので行幸なされては』との奏上により参詣された史実がある。
【写真左】後醍醐天皇御腰掛石
神門を潜ると左側には後醍醐天皇が腰かけたといわれる石が祀られている。
現地の説明板より
‟元弘2年(1332)3月16日、隠岐の島配流の途上春日大明神に行幸になり、この石に腰をおろされ扈従(身分の高い人のお供)の千草忠顕の出す湯茶を召し上がられた。”
【写真左】後醍醐天皇御腰掛石
神門を潜ると左側には後醍醐天皇が腰かけたといわれる石が祀られている。
現地の説明板より
‟元弘2年(1332)3月16日、隠岐の島配流の途上春日大明神に行幸になり、この石に腰をおろされ扈従(身分の高い人のお供)の千草忠顕の出す湯茶を召し上がられた。”
後醍醐天皇隠岐配流・春日神社参詣
さて、上記の説明板では、後醍醐天皇はこの春日神社に参詣したと記されている。後醍醐天皇が隠岐に配流されたときの経路は、六波羅の南方館を始点とし、摂津、播磨、美作を通り、中国山地を超えて伯耆に入り、出雲の美保関から船で隠岐に向かったとされている。
この経路で考えると、播磨と美作の国境に当たる杉坂峠を越えたあと、しばらく西進し、江見で吉野川に出て、そこから北へ遡り粟井へ向かったことになる。
帝の配流警護に当たっては、佐々木導誉(勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)参照) をはじめ、千葉介貞胤らがその任を努めた。導誉が帝の配流警護を担った経緯ははっきりしないが、『増鏡』で帝が京都南郊の淀の渡りで、むかし橋渡しを勤めた導誉の姿を見て懐旧の念を禁じえなかったと記していることから、導誉の奏上にも応じ、粟井の春日神社参詣に赴いたのだろう。
【写真左】粟井・安東の姓名が入った玉垣
春日神社境内に後醍醐天皇所縁の腰掛岩があったことにも驚いたが、玉垣に筆耕された「安東」姓のものにはさらに驚かされた。
この安東氏は、藤原道長六男長家から出た備前国安東氏を出自とし、以後美作英田郡山口城主となり、その後織田信長の小姓となったものの、信長が本能寺で横死したため、帰郷し作東町国貞に住み国貞を名乗ったが、のちに同族の安東家の娘婿となっている。おそらく玉垣にある安東氏らはその末孫だろう。
再建
神社裏山には粟井中村城または、淡相城と呼ばれる城址があり、築城完成は長和3年2月である。
本丸、東の丸などの跡地が現存している。当時の御社は現在地よりも裏山の少し高いところにあった。室町時代の乱世により、春日神社も淡相城と共に戦火にまみれ焼失した。その後103代後土御門天皇の御世文明18年(1486)丙午の歳、旧9月17日、将軍足利義尚の臣・英田郡司粟井近江守菅原景盛公(淡相城主)により、現在地に再建された。
北福鉱山(大字粟井中)、瀬戸・大弘(たいこう)鉱山(大字瀬戸)など生野代官支配の銀山の採掘が盛んで、城下町として市が立ち、出雲・津山街道の宿場町として大いに栄えていた。
「鎮座地」 岡山県美作市粟井中273番地外 境内地 2,487㎡「旧社格」 郷社(粟井郷の総社)
「主祭神」 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
武甕槌命(たけみかつちのみこと)
経津主命(ふつぬしみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
天鈿女神(あめのうずめのかみ)
大国主神 菅原道真命 外十三柱の神
「摂社」 (小宮)荒神社 稲荷神社 国司(くにし)神社
水若酢(みずわかす)神社 随身門社
「例祭日」 時代により10月17日から10月10日となり、現在は体育の日の前日の土・日曜となった。伝統の春日神楽奉納 御神幸祭 保存会による春日歌舞伎など。
「氏子」
粟井中・鷺巣(さぎす)・梶原・小房・小野・馬形・長谷内・宗掛の八か大字の区域。
境内地は荘厳にして、御社殿の建築、殊に彫刻に至っては、社寺建築の研究家から「近郷に類い稀なる一級品である」と絶賛されたものである。
【写真左】春日神社・本殿
拝殿の奥には本殿が祀られ、その手前の西側には説明板にもあるように、摂社の国司神社・水若酢神社などが建立されている。
築城期
淡相城の築城期については、説明板では長和3年(1013)2月、と記されているのでだいぶ古い城郭といえる。その後、室町時代に戦火にまみれ、社は一旦焼失したものの、文明18年(1486)に再興されている。
