2020年1月13日月曜日

芝山城(香川県高松市香西北町芝山)

芝山城(しばやまじょう)

●所在地 香川県高松市香西北町芝山
●形態 海城
●高さ H:44m(比高40m)
●築城期 戦国期
●築城者 香西佳清
●城主 渡辺市之亟・三之亟兄弟
●遺構 土塀・郭
●備考 芝山神社
●登城日 2016年11月12日、及び2020年1月9日

◆解説
 芝山城は、前稿藤尾城(香川県高松市香西本町465 宇佐神社) で紹介したように、香西氏18代佳清のとき、長宗我部元親の讃岐侵攻に備えて築いた北の海の砦として築かれた海城である。
【写真左】芝山城遠望
 芝山城の南麓を東西に横断するさぬき浜街道(国道16号線)に架かる橋の途中から西方に見たもので、右側にある宅地は当時は陸はなく、芝山城の麓までが瀬戸内の海だった。


現地の説明板・その1

”芝山城跡

 勝賀城主香西氏の出城の一つで、芝山の頂上にありました。
  本丸   四間に六間(7.3m、11m)
  北ノ丸  三間に五間(5.5m、9m)
  南ノ丸  四間に七間(7.3m、12.7m)

 現在は土塀の一部がわずかに残っているだけである。城を守っていたのは、香西氏の家臣で直島に本居をかまえていた渡辺氏の市之亟と三之亟兄弟が守っていた水城でありました。″
【左図】芝山城の位置図
 前稿・藤尾城で紹介したように、芝山城は藤尾城の北方にあり、瀬戸内に面している。
【写真左】南端部入口の階段
 国道16号線と南北に交わる幹線道路の交差点付近で、写真の横断歩道を渡り、階段を上がっていく。


渡辺氏と高原氏

 芝山城の城代として渡辺市之亟及び三之亟兄弟の名が残る。香西氏の家臣で直島に本拠を構えていたという。ところで、この「亟」という漢字をあてているが、現地の説明板ではこれより画数の多い旧字で書かれている。残念ながら、この漢字をIMEパッドでは置き換えができないため「亟」としている。呼称は「じょう」なので、それぞれ市之亟(いちのじょう)、三之亟(さんのじょう)であろう。
【写真左】芝山城の石碑
 階段の上り縁には御覧の「芝山城跡」と筆耕された石碑が建つ。






 さて、説明板ではこの渡辺兄弟は直島に本拠を構えていたという。直島は芝山城のある香西から北へおよそ10キロ余り北に向かった瀬戸内に浮かぶ島だが、本州側岡山の宇野からはおよそ2キロほどしか離れていない。

 直島の水軍領主として名が残るのは、同島に直島城(別名 高原城)を居城とした高原氏である。高原氏は天正年間(1573~92)にこの直島城を築いたとされ、その出自は香西氏の一族または川之江の川上氏(河上氏)(川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山) 参照)など諸説が残る。
【写真左】階段を上がる。
 芝山城の本丸跡には後段でも紹介する芝山神社が祀られている。
 そのため、最初の階段を登った踊り場には門柱が建っている。登城したのが今年(2010年)の正月明けだったので、注連縄などが飾られていた。


 説明板では渡辺市之亟兄弟も直島を本拠としていると書かれているが、もともと直島を含めたこの付近の島嶼は世に名高い「塩飽水軍(海賊)」が支配していた場所で、この中から塩飽氏を筆頭に、宮本・吉田・妹尾及び渡辺氏の諸氏が出ており、渡辺氏の当時の本拠地が直島であったとするならば、高原氏が居城とした直島城とは反対側の西側すなわち、宮浦港付近であったかもしれない。
【写真左】勝賀城を遠望する。
 階段の途中で振り返ると、右側に勝賀城(香川県高松市鬼無町) が見えてくる。





渡辺党

 ところで、同氏は瀬戸内を活動域としていた水軍もしくは水運にかかわる一族であったことから、平安時代後期摂津国(大阪)の渡辺津(江戸時代には「八軒家」)を本拠とし、淀川・大和川・大阪湾の水運権益を担った渡辺党がその源流と考えられる。

 この場所は現在の大阪府中央区天満橋京町で、京阪鉄道天満橋駅の近くに当たり、今も八軒家浜舟着場がある。因みに、源平合戦の際、義経が屋島の戦いに赴く際、この渡辺党の協力があったといわれている。

