琵琶甲城跡(びわこうじょうあと)別名 矢羽城
◆登城日 2008年3月29日
●所在地 島根県邑智郡邑南町 下口羽
●時代 中世
●遺跡種別 城館跡
●遺構の現状 山林
●土地保有 民有地
●指定 未指定
●標高 311m
●備考 矢羽城跡
●遺構概要
郭(本丸・二の丸・まりの段・釜屋) 削平地 竪堀 空堀 腰郭 土塁 石垣 堀切 竪堀 連続竪堀 虎口 など
【写真上】琵琶甲城遠景
手前出羽川をはさんで、左側に口羽氏菩提寺・宗林寺。
本丸は写真の右の山。宗林寺の後に口羽氏の墓があり、その奥から琵琶甲城へ登る道も設置されている。
◆解説(参考:羽須美村誌など)
以前「本城常光」を取り上げた際、高橋氏の流れを合わせて説明したが、今回はその高橋氏の跡に入部してきた「口羽氏」とその居城・琵琶甲城(びわこうじょう)を取り上げる。
【写真左】宮尾八幡宮
琵琶甲城のある山並は、江の川と出羽川が挟むような配置になって、本丸を中心として、上空から見ると十文字形をなしている。
登城口は、前記した南西側(宗林寺)尾根から登るルートと、南東に伸びた尾根下から登るコースの2か所がある。
宮尾八幡宮は、この南東側からのルート上にあり、麓には小学校(跡地か)がある。私はこの場所に車を停めて、登城した。
享禄2年(1529)5月2日、高橋弘厚が大内義隆に反し、尼子経久についたため、義隆の命を受けた毛利元就が、最初に弘厚の居城・松尾城を攻略し、そのあと弘厚の子・興光の居城・藤掛(根)城及び阿須那城を落とす(石見・軍原の戦いなどが有名で、興光切腹の経緯はいずれ取り上げたい)。
【写真左】登城途中から見た比尼人城(びくにんじょう)跡遠望
比尼人城は、口羽氏奥方の隠居所だったので、この名があるという。
この地域・阿須那郡口羽は、毛利の安芸から、石見銀山へのルートとして非常に重要な場所であったことから、元就の最も信頼でのできる家老として志道通良(しじみちよし)が入る。
彼は、この口羽に入ってから、地名に合わせ、口羽(くちば)通良と改名する。口羽通良は、前領袖だった高橋氏の本城(藤掛城)に入らず、江の川本流に近い口羽にあった旧矢羽城を修復して、その名も「琵琶甲城」と改名する。
【写真左】屋敷跡らしき平坦地
資料には載っていないが、本丸直下の位置に、写真のような土塁の跡をうかがわせる遺構をもった平坦地がある。
おそらく家臣らの屋敷跡と思われる。この位置から本丸に向かって傾斜角度が高くなっていく。
口羽氏は、毛利元春の弟・匡時より坂氏を称して、その子・坂広秋の四男・元良が高田郡志道村に住し、志道氏を名乗る。口羽通良は、その元良の子である。
琵琶甲城を築城するにあたって、当城正面(南側)登城口付近に「宮尾八幡宮」を創建し、菩提所は、同じく本丸西山麓に「臨済宗宗林寺」を建てる。通良は主にこの寺を日常の居宅としたという。
さらに、祈祷所としては、出羽川を隔てた江の川沿いの丘陵地に、従前より祀られていた「真言宗延命寺」を充てたという。
【写真左】登城途中の郭の一部
南東の尾根伝いから登っていくと、はっきりとわかる曲輪は2か所ある。特に本丸付近より、登城途中の尾根伝いの遺構保存度がよい。
地図を広げてみると、この琵琶甲城の場所がいかに重要な拠点であるかがわかる。この場所は毛利が石見(銀山)や、出雲(尼子)を攻める際の平時の前線基地ともいえる。
陸路から大量の兵糧を運ぶことが困難な場合は、江の川水系を使うことができる。そして琵琶甲城の位置(口羽)は、江の川の枝川である出羽川が合流するところで、出羽川そのものも水運用として使用が可能だったらしく、川(船)の役割を熟知していたようだ。
【写真左】本丸跡1
長径37m、短径25mのものが東側に、長径17m、短径28mのものが西側に独立して残り、東側郭側に帯曲輪(長径50前後)の段があり、北東尾根伝いに中小の郭が5か所認められる。
【写真左】本丸付近の土塁
【写真左】本丸東端部分
【写真左】宗林寺遠望
【写真左】口羽氏の墓
宗林寺本堂の後には墓地があり、少し高い位置にこの墓石が建っている。
【写真左】出羽川沿い7号線に設置された案内板
◆登城日 2008年3月29日