時の城主は足利義尚(美作・高田城(岡山県真庭市勝山)参照) の臣で、英田郡司粟井近江守菅原景盛、即ち粟井景盛という武将である。
【写真左】登城開始
登城口を示す標識などはないが、境内東側に登城道が見えたので、ここから向かう。
足利義尚が室町幕府9代将軍になったのは文明5年(1473)で、9歳という幼少の時である。
父・義政と母・富子の間にはしばらく実子がなく、義政の実弟・義視を養子とし、次期将軍と考えていた。しかし、その後実子義尚が生まれたため、突如として将軍の後継者問題が発生した。これを起点として将軍をとりまく実力者などが対立、ついに応仁・文明の乱が勃発することになる。
【写真左】二の丸
淡相城はさほど大きな城郭ではないため、登城口から少し登るとすぐに遺構が現れる。
写真は西側に伸びる郭で、二の丸と表示されている。幅10m×奥行20m前後のもの。
この位置から右に向かうと、「池堀」がある。
さて、淡相城の築城者である粟井景盛は、足利義尚の臣であるとされているが、その経緯は分からない。ただ、当城及び春日社が再興された文明18年は、それまで形ばかりの将軍であった義尚が初めて、父義政から公式に政務を引き継ぐ年でもあったことから、おそらくこの交代期に臣となった可能性が高い。
【写真左】空堀と池
二の丸を横に見た後、奥に進むと手前に池があり、その奥には空堀が見え始める。
【写真左】二の丸側の堀切
空堀を少し進むと、左手に二の丸側から伸びてきた堀切が顔を出している。
【写真左】空堀・その1
淡相城の見どころの一つである空堀は、規模は大きなものでないが、その精緻さは特筆される。
この日登城したとき、この箇所だけはきれいに整備されていた。
【写真左】空堀・その2
空堀の底部に降り、そのまま進んでいくと次第に屈曲した形になり、奥に行くに従って浅くなる。
最深部にたどり着いた瞬間、見事なツノをつけた大きな一匹の鹿と遭遇した。2秒間ぐらい立ち止まっていたが、すぐに藪の中へ音もなく飛び立つように消えていった。
山城登城をしていると、往々にして野生の動物に遭遇することはあるが、淡相城で見た鹿は、まるで当城の主のような気品と優美さを兼ね備えていた姿に見えた。この後本丸に向かう。
【写真左】本丸遠望
左側に土塁があり、中央部が空堀、そして右側が本丸に当たる。
【写真左】本丸と土塁
本丸の外周部には土塁が囲繞している。
このあと、さらに奥に進む。
【写真左】本丸の奥
手前の方は整備されていたが、奥の方は雑草が繁茂していて遺構の状態は分かりにくいが、ほぼ削平されている感じだ。
【写真左】本丸下の郭
登城したこの日、部分的に草刈りなどの整備がされた箇所があるものの、全体に雑草が多く、良好な写真は撮れなかった。
このあと、歩行が可能な箇所をたどりながら下城する。
【写真左】空堀と池
最初に登ってきた箇所だが、上から見ると空堀の高さが相当確保されていることが分かる。
現在の御社殿
再建から241年経過した享保12年(1727)6月29日朝、不測の火災により焼失したため、大小氏子を以て享保21年(1736)正月に再建立された。拝殿の龍の彫刻はその時の作である。
それから268年を経過し、御社殿の老朽が激しいことから、平成25年に御鎮座一千年を迎えるに当たり、再改築に向けて奉賛会を立ち上げて以来、10年の歳月をかけて竣工したものである。彫刻類は重要文化財同様に慎重に木組みを外し「洗い・繕い」を施した後に組み込んだもので、歴史の継承が図られている。
【写真左】春日神社の神スギ
美作市指定天然記念物
名称 春日神社の神スギ
推定樹齢 1000年(平安時代中期)
樹高 37m
目通周囲 5.8m
境内の大杉・檜等の御神木は、皆それぞれ一千年を経過した古木で、ご参拝の方に不思議な生気を授けてくれます。健康な方は気づきにくいですが、精神力の弱まった方などは元気が漲るといわれております。
平成25年(2013)癸巳10月吉祥日”
境内地は荘厳にして、御社殿の建築、殊に彫刻に至っては、社寺建築の研究家から「近郷に類い稀なる一級品である」と絶賛されたものである。
【写真左】春日神社・本殿
拝殿の奥には本殿が祀られ、その手前の西側には説明板にもあるように、摂社の国司神社・水若酢神社などが建立されている。
築城期
淡相城の築城期については、説明板では長和3年(1013)2月、と記されているのでだいぶ古い城郭といえる。その後、室町時代に戦火にまみれ、社は一旦焼失したものの、文明18年(1486)に再興されている。