 また、以前紹介した備後の、一乗山城(広島県福山市熊野町上山田・黒木谷) の城主渡辺氏も元はこの渡辺党の庶流ともいわれ、後に同氏が福山港側の手城山城(広島県福山市手城町字古城) に在陣したのも、もとは水軍領主であったことからきたものだろう。
【写真左】直登の階段
 麓からの九十九折れ階段を過ぎると、今度はまっすぐな階段が上に向かって伸びる。
 途中には鳥居が見える。
【写真左】改修された灯篭
 階段の脇には、左右に灯篭が配置され、その台座が新しい。見ると令和元年の文字がある。昨年(2019年)にこの先の階段を含めた参道が改修されたようだ。
【写真左】藤尾城を遠望する。
 登坂の参道を上がっていくと、次第に景色が広がる。振り返ると、南に藤尾城見える。
 芝山城から藤尾城まではおよそ700mほどである。
【写真左】狛犬
 芝山の頂部が近づいてきた。左右には狛犬が鎮座し、奥には芝山神社の拝殿が見える。






芝山天狗伝説

 本殿わきには芝山天狗伝説の由来を示す説明板が掲示されている。
 この中に書かれている白峰山とは、以前紹介した崇徳天皇 白峯陵(香川県坂出市青海町) や四国81番札所白峯寺のある白峰山(H:350~400m)で、八栗山とは、85番札所八栗山がある通称五剣山(H:366m)のことである。両山間の距離は約20㎞で、芝山城はほぼその中間点に当たる。
【写真左】説明板の裏にある岩
 今付近にはこのほか三体ぐらい別の岩があり、いずれも注連縄が掛けられている。いずれも磐座として祀ってきたものだろう。

現地の説明板・その2

❝芝山天狗伝説

 昔から白峰山の天狗相模坊(さごんぼう)と八栗山の天狗中将坊(ちゅうじょうぼう)は、仲間同志でお互いに行ったり来たりしていた。ある日、白峰の相模坊天狗が八栗の中将坊天狗のところへ飛んでいく途中、芝山の上空で突然大風にあおられて芝山に落ちてきたそうな。天狗は風がやむのを待つため腰かけて休憩したそうな。

 その時、腰かけた岩を天狗岩と言ったそうだが、どの岩が天狗岩か知っている人は今はいない。こんなことがあってからは、白峰の天狗は芝山の上空を飛ぶときは、芝山で一休みしていたそうな。
 八栗の天狗は、一ツはまの金の下駄をはいてチャリン、チャリンと鳴らして歩いていたと言うそうな。

 芝山にも天狗が棲んでいたいたと伝えられている。ある夜、沖で投網を打っていた漁師が芝山から天狗が飛ぶのを見たという言い伝えがあるそうな。この様な言い伝えが天狗伝説として芝山には昔から残されています。”

【写真左】芝山神社拝殿
 規模は小さなものだが、定期的に祭事が行われているようだ。

 この付近から頂部になり、奥まで平坦部が続く。芝山神社周辺部が当時の南の丸だったと思われる。


現地の説明板より

”芝山神社
 芝山神社の祭神は
大歳神大国主命 大黒さん
御歳神事代主命 恵比須さん
市杵島姫命 弁天神さん
 を奉り、地区住民が毎年10月に例祭を執り行っています。”

【写真左】本殿東側・その1
 いわゆる境内となるが、意外と奥行がありそうだ。

【写真左】本殿東側・その2
 現地には神社及び関連の施設なども設置されていて当時の遺構は確認できないが、何となくこの東側には土塁のようなものがあったようにも見える。
【写真左】さらに奥に進む。
 南の丸から本丸にかけての位置になる。
【写真左】三角点
 この辺りが本丸となる。
【写真左】北の丸
 南北に細く伸びた当城の北端部で、北の丸に位置する。
 この先は向かっていないが、先端部は切岸となっている。
 現在北麓は道路が回り込んでいるが、当時は海岸部だったと思われる。
【写真左】勝賀城を遠望する。
 振り返ると右奥には香西氏の詰城勝賀城が優美な姿を見せる。
【写真左】本丸付近から瀬戸内を俯瞰する。
 北東方向を見たもので、眼下には香西の港があり、奥には屋嶋城(香川県高松市屋島東町) や、女木島・男木島などが見える。



香西寺

 ところで、藤尾城の近くには古刹・香西寺が建立されている。天平11年(739)行基が勝賀山の北麓に勝賀寺を創建し、その後空海が弘仁8年(817)に現在地に移転、その後衰退したが、鎌倉時代に香西氏の祖・資村が再興し、香西寺と改称、以後代々香西氏の庇護を受けた。

 南北朝期に至ると細川頼之(讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)参照) が守護所を当地(香西本町)に移すと、11代当主香西元資が地福寺と改称し、桃山時代には生駒親正が復興した際、高福寺と再び改称、元の名に戻ったのは江戸時代の寛文9年(1669)高松藩主松平頼重が、伽藍整備を行った時で、寶幢山(ほうどうざん)香西寺とした。
【写真左】香西寺
所在地 高松市香西西町211番地

宗派 真言宗大覚寺派

本尊 地蔵菩薩

札所 四国別格20番霊場

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