掛屋山城跡(かけややまじょうあと)
●登城日 2008年3月17日
◆城主について
【写真左】本丸付近から下の郭を見る
●登城日 2008年3月17日
●所在地 島根県松江市宍道町佐々布 佐々布下
●築城期 中世
●築城主 不明(宍道氏か)
●標高 41メートル
●築城期 中世
●築城主 不明(宍道氏か)
●標高 41メートル
●遺構 郭、腰廓、土塁、堀切り
◆解説
「宍道町史」によると、次のような説明になっている。
“ …また、主郭の海部への通路に面する側には土塁を配置するなど、小規模ながら工夫を凝らした縄張りの山城である。ただ、虎口のない点を除いて縄張りに巧妙さが認められるのと対照的に、普請はかなり簡略で、多くの人力を投入したようには思われない。
掛屋山城が地取りしている地点には、旧山陰道がその北側斜面を走っている。このため、城域の北側では小規模ながら掘割状に通路が掘削されている。また湖岸の蔵敷から海部の谷に抜ける通路は、当城の西側で旧山陰道と交差している。旧山陰道を西側からたどると、つまり簸川郡斐川町荘原あたりから湖岸沿いに陸路で宍道地内に侵入しようとすると、この地点が最後の関門となる。
こうした点を考え合わせると、当城は旧山陰道を押さえて宍道を、とりわけその河口部を守る役割を負った境目の城というべきであろう。
なお、元来掛屋山城は、宍道湖岸の蔵敷に居館を持つ小土豪の築いた詰城だったと推測される。蔵敷集落に「土居」が構えられていたことは、残された小字名からほぼ確実である。ただ文献資料がまったくないため、居館の主の性格は推定するしかないが、城の内館と空瀧戸城の場合のような有力名主の後身で、海部の谷か蔵敷の北側の湖岸に所領をもっていたものであろう。そしてその詰城が毛利氏によって接収され、小面積の中ながら巧妙な縄張りで改修の手が加えられたのであろう。…”
“ …また、主郭の海部への通路に面する側には土塁を配置するなど、小規模ながら工夫を凝らした縄張りの山城である。ただ、虎口のない点を除いて縄張りに巧妙さが認められるのと対照的に、普請はかなり簡略で、多くの人力を投入したようには思われない。
掛屋山城が地取りしている地点には、旧山陰道がその北側斜面を走っている。このため、城域の北側では小規模ながら掘割状に通路が掘削されている。また湖岸の蔵敷から海部の谷に抜ける通路は、当城の西側で旧山陰道と交差している。旧山陰道を西側からたどると、つまり簸川郡斐川町荘原あたりから湖岸沿いに陸路で宍道地内に侵入しようとすると、この地点が最後の関門となる。
こうした点を考え合わせると、当城は旧山陰道を押さえて宍道を、とりわけその河口部を守る役割を負った境目の城というべきであろう。
なお、元来掛屋山城は、宍道湖岸の蔵敷に居館を持つ小土豪の築いた詰城だったと推測される。蔵敷集落に「土居」が構えられていたことは、残された小字名からほぼ確実である。ただ文献資料がまったくないため、居館の主の性格は推定するしかないが、城の内館と空瀧戸城の場合のような有力名主の後身で、海部の谷か蔵敷の北側の湖岸に所領をもっていたものであろう。そしてその詰城が毛利氏によって接収され、小面積の中ながら巧妙な縄張りで改修の手が加えられたのであろう。…”
【写真上】当城の南側から見る
場所は、宍道町の西側に走る国道54号線が国道9号線と交わる手前に、山陰高速道へ入る道の北にある。普段からこのあたりもよく通っていたが、山といっても丘陵地程度の何の変哲もない雑木林と思っていた。ところが、山城に興味を覚えたころ、この山が山城であることに驚いたものである。
◆城主について
佐々布要害山城は後日取り上げるつもりだが、以前取り上げた塩冶高貞の自刃場所である宍道白石から近いところにあり、当時高貞は、佐々布要害山城へ立ち寄る予定であったといわれている。
【写真左】堀切
小規模ながら主だった城郭としての遺構は思った以上によく残っている。
【写真左】本丸付近から下の郭を見る
この道がいつ頃からあったものか分からないが、すぐ左が当時宍道湖岸であったことを考えると、陸路として使用されたのは相当前からあったものと思われる。
ちなみに、この写真の右側が城郭になる。
この右側には、旧山陰道が南にカーブして走っており、当時の亡くなった旅人を供養したものか、あるいは戦国期、戦で亡くなった武将たちを祀ったものだろう。
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