●所在地 島根県邑智郡邑南町 下口羽
●時代 中世
●遺跡種別 城館跡
●遺構の現状 山林
●土地保有 民有地
●指定 未指定
●標高 311m
●備考 矢羽城跡
●遺構概要
郭(本丸・二の丸・まりの段・釜屋) 削平地 竪堀 空堀 腰郭 土塁 石垣 堀切 竪堀 連続竪堀 虎口 など
【写真上】琵琶甲城遠景
手前出羽川をはさんで、左側に口羽氏菩提寺・宗林寺。
本丸は写真の右の山。宗林寺の後に口羽氏の墓があり、その奥から琵琶甲城へ登る道も設置されている。
◆解説(参考:羽須美村誌など)
以前「本城常光」を取り上げた際、高橋氏の流れを合わせて説明したが、今回はその高橋氏の跡に入部してきた「口羽氏」とその居城・琵琶甲城(びわこうじょう)を取り上げる。
【写真左】宮尾八幡宮
琵琶甲城のある山並は、江の川と出羽川が挟むような配置になって、本丸を中心として、上空から見ると十文字形をなしている。
登城口は、前記した南西側(宗林寺)尾根から登るルートと、南東に伸びた尾根下から登るコースの2か所がある。
宮尾八幡宮は、この南東側からのルート上にあり、麓には小学校(跡地か)がある。私はこの場所に車を停めて、登城した。
享禄2年(1529)5月2日、高橋弘厚が大内義隆に反し、尼子経久についたため、義隆の命を受けた毛利元就が、最初に弘厚の居城・松尾城を攻略し、そのあと弘厚の子・興光の居城・藤掛(根)城及び阿須那城を落とす(石見・軍原の戦いなどが有名で、興光切腹の経緯はいずれ取り上げたい)。
【写真左】登城途中から見た比尼人城(びくにんじょう)跡遠望
比尼人城は、口羽氏奥方の隠居所だったので、この名があるという。
この地域・阿須那郡口羽は、毛利の安芸から、石見銀山へのルートとして非常に重要な場所であったことから、元就の最も信頼でのできる家老として志道通良(しじみちよし)が入る。
彼は、この口羽に入ってから、地名に合わせ、口羽(くちば)通良と改名する。口羽通良は、前領袖だった高橋氏の本城(藤掛城)に入らず、江の川本流に近い口羽にあった旧矢羽城を修復して、その名も「琵琶甲城」と改名する。
【写真左】屋敷跡らしき平坦地
資料には載っていないが、本丸直下の位置に、写真のような土塁の跡をうかがわせる遺構をもった平坦地がある。
おそらく家臣らの屋敷跡と思われる。この位置から本丸に向かって傾斜角度が高くなっていく。
口羽氏は、毛利元春の弟・匡時より坂氏を称して、その子・坂広秋の四男・元良が高田郡志道村に住し、志道氏を名乗る。口羽通良は、その元良の子である。
琵琶甲城を築城するにあたって、当城正面(南側)登城口付近に「宮尾八幡宮」を創建し、菩提所は、同じく本丸西山麓に「臨済宗宗林寺」を建てる。通良は主にこの寺を日常の居宅としたという。
さらに、祈祷所としては、出羽川を隔てた江の川沿いの丘陵地に、従前より祀られていた「真言宗延命寺」を充てたという。
【写真左】登城途中の郭の一部
南東の尾根伝いから登っていくと、はっきりとわかる曲輪は2か所ある。特に本丸付近より、登城途中の尾根伝いの遺構保存度がよい。
地図を広げてみると、この琵琶甲城の場所がいかに重要な拠点であるかがわかる。この場所は毛利が石見(銀山)や、出雲(尼子)を攻める際の平時の前線基地ともいえる。
陸路から大量の兵糧を運ぶことが困難な場合は、江の川水系を使うことができる。そして琵琶甲城の位置(口羽)は、江の川の枝川である出羽川が合流するところで、出羽川そのものも水運用として使用が可能だったらしく、川(船)の役割を熟知していたようだ。
【写真左】本丸跡1
長径37m、短径25mのものが東側に、長径17m、短径28mのものが西側に独立して残り、東側郭側に帯曲輪(長径50前後)の段があり、北東尾根伝いに中小の郭が5か所認められる。
【写真左】本丸付近の土塁
【写真左】本丸東端部分
【写真左】宗林寺遠望
【写真左】口羽氏の墓
宗林寺本堂の後には墓地があり、少し高い位置にこの墓石が建っている。
【写真左】出羽川沿い7号線に設置された案内板
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