2009年3月7日土曜日

小早川正平の墓(島根県出雲市美談町)

小早川正平(こばやかわまさひら)の墓


●所在地 島根県出雲市(旧平田市)美談(みだみ)町
●探訪日 2007年10月27日及び2014年10月6日

◆解説
 小早川正平の墓は、前々稿で取り上げた鳶ヶ巣城(島根県出雲市西林木町) の麓に、建立されている

 正平が討死したのは、尼子再興軍が蜂起した元亀年間ではなく、その約30年以上前の天文年間である。
 当時は山口の大内氏が全盛期で、天文11年(1542)、大内義隆が出雲(尼子)制圧のため東上してきた。このとき、それまで大内氏に従っていた正平は、一時尼子に与しようとしたが、大内氏に見破られ、居城であった安芸・高山城(広島県三原市高坂町)を奪い取られ、その後、正平は大内氏に拘束される。

 そうした状況のまま、出雲遠征に従軍するが、このときの戦も大内氏配下となっていた出雲国人たちの寝返りにより、大内軍の大敗北となり、敗走するだけで精一杯になった大内氏は、正平に殿軍(しんがり)を務めさせる。


 果せるかな、正平は尼子方主従3人により討たれてしまう。時に天文12年(1543)5月9日、享年21歳という若さであった。

 結果として、大内氏は、最初から負け戦の際は、この正平に討死させるつもりだったようで、なんとも哀れである。またこの戦では、いずれ取り上げるつもりだが、現在の東出雲町付近では大内氏の養子・春持(晴持とも書く)(土佐一条氏から来ている)も溺死している。


 なお、この正平の墓の東には、後年、末裔となった小早川隆景が正平の死を弔うために建てた「興源寺」がある(下段写真参照)


【写真左】興厳寺方面から見た正平の墓遠景

 国道側に案内の木柱はあるものの、そのあとの案内板が全くないため、探すのに大分苦労した。写真中央のこんもりとした部分が、下にある正平の墓地である。左の民家の手前にあぜ道程度のものがあり、その家の北の裏側を通って行く。

 興厳寺から西へ約150m程向かったところにある。


【写真】小早川正平の墓・その1
【写真】小早川正平の墓・その2
【写真】小早川正平の墓・その3


【写真】小早川正平の墓・その4
 横には「天文12年5月9日薨(みまかる)」と刻銘されている。
【写真左】興源寺
【写真左】宝篋印塔二基
 正平の墓とは別に、興源寺前の道路を挟んだ南側の畑地に二基の宝篋印塔が祀られている。
 正平の墓とは全く別の箇所にあるため、尼子方の武将のものかもしれない。







◎関連投稿
米山寺・小早川隆景墓(広島県三原市沼田東町納所)
大内神社(島根県東出雲町 西揖屋) 

3 件のコメント:

  1. 美談は地元出雲では「みだみ」と読みます。念のためお知らせします。

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    2. 拝復 ご指摘ありがとうございました。
      地元知人が強烈な出雲弁で美談を「みだン、みだン」と言っていたのが残っていて、そのまま付記してしまいました。隣の「国富」も「クンドメ」と言っていましたので、子供のころはこれを「君止(め)」というような地名だろうと勝手に想像していました(笑)。
      今後ともご笑覧のほどお願いします。
      トミー 拝

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