佐々布(さそう)氏・佐々布要害山城
●登城日 2009年3月6日
●所在地 島根県松江市宍道町佐々布佐々布中
●遺構 溝 その他 郭 帯郭 腰郭 土塁 堀切 虎口
【写真左】佐々布城西側入口付近
佐々布要害山城は、基本的な縄張として、①東郭群と②西郭群にはっきりと分かれている。
今稿では、②の写真を掲載する。
「入口」といっても、佐々布城の登城案内板などは一切なく、地図であらかじめ位置を確認したところ、現在の「宍道町森林公園」の東側端から伸びた丘陵状の山林が城郭区域となっているため、車はこの公園内の駐車場に停めて、そこから登城というよりも「下って」行くような経路になる。
◆解説
佐々布の呼称は「さそう」あるいは、地元では「さそ」と短くした呼称で呼ばれている。
地元郷土史「きまち書留帳」(以下「書留帳」とする)によると、地名としての佐々布が記録上初見されるのは、文永8年(1272)、杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳案で、他の郷とともに下記のように残っている。
1、宍道郷 38町8反300歩(成田四郎)
2、来海荘 100町7段60歩(地頭・別府左衛門妻)
3、佐々布郷 20町2段180歩(地頭・佐々布左衛門入道子)
4、伊志見郷 杵築大社領
●また、建武4年(1337)3月、諏訪部信恵軍忠状によると、出雲国主・塩冶高貞の侍大将の一人・佐々布七郎入道が奉行になって、三刀屋郷地頭の諏訪部信恵が、越前金崎城に拠った新田義貞討伐の軍忠証人となっている。さらに、同年10月には小境郷地頭・伊藤義明の大和河内での軍忠の証人には、佐々布新左衛門尉がなっている。
●書留帳によると、建武の中興期、宍道の地頭(南方)は成田氏となっているが、現実には守護職・塩冶氏の配下奉行であった佐々布氏が、この区域の実権を握っていたようだ。その後、尊氏と直義との軋轢により、南朝系となった足利直冬が石見・出雲を抑えたことにより、佐々布氏は直冬のもとに入り、北朝系の成田氏を追放、金山要害山城を奪い、同じ直冬系の石見・益田兼見の所領とさせている。
●貞和2年(1346)末、高師泰が、佐々布次朗左衛門尉に対して、備後国一宮吉備津宮の神官が、浄土寺(播磨の浄土寺と思われる:筆者)と漁船のことで争ったとき、当該神官に幕府に出頭して事情を説明するよう命じている。この事件について、書留帳は、「出雲・朝山氏が備後国守護に任じられ、その守護代として、佐々布氏が活動していた」と記している。なぜ朝山氏や佐々布氏がここに出てくるのかという経緯・説明がないのでなんともいえないが、佐々布氏全盛期には出雲のみならず、活動範囲が相当広かったようだ。
●しかし、南朝派の衰退とともに、佐々布氏の勢いも下っていく。観応2年(1351)ごろには、佐々布次朗左衛門尉の領地であった出雲国園村(旧平田市)、多久郷(同)などが北朝側の領地となっていく。
越えて戦国期になると、尼子晴久時代には何とか国人領主としての名を残しているが、永禄年間(1566)ごろには、宍道氏の「家臣」もしくは奉行人として生き残っていく。
【写真左】土橋のようなもの
当城はほとんど管理されていないので、完全な藪こぎを覚悟しなければならない。今冬の重たい雪による倒木が行く手を時々阻むが、素手で取り除くか、大廻しながら行けば何とか進める。
写真は、森林公園側から少し入ったところで、このあたりから②の郭群の遺構である土橋が確認できる。
【写真左】堀切
大きさは中規模だが、尾根筋の幅が狭いので、堀切りとしての効果は期待できただろう。
【写真左】井戸跡らしいくぼみ
この山城は廃城になってからほとんど手が加えられていないようで、特に枯葉の堆積が半端でない。
西郭はΓ(ガンマ)形の形状で、東郭に比べ郭数は少ないものの、「東1」「東2」郭の長径は約100mはあるだろう。特に「東2」などは、その平坦形状や位置的にみても、井戸跡などを見ても、長期間の居住が可能な造りに見えた。
【写真左】西郭群中央部に立つ石碑
この石碑が建っているところが、佐々布要害山城の一番高いところで、標高は126m余りである。
前述したように、西郭群の要害性も十分にあるものの、のちほど取り上げる東郭群に比べ、形状がゆったりとしており、事実上の「本丸」がこの西郭群のこの位置ではなかったかと思われる。
●登城日 2009年3月6日
