2010年3月6日土曜日

角牟礼城(大分県玖珠郡玖珠町森)その1

角牟礼城(つのむれじょう)その1

●所在地 大分県玖珠郡玖珠町森
●登城日 2008年12月3日
●築城期 久寿2年(1155)、または弘安年間(1278~88)
●築城者 源為朝(久寿年間)又は、森朝通(弘安年間)
●形態 山城(577m/250m)
●指定 国指定史跡
●別名 角埋城

◆解説(参考文献「サイト・『つのむれ会』」「城格放浪記」等)
 前稿・秋月城探訪後、再び大分自動車道に乗り、東に向かっていくと、次第に周囲の山並の景色が変わっていった。
 最初に大分県を訪れたのは、湯布院や九重連山を探訪した時で、もう20年も前になる。このときから豊後・豊前の特徴ある景観に魅了された。その後、2005年にも訪れ、行くたびに特に内陸部の景色が好きになっていった。
【写真左】角牟礼城遠望
 大分自動車道の玖珠ICを降りて、北に向かうと角埋山(角牟礼城)が真北に見える。

 写真下の町並みは森地区で、途中までは道路が整備されているが、その先の角牟礼城に向かう道はやや狭い。しかし舗装されているので、急坂カーブは多いものの、アクセスは分かりやすい。


 耶馬渓などにも代表されるように、このあたりの山々は、それぞれが特徴をもった山容を見せる。よく、水墨画・山水画などで中国の山をモチーフにしたものがあるが、日本でそうした山を題材に描くとすれば、この豊後・豊前に行けば十分それに応えてくれるのではないだろうか、と、そんな想像さえする。

 山城探訪が好きになったのは、数年前なのだが、山城というキーワードを意識しながらこのあたりを眺望してみると、さらに一段と見方が変わっていくような気がする。
【写真左】角牟礼城縄張図
 現地に設置してあるもので、上部に行くほど郭の長さなどが大きくなっている。

 なお、同図の三の丸付近まで車で行くことができる。駐車場も十分に広い。





 角牟礼城は、そうした特徴ある豊後の山を巧みに利用した名城である。サイトなどでこの山城を紹介したものがすでに多く紹介され、個人的には、見るたびに垂涎の的となってきた山城である。

 2008年の12月にやっとその思いが成就されたというと、いささか大袈裟な表現だが、気分はそれに近いものがあった。

 さて、前置きが大分長くなったが、当城の概要・沿革については、現地の説明板より記す。

“角牟礼城跡

 角牟礼城は標高577mで、古くから石垣のある山城として知られている。天然の要害と呼ぶにふさわしく、三方を切り立った険しい岩垣で囲まれている。

 角牟礼城跡の名が史料に初めて登場するのは、文明7年(1475)の志賀親家文書である。
 その後、天文2年(1532)や、翌3年には「角牟礼新堀之事」や「角牟礼勤番在城」と出てくるように、角牟礼城は古くから、豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として、玖珠郡衆により守られていた城である。

 天正14,15年(1585、86)の島津氏と大友氏の豊薩戦では、唯一落城しなかった要害堅固の城としても有名である。
【写真左】三の丸付近













 文禄2年(1593)には、豊臣秀吉が文禄の役で失態を犯した大友義統(よしむね)を除国し、翌年に日田郡に宮木長次、玖珠郡に毛利高政を入部させた。

 慶長元年(1596)からは毛利高政が、日田・玖珠郡2万石を支配したことが、秀吉の「朱印状」や「黒田家譜」からも知られる。

 今回発掘調査で発見された門跡や、現存する石垣は、この時期に築かれたものと考えられている。従って、この城跡は文禄3年頃、豊後の要の城から、領国支配のための近世城郭へと生まれ変わる時期のものだと見られる。
【写真左】石垣群1
 当城の特徴である石垣群は、その規模の大きさや保存度がよく、特に搦手側といわれるこの個所は一見の価値がある。なお、石積みは穴太積みといわれている。


【写真左】石垣群2
 搦手から水の手郭に向かう坂道のもので、道幅もかなり大きなものだ。




 そして、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封され、一時黒田孝高の預かり地となるが、代わって伊予より来島康親が入部する。

 しかし、来島は14,000石の小大名であり、城を持つことは許されず、現在の三島公園に陣屋を築き、山城は「正保の絵図」(1644)に古城と書かれているように、そのまま放置され、長い歴史の幕を閉じることになる。

 平成5年から町教育委員会により、発掘調査が行われ、本丸に階段状の虎口(出入口)、大手門と搦手門に同じ規模の門跡、また二の丸には礎石建物が発見されている。二つの門には、瓦が葺かれていたと考えられる。
 玖珠町教育委員会、玖珠町文化財調査委員会”
【写真左】二の丸跡
 現地の説明板によると、

 「二の丸跡は、石垣に囲まれた南北に長い郭で標高544mに位置する。郭奥の南側からは東西約10m、南北約7mの礎石建物跡が検出されている。瓦の出土がないから板葺きか茅葺きと考えられる
 とある。


【写真左】本丸の下の脇にある角埋山神社
 現地の説明板より

角埋神社の案内
 角埋山は、昔から霊山として人々の信仰対象の山であった。角埋神社は源為朝を祀る。鎮西八郎と称された為朝は、久寿2年(1155)には、豊後国におり、この角埋にも拠っていたと伝えられている。

 保元の乱に敗れた為朝は、治承元年(1177)(別説に嘉応2年とも)に、伊豆の大島で没したともいうが、この地で逝去したとの説もある(松信の天祖神社縁起)。のちに、山麓の住民は為朝公の威徳を慕って、神像を彫り社殿を建て公の霊を鎮祭した。

 鎌倉時代の作といわれるその神像は、昔火災にあって焼損し、東の岩下に納められている(焼不動さんという)。

 安永8年(1779)に、第6代森藩主・久留嶋信濃守通祐は、新たに神像を彫刻させ(右足の六指は為朝故事という)、社殿を再建し、祭典、修理等は藩が行い、森村産土神社(鬼丸にあった妙見宮で、明治5年に末廣神社に合祀)大宮司が兼勤奉仕していた。

 江戸時代には藩主の館は今の三島公園にあり、戦国時代に島津藩の猛攻に耐えて、その名を挙げた角牟礼城は廃城となっていた。

 藩では角埋山に巡監をつけて、人々の立ち入りを禁じていたが、3月3日(旧暦)は、祭日として参拝を許していたということである。

 桃の節句の不動さんのお祭りは、今では4月の第1日曜日に毎年行われている。なお、現在の社殿は昭和37年に、老朽化のために再建されたものであり、平成3年の19号台風で、境内の樹齢数百年の大杉が倒れ、社殿の一部が破損、物置が全壊した。
平成4年4月吉日 埋神社”
【写真左】本丸跡その1
 大きさはおよそ40m四方あり、中央に小さな築山が築かれ標識が立っている。




【写真左】本丸跡その2
 角牟礼城の遺構も見ごたえがあるが、本丸に立って眺める周囲の景観もまた満足させるものがある。









 この日は少しかすんでいるものの、数枚余分に撮影したものがあるので、次稿はそうしたものを中心に紹介したい。

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