時の城主は足利義尚(美作・高田城(岡山県真庭市勝山)参照) の臣で、英田郡司粟井近江守菅原景盛、即ち粟井景盛という武将である。
【写真左】登城開始
登城口を示す標識などはないが、境内東側に登城道が見えたので、ここから向かう。
足利義尚が室町幕府9代将軍になったのは文明5年(1473)で、9歳という幼少の時である。
父・義政と母・富子の間にはしばらく実子がなく、義政の実弟・義視を養子とし、次期将軍と考えていた。しかし、その後実子義尚が生まれたため、突如として将軍の後継者問題が発生した。これを起点として将軍をとりまく実力者などが対立、ついに応仁・文明の乱が勃発することになる。
【写真左】二の丸
淡相城はさほど大きな城郭ではないため、登城口から少し登るとすぐに遺構が現れる。
写真は西側に伸びる郭で、二の丸と表示されている。幅10m×奥行20m前後のもの。
この位置から右に向かうと、「池堀」がある。
さて、淡相城の築城者である粟井景盛は、足利義尚の臣であるとされているが、その経緯は分からない。ただ、当城及び春日社が再興された文明18年は、それまで形ばかりの将軍であった義尚が初めて、父義政から公式に政務を引き継ぐ年でもあったことから、おそらくこの交代期に臣となった可能性が高い。
【写真左】空堀と池
二の丸を横に見た後、奥に進むと手前に池があり、その奥には空堀が見え始める。
【写真左】二の丸側の堀切
空堀を少し進むと、左手に二の丸側から伸びてきた堀切が顔を出している。
【写真左】空堀・その1
淡相城の見どころの一つである空堀は、規模は大きなものでないが、その精緻さは特筆される。
この日登城したとき、この箇所だけはきれいに整備されていた。
【写真左】空堀・その2
空堀の底部に降り、そのまま進んでいくと次第に屈曲した形になり、奥に行くに従って浅くなる。
最深部にたどり着いた瞬間、見事なツノをつけた大きな一匹の鹿と遭遇した。2秒間ぐらい立ち止まっていたが、すぐに藪の中へ音もなく飛び立つように消えていった。
山城登城をしていると、往々にして野生の動物に遭遇することはあるが、淡相城で見た鹿は、まるで当城の主のような気品と優美さを兼ね備えていた姿に見えた。この後本丸に向かう。
【写真左】本丸遠望
左側に土塁があり、中央部が空堀、そして右側が本丸に当たる。
【写真左】本丸と土塁
本丸の外周部には土塁が囲繞している。
このあと、さらに奥に進む。
【写真左】本丸の奥
手前の方は整備されていたが、奥の方は雑草が繁茂していて遺構の状態は分かりにくいが、ほぼ削平されている感じだ。
【写真左】本丸下の郭
登城したこの日、部分的に草刈りなどの整備がされた箇所があるものの、全体に雑草が多く、良好な写真は撮れなかった。
このあと、歩行が可能な箇所をたどりながら下城する。
【写真左】空堀と池
最初に登ってきた箇所だが、上から見ると空堀の高さが相当確保されていることが分かる。
現在の御社殿
再建から241年経過した享保12年(1727)6月29日朝、不測の火災により焼失したため、大小氏子を以て享保21年(1736)正月に再建立された。拝殿の龍の彫刻はその時の作である。
それから268年を経過し、御社殿の老朽が激しいことから、平成25年に御鎮座一千年を迎えるに当たり、再改築に向けて奉賛会を立ち上げて以来、10年の歳月をかけて竣工したものである。彫刻類は重要文化財同様に慎重に木組みを外し「洗い・繕い」を施した後に組み込んだもので、歴史の継承が図られている。
【写真左】春日神社の神スギ
美作市指定天然記念物
名称 春日神社の神スギ
推定樹齢 1000年(平安時代中期)
樹高 37m
目通周囲 5.8m
境内の大杉・檜等の御神木は、皆それぞれ一千年を経過した古木で、ご参拝の方に不思議な生気を授けてくれます。健康な方は気づきにくいですが、精神力の弱まった方などは元気が漲るといわれております。
平成25年(2013)癸巳10月吉祥日”
徳大寺大納言の墓
ところで、淡相城の北麓には徳大寺大納言の墓が祀られている。場所は国道429号線から北へおよそ50mほど入った畑の中にあるが、近くには案内標識などがないため分かりにくい。
【写真左】徳大寺大納言の墓・その1
墓の周りは畑となっているが、西側から赤道(あかみち)を通って向かうことができる。
現地の説明板より
❝作東町指定文化財
徳大寺大納言の墓
指定 昭和55年10月20日
粟井中村の古記に
「当村之内正明寺と申す所石塔あり、高さ八尺斗、此石塔は徳大寺前関白公と申伝候、此太閤当地に左遷有其処を御所垣内と云、碑銘に実名等見不申候。
