2010年3月6日土曜日

角牟礼城・その2

角牟礼城(つのむれじょう)・その2

◆解説
 角牟礼城・その2として、今稿は当城を地域資源や文化のまちづくりにも活用している「つのむれ会」という団体の紹介と併せ、当城周辺の眺望を中心に紹介したい。

【写真左】眺望その1












 前稿で紹介できなかったが、現地にはこの「つのむれ会」という団体によって作られた詳細な年表が設置されていたので、改めて下段に転載しておく。

難攻不落の角牟礼城略年表(つのむれ会)
   所在地 大分県玖珠郡玖珠町大字森(角埋山・標高576m)

1122(保安3年)
 11月19日の「清原氏所領配分状」(大友文書)に「角牟礼鐘突堂」とあり、これ以前に山岳宗教の堂宇がここにあったと思われる。

1155(久寿2年
 このころ源為朝が築城したと伝えられる。

1278~1287(弘安年間)
 このころ森三郎朝通が、ここに居城したという。

1534(天文3年)
 大友義鑑(よしあき)は、古後中務少輔以下8名の玖珠郡衆あてに、新堀築造の感状を出す(菊池氏、大内氏に対する備えとして)。

1586(天正14年)
 12月、大友氏攻略の島津軍約6千人が玖珠郡に攻め入る。

1587(天正15年)
 1~3月、角牟礼城攻撃。籠城の森五郎左衛門はじめ古後、太田氏等約11千人、島津軍数度の猛攻に屈せず、これを撃退する。
【写真左】眺望その2













1593(文禄2年)
 豊臣秀吉は大友吉統(よしむね)を罰し、除国。豊後国は秀吉の直轄地となる。森氏等も城を捨てる。

1594(文禄3年)
 毛利高政は、秀吉の命を受けて日田・玖珠郡に入部。以後6年の間に本格的な築城を目指し、穴太積みの石垣や櫓門も造られたのではないかといわれている。

1600(慶長5年)
 9月、関ヶ原の戦いで西軍敗北。城は黒田如水により開城。

1601(慶長6年)
 徳川家康、元伊予の水軍大将久留嶋(来島)康親を森に封ずる。康親は館を角埋山の麓(童話碑のところ)に構える。角牟礼城は廃城となる(毛利高政は佐伯城へ移る)。

1615(元和元年)
 幕府、一国一城令を公布。2代藩主久留嶋通春は、城の建物・石垣の一部を破却。

(藩政時代)
 その後森藩では、有事に備えて山一帯を管理し、通常は一般の入場を禁じていた。

1993(平成5年)
 玖珠町教育委員会により、城跡の発掘調査が始まる。(櫓門跡などの礎石・瓦片・磁器などが出土)”
【写真左】眺望その3





◆「つのむれ会」について

 全国の主要な山城でも、地域ごとにその保存活動などはされていると思われるが、この「つのむれ会」のHPを見ると、非常に地元住民の積極的な活動を知ることができる。
 昭和56年(1981)の結成というから、四半世紀を超える。会員は現在200名以上を数える。

 角牟礼城は平成17年に国指定史跡となっているが、山城としての遺構の価値もさることながら、こうした地道な活動があったから、指定史跡を受けることもできたと思われる。

【写真左】眺望その4
 この山は角牟礼城本丸から南東方向に見える「大岩扇山(691m)」という山で、この方向からみると、まるで北アメリカのグランドキャニオンの渓谷に見える。




 天守閣などのある近世城郭については、一般的に観光地の一部としても、多くの人の目に留まるが、山城となると、なかなかその認知度が低いため、こうした保存管理や啓蒙活動まで含めた維持団体を結成することは、至難の業である。それを考えると、当会の活動は称賛に値する。
【写真左】本丸付近
 虎口跡といわれている個所である。

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