国指定重要文化財 口羽家住宅
◆前記したように、口羽氏は毛利氏の名家老・通良の代から引き続きその職責を踏襲していくが、関ヶ原の合戦後、西軍であったことから、毛利氏一族と一緒に萩に移封される。
今回は、その移封された萩市にある口羽家を取り上げたい(以下現地の説明板より)。
●名称 口羽家住宅
●探訪日 2008年11月21日
●指定 国指定重要文化財(建築物)(昭和49年5月21日)
●所在地 萩市大字堀内
●員数 2棟(主屋・表門)
<主屋>木造平屋建て桟瓦葺 建物面積 116.875㎡
<表門>木造一部中2階本瓦葺 建物面積 108.827㎡
指定説明
口羽氏は毛利氏の庶流で、もとは石見国邑智郡口羽村を領した用路城主であったが、関ヶ原の戦の後、毛利氏氏に従って萩に移り、藩の寄組士(よりぐみし)(禄高1,018石余)として、代々萩城三の丸に住んだ。
この三の丸(堀内)一帯は、大身の武士が住んでいた地区で、当時の面影をよく残し、重要伝統的建築物群保存地区の選定を受けている。
口羽家住宅は、主屋と表門が揃って残っており、萩城下に現存する屋敷としても古く、かつ全国的にも比較的数の少ない武家屋敷の一遺例として価値がある。
昭和51年10月から解体復元工事が行われ、54年2月に竣工した。
<主屋>
この建物は南向きで、切妻造り桟瓦葺屋根の東側に、入母屋造りの突出部を設けている。
間取りの平面構成は、棟通りで前後に仕切った6間取り型で、東側に張り出した台所がある。座敷と奥座敷の間には2畳の「相の間」があり、「武者隠し」の名残りとも考えられる。
座敷からは庭を隔てて、橋本川や対岸の玉江の風景も楽しめ、風光明媚な趣のある一等地である。
<表門>
表門は、萩に残っているものとしては最も雄大な規模を有する長屋門である。桁行22.2m、梁間4.9m、入母屋造り本瓦葺である。
片潜門(かたくぐりもん)の南側には、門番所・中間部屋・厩(うまや)を置く。門番所には表向きに出格子があり、また門側にも窓があって門の内外を見通すことができるようになっている。門の表側は白壁、腰下はなまこ壁となっている。
口羽家の表門は、延宝3年(1675)に江戸藩邸の門を拝領して萩に移築したと伝えられているが、現在の門は建築手法からみて18世紀後半のものと思われる。
◆口羽家のある周辺は上記の如く、三の丸のあったところで、現在でも通りの道は狭く、直接車で来ても駐車するところはない。
口羽家の敷地内には、現在でも口羽家の子孫が住まいをしておられる。国指定となっている住宅そのものは他の萩市内屋敷跡と同じく、小ぶりな造りで、中に入ると、受付と説明を兼ねた女性の方がおられる。 屋敷の庭のはずれは、橋本川という大きな川が流れており、江戸期の本丸登城は徒歩もあったと思うが、船着場らしき場所も見えたので、案外その頻度が多かったかもしれない。
◆前記したように、口羽氏は毛利氏の名家老・通良の代から引き続きその職責を踏襲していくが、関ヶ原の合戦後、西軍であったことから、毛利氏一族と一緒に萩に移封される。
今回は、その移封された萩市にある口羽家を取り上げたい(以下現地の説明板より)。
●名称 口羽家住宅
●探訪日 2008年11月21日
●指定 国指定重要文化財(建築物)(昭和49年5月21日)
●所在地 萩市大字堀内
●員数 2棟(主屋・表門)
<主屋>木造平屋建て桟瓦葺 建物面積 116.875㎡
<表門>木造一部中2階本瓦葺 建物面積 108.827㎡
指定説明
口羽氏は毛利氏の庶流で、もとは石見国邑智郡口羽村を領した用路城主であったが、関ヶ原の戦の後、毛利氏氏に従って萩に移り、藩の寄組士(よりぐみし)(禄高1,018石余)として、代々萩城三の丸に住んだ。
この三の丸(堀内)一帯は、大身の武士が住んでいた地区で、当時の面影をよく残し、重要伝統的建築物群保存地区の選定を受けている。
口羽家住宅は、主屋と表門が揃って残っており、萩城下に現存する屋敷としても古く、かつ全国的にも比較的数の少ない武家屋敷の一遺例として価値がある。
昭和51年10月から解体復元工事が行われ、54年2月に竣工した。
<主屋>
この建物は南向きで、切妻造り桟瓦葺屋根の東側に、入母屋造りの突出部を設けている。
間取りの平面構成は、棟通りで前後に仕切った6間取り型で、東側に張り出した台所がある。座敷と奥座敷の間には2畳の「相の間」があり、「武者隠し」の名残りとも考えられる。
座敷からは庭を隔てて、橋本川や対岸の玉江の風景も楽しめ、風光明媚な趣のある一等地である。
<表門>
表門は、萩に残っているものとしては最も雄大な規模を有する長屋門である。桁行22.2m、梁間4.9m、入母屋造り本瓦葺である。
片潜門(かたくぐりもん)の南側には、門番所・中間部屋・厩(うまや)を置く。門番所には表向きに出格子があり、また門側にも窓があって門の内外を見通すことができるようになっている。門の表側は白壁、腰下はなまこ壁となっている。
口羽家の表門は、延宝3年(1675)に江戸藩邸の門を拝領して萩に移築したと伝えられているが、現在の門は建築手法からみて18世紀後半のものと思われる。
◆口羽家のある周辺は上記の如く、三の丸のあったところで、現在でも通りの道は狭く、直接車で来ても駐車するところはない。
口羽家の敷地内には、現在でも口羽家の子孫が住まいをしておられる。国指定となっている住宅そのものは他の萩市内屋敷跡と同じく、小ぶりな造りで、中に入ると、受付と説明を兼ねた女性の方がおられる。 屋敷の庭のはずれは、橋本川という大きな川が流れており、江戸期の本丸登城は徒歩もあったと思うが、船着場らしき場所も見えたので、案外その頻度が多かったかもしれない。
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