年号貞和二年と有慶長之初頃迄は下馬式たり有之由申伝候云々」と。
正明寺殿耀山清光大居士と諡(おくりな)し、56才であった。基礎から150㎝の立派な五輪塔がある。御所垣内と墓を結ぶ線と旧街道との交わるところを、古来下馬オドシと云い、17世紀の初めまで国司の定めた下馬のしきたりがあったという。
ちなみに徳大寺公は、高円の有元祐高の娘を娶り、一子徳千代丸をもうけた。
後の新免七条少将則重で、新免家の祖である。
作東町教育委員会“
【写真左】徳大寺大納言の墓・その2
五輪塔形式のもので、脇には小さな墓も並んでいる。
なお、この付近は「土居」という地区名であることから、この付近一帯が徳大寺氏の居館があった場所と思われる。
徳大寺家は、藤原氏北家閑院流の公卿で、家祖は徳大寺実能とされる。上掲した説明板では、徳大寺大納言とは、徳大寺実孝すなわち、同家7代当主である。母は、二条良実の娘で、妻は西園寺公相の娘を娶った。
ところで、淡相城の北麓には徳大寺大納言の墓が祀られている。場所は国道429号線から北へおよそ50mほど入った畑の中にあるが、近くには案内標識などがないため分かりにくい。
【写真左】徳大寺大納言の墓・その1
墓の周りは畑となっているが、西側から赤道(あかみち)を通って向かうことができる。
現地の説明板より
❝作東町指定文化財
徳大寺大納言の墓
指定 昭和55年10月20日
粟井中村の古記に
「当村之内正明寺と申す所石塔あり、高さ八尺斗、此石塔は徳大寺前関白公と申伝候、此太閤当地に左遷有其処を御所垣内と云、碑銘に実名等見不申候。
年号貞和二年と有慶長之初頃迄は下馬式たり有之由申伝候云々」と。
これは建武の政変の後、後醍醐帝の勅勘を蒙り徳大寺実孝卿は、粟井の庄に流され、垣内御所に蟄居させられ、貞和3年3月8日薨去(こうきょ)、字正明寺に葬る。
【写真左】徳大寺大納言の墓を遠望する。
畑の北側から見たもので、後背の山が淡相城の尾根つづきになるが、その手前を国道429号線が走っている。
正明寺殿耀山清光大居士と諡(おくりな)し、56才であった。基礎から150㎝の立派な五輪塔がある。御所垣内と墓を結ぶ線と旧街道との交わるところを、古来下馬オドシと云い、17世紀の初めまで国司の定めた下馬のしきたりがあったという。
ちなみに徳大寺公は、高円の有元祐高の娘を娶り、一子徳千代丸をもうけた。
後の新免七条少将則重で、新免家の祖である。
作東町教育委員会“
【写真左】徳大寺大納言の墓・その2
五輪塔形式のもので、脇には小さな墓も並んでいる。
なお、この付近は「土居」という地区名であることから、この付近一帯が徳大寺氏の居館があった場所と思われる。
徳大寺家は、藤原氏北家閑院流の公卿で、家祖は徳大寺実能とされる。上掲した説明板では、徳大寺大納言とは、徳大寺実孝すなわち、同家7代当主である。母は、二条良実の娘で、妻は西園寺公相の娘を娶った。
現地の説明板では、当地(粟井)で亡くなったとされているが、実孝は既に元亨2年(1322)に亡くなっており、建武の政変後の貞和3年(1347)この地に蟄居をされた人物を実孝としている点にはいささか疑義が生じる。
しいて言えば、実孝の嫡男・公清(きんきよ)が考えられるが、彼は正平15年(1360)に亡くなっているので、これも整合しない。
このことから、この墓の主は徳大寺氏嫡流でなく、同氏庶流の人物ではないかと思われる。
【写真左】国道429号線
徳大寺氏の墓と淡相城の間を走る国道429号線で、写真左に行けば徳大寺氏の墓、右に行けば淡相城に繋がる。
因みに、徳大寺氏と淡相城を直接結び付ける記録は不明だが、徳大寺氏が没し当地を離れたあと、同氏居館跡に淡相氏(粟井氏)が入ったのではないかと想像される。
徳大寺氏の墓と淡相城の間を走る国道429号線で、写真左に行けば徳大寺氏の墓、右に行けば淡相城に繋がる。
因みに、徳大寺氏と淡相城を直接結び付ける記録は不明だが、徳大寺氏が没し当地を離れたあと、同氏居館跡に淡相氏(粟井氏)が入ったのではないかと想像される。
新免氏については、淡相城から北東へおよそ15キロほど向かった竹山城(岡山県美作市下町) の城主である。新免氏祖といわれている則重は当時赤松氏の被官として活躍し、その後山名氏などともかかわりながら当地を支配していった。
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