2009年3月4日水曜日

掛屋山城跡・その2・本城常光の惨殺場所?

本城常光

 毛利氏が尼子氏を滅ぼそうとしたころ、出雲・石見国人領主の中で、最も要注意の武将として本城常光がいた。

 特に、石見銀山山吹城を毛利が何度も落とそうとしたものの、山吹城に籠る本城常光を戦では落とすことができず、結局、元就得意の懐柔策で味方に引き入れる。常光は、それまで尼子晴久方の出雲西部から石見方面を任され、毛利に対峙していた。

 常光の戦は、他の武将たちの能力に比べて群を抜いており、まともな戦を挑めば、毛利方もどうなるか分からない。そうしたことから、元就流の方法で味方につけたわけであるが、その後度重なる軍規違反を繰り返し、自軍の武将に恩賞を与えた領地まで常光が勝手に横領したため、元就もいずれは常光の処分を考えていたのであろう。

 元就の常光抹殺の手法は徹底しており、本人はもとより、血のつながったほとんどの一族が殺されたという。 
 その時期は、1562年といわれている。

常光が誅殺された場所

 さて、その常光が殺された場所としては、これまで次の2か所が挙げられている。

① 斐川町学頭の軍原
② 来待の菅原神社~幡屋地区


 この掛屋山城の位置は、①の斐川町学頭軍原から②の来待の中間で、やや斐川町よりだが、①も②にも常光が祀られているような史跡がない。

 そうしたところ、今回この掛屋山城を探訪したおり、地元の人に下記のようなことを伺った。

【写真左】北側の旧山陰道といわれている道

 この日、付近にいた地元の男性に訪ねたところ、この道が当時(江戸時代ごろ)のものだという。

 なお、左に見える石塔は、はっきりしないが、昔から旅の途中で亡くなった人の墓ではないか、といわれているとのこと。

 管理人が見たところ、この墓の形式は五輪塔の形状に近く、戦国期の武将の墓のものではないかと思われた。

 なお、写真の奥の方向が松江方面だが、城跡付近で少し北にカーブし、さらに城跡を囲むように南にまがって、現在の54号線方面に降りていくみちなりになっている。

【写真左】「昔から、この中に入ったり、手をつけてはいけない一角」といわれているところ

 たまたま、話をしていたところ、この道の北にある小さな藪(写真)は、「昔からこの場所に誰も手を加えてはいけないという場所であり、今日までそれを厳格に守ってきている。」とのこと。

 こういう言い伝えの場所は、いわゆる「祟り」があるというような伝承地であることが多い。

 そうしたことを考えると、この場所は残虐な行為が行われたということかもしれない。

 そこで、考えられるのは、前から気になっていた「本庄常光」の慙死場所がひょっとしてこの地ではないかと思われるわけである。

 写真のように4,5m四方という小さな区画だが、竹や雑木が生えたまま残し、周囲はきれいに清掃管理されている。

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