●所在地 島根県松江市宍道町佐々布佐々布中
●遺構 溝 その他 郭 帯郭 腰郭 土塁 堀切 虎口
【写真左】佐々布城西側入口付近
佐々布要害山城は、基本的な縄張として、①東郭群と②西郭群にはっきりと分かれている。
今稿では、②の写真を掲載する。
「入口」といっても、佐々布城の登城案内板などは一切なく、地図であらかじめ位置を確認したところ、現在の「宍道町森林公園」の東側端から伸びた丘陵状の山林が城郭区域となっているため、車はこの公園内の駐車場に停めて、そこから登城というよりも「下って」行くような経路になる。
◆解説
佐々布の呼称は「さそう」あるいは、地元では「さそ」と短くした呼称で呼ばれている。
地元郷土史「きまち書留帳」(以下「書留帳」とする)によると、地名としての佐々布が記録上初見されるのは、文永8年(1272)、杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳案で、他の郷とともに下記のように残っている。
1、宍道郷 38町8反300歩(成田四郎)
2、来海荘 100町7段60歩(地頭・別府左衛門妻)
3、佐々布郷 20町2段180歩(地頭・佐々布左衛門入道子)
4、伊志見郷 杵築大社領
●また、建武4年(1337)3月、諏訪部信恵軍忠状によると、出雲国主・塩冶高貞の侍大将の一人・佐々布七郎入道が奉行になって、三刀屋郷地頭の諏訪部信恵が、越前金崎城に拠った新田義貞討伐の軍忠証人となっている。さらに、同年10月には小境郷地頭・伊藤義明の大和河内での軍忠の証人には、佐々布新左衛門尉がなっている。
●書留帳によると、建武の中興期、宍道の地頭(南方)は成田氏となっているが、現実には守護職・塩冶氏の配下奉行であった佐々布氏が、この区域の実権を握っていたようだ。その後、尊氏と直義との軋轢により、南朝系となった足利直冬が石見・出雲を抑えたことにより、佐々布氏は直冬のもとに入り、北朝系の成田氏を追放、金山要害山城を奪い、同じ直冬系の石見・益田兼見の所領とさせている。
●貞和2年(1346)末、高師泰が、佐々布次朗左衛門尉に対して、備後国一宮吉備津宮の神官が、浄土寺(播磨の浄土寺と思われる:筆者)と漁船のことで争ったとき、当該神官に幕府に出頭して事情を説明するよう命じている。この事件について、書留帳は、「出雲・朝山氏が備後国守護に任じられ、その守護代として、佐々布氏が活動していた」と記している。なぜ朝山氏や佐々布氏がここに出てくるのかという経緯・説明がないのでなんともいえないが、佐々布氏全盛期には出雲のみならず、活動範囲が相当広かったようだ。
●しかし、南朝派の衰退とともに、佐々布氏の勢いも下っていく。観応2年(1351)ごろには、佐々布次朗左衛門尉の領地であった出雲国園村(旧平田市)、多久郷(同)などが北朝側の領地となっていく。
越えて戦国期になると、尼子晴久時代には何とか国人領主としての名を残しているが、永禄年間(1566)ごろには、宍道氏の「家臣」もしくは奉行人として生き残っていく。
【写真左】土橋のようなもの
当城はほとんど管理されていないので、完全な藪こぎを覚悟しなければならない。今冬の重たい雪による倒木が行く手を時々阻むが、素手で取り除くか、大廻しながら行けば何とか進める。
写真は、森林公園側から少し入ったところで、このあたりから②の郭群の遺構である土橋が確認できる。
【写真左】堀切
大きさは中規模だが、尾根筋の幅が狭いので、堀切りとしての効果は期待できただろう。
【写真左】井戸跡らしいくぼみ
この山城は廃城になってからほとんど手が加えられていないようで、特に枯葉の堆積が半端でない。
西郭はΓ(ガンマ)形の形状で、東郭に比べ郭数は少ないものの、「東1」「東2」郭の長径は約100mはあるだろう。特に「東2」などは、その平坦形状や位置的にみても、井戸跡などを見ても、長期間の居住が可能な造りに見えた。
【写真左】西郭群中央部に立つ石碑
この石碑が建っているところが、佐々布要害山城の一番高いところで、標高は126m余りである。
前述したように、西郭群の要害性も十分にあるものの、のちほど取り上げる東郭群に比べ、形状がゆったりとしており、事実上の「本丸」がこの西郭群のこの位置ではなかったかと思われる。
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