2009年3月20日金曜日

長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)

岡豊城(おこうじょう)

●登城日 2009年3月18日(水)
●所在地 高知県南国市岡豊町八幡
●築城年 不明
●城主 長曽我部氏など
●標高 97m
●指定 国指定史跡

解説(『探訪 長宗我部氏ゆかりの地』 土佐のまほろば地区振興協議会編より)
岡豊城跡 南国市岡豊町八幡 国指定史跡
 長宗我部氏の居城であり、標高97mの東西に長い孤立丘陵に構築された土佐の中世城郭を代表する城跡である。築城の年代は不明であるが、永正5~6(1508~09)年、周辺の有力国人であった本山・山田・吉良氏らの連合軍に攻められて落城した。城主・長宗我部兼序(かねつぐ)は自刃し、幼年の子・千雄丸は幡多の一條氏のもとに逃れたと伝えるものが城についての初見である。
 永正15年(1518)、千雄丸は国親を名乗り岡豊に帰り、ここを本拠に長宗我部再興に乗り出した。国親は永禄3年(1560)病死するが、跡を継いだ元親は土佐を統一し、天正16年(1588)大(おお)高坂城(たかさかじょう)(現高知城城郭内)に移転するまで、長宗我部の居城として機能し続けている。
 城の縄張りは、山頂部を主郭とし、二の段から四の段までの階段式曲輪が構えられ、さらに西に伝厩(でんうまや)跡曲(あとくる)輪(わ)と、南に伝家老屋敷跡曲輪の2か所の副郭を持つ構造で、縄張りから見ると北側と西側の防御施設が顕著な城郭である。
 高知県立歴史民俗資料館建設等にともなって、6次にわたる発掘調査が行われ、「土の城」から「石の城」への変化、戦国期の城から織豊期の城へと変化する過程が確認された。
 平成13年11月、この城の南斜面下の国分川に最も突出した丘陵部の発掘調査が行われた。その結果や周辺の踏査に基づいて、大手(表門)や搦手(裏門)の確認や、家老屋敷跡とされる曲輪に大規模な屋敷群、さらにほかの曲輪に家臣団の屋敷群などが密集した大規模な城郭の想定が可能となった。   元親の土佐統一の天正3年(1575)頃からの大規模な普請を機会に、戦国大名の拠点にふさわしく、丘陵全体を総城郭化したとも考えられるようになった。


【写真左】岡豊城遠望
南東方面(高知東道路)走行中から撮る。


【写真左】岡豊城配置図
 この山全体が岡豊城城郭として築城されたと思うが、その西側には現在歴史民俗資料館が建ち、駐車場はこの資料館用と兼用されている。
 車をここにおいて、手前の二の段、三の段、詰(本丸)、四の段、虎口、展望広場、そしていったん下がると、もと厩跡といわれている曲輪(出城か)の展望広場tという順路で回った。
 城郭全体を散策する道は整備され、途中の傾斜がかなりきついところもあるが、滑り止めの処置がしてあるので、非常に歩きやすい。

【写真左】高知県立歴史民俗資料館
二の段の西方下に建っている。
開館時間は午前9時から午後5時まで、休館日は12月27~1月1日(ただし臨時休館あり)。大人450円
 平成3年にオープンしている。
 長曽我部氏の居城だった岡豊城跡に建っていることから、当然長曽我部氏関係の展示物もあるが、それ以外の歴史・考古・民俗関係の展示物もある。
 なお、この建物が建築されるとき、岡豊城の発掘調査も何回かにわたって行われ、その時の出土品や、当城の改修内容などもわかってきたという。

【写真左】二の段と詰下段の中間にある堀切と井戸跡
 堀切はこのほかにも多数あるが、手前に少し見えるのが、井戸跡。
 説明板によると、井戸の底が岩盤であることから、湧水はなく、雨水をためる「溜井(ためい)」として使われたという。


【写真左】詰(本丸)付近
この位置が、標高97m・岡豊山の頂上部で、三角形の形(一辺40m)。説明板によると、石敷遺構(建物の基礎)と礎石建物跡が発見されている。また、この位置にも「溜井」跡や、柱穴があったとのこと。
【写真左】東方を見る
この方向に見える景色は「土佐のまほろば」といわれる歴史上重要な一帯で、「比江廃寺跡」「土佐国分寺跡」「土佐国府跡」が見える。


【写真左】竪掘り
城郭の遺構としては管理がよく、こうした竪掘りも現地でもよくわかる上に、写真に撮っても鮮明に見える。
 この竪掘りは、途中から二股に分かれた構造になっている。

【写真左】虎口付近


【写真左】伝厩跡曲輪
詰のある地点からは大分離れていて、東方の様子が最初にわかる地点である。

感想
昨年NHKのテレビで、若い女性たちの間で、戦国武将に人気が出てきているとの報道があり、その中で最も人気があるのが、この岡豊城主であった「長曽我部元親」とのこと。その理由が一代で四国を統一したことや、容姿端麗(どこまでが事実か分からないが)で、現代的にいえば「イケメン」だったこと、また波乱にとんだ人生であったこと、等などがその理由だという。
●当城の印象としては、その規模は中規模程度だが、遺構の保存が極めてよく、城郭の遺構の種類がほとんど網羅されていることや、中世山城から織豊期の山城へと移り変わる過程がよくわかるという特徴を持っていることが挙げられる。
●なお、この付近にはまだ岡豊城関連の史跡が相当あり、引用した資料「探訪 長曽我部氏ゆかりの地」も丁寧な内容で、はじめてきた者にとっては非常に参考になるものだ。

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