秋月城(あきづきじょう)
●所在地 福岡県朝倉市秋月野鳥(秋月中学校)
●登城日 2008年12月3日
●形態 平山城(館跡)
●築城期 寛永元年(1624)
●築城者 黒田長興
◆解説(参考文献「サイト『城格放浪記』その他)
今回取り上げる秋月城は、山城ではなく、平山城または館・陣跡といわれたところである。
【写真左】秋月中学校
この中学校の敷地となっているところに、遺構として石垣、堀、黒門(後述する垂裕神社の神門で、古処山城の搦手門と伝わる)、長屋門などがある。
現地の説明板より
“秋月という地名は、正暦3年(992)9月20日に筑前国府宛に大宰府が出した官府によると、紀元940年代にこの地が筥崎(はこざき)八幡宮の荘園になったときに、秋月荘と名づけられたようである。
山に囲繞(いじょう)されたこの盆地は、外敵の侵入を防ぐには便利な土地である。従って昔から覇権を狙う者は、根拠地とした。遠くは、神功皇后が古処山に拠った羽白熊鷲を討たれた。下っては鎌倉幕府の2代将軍・源頼家が、原田種雄に建仁3年(1201)に秋月荘を贈ったので、種雄は秋月と称し、古処山城を中核に覇を張り、16代・385年間、天正15年の豊臣秀吉の九州征伐まで、盛衰の歴史を繰り返した。
ここの地名は俗に「梅園」という。黒田長政の死後、その三男・長興が5万石貰って分封され、秋月藩主となった。ときに元和9年(1623)のことである。以来、廃藩置県まで12代・246年間、黒田氏はここの館に住んでいたのである”
【写真左】石橋
写真の橋を渡った個所から先が現在の秋月中学校となっている。堀の遺構は江戸期の状態を保っている。
説明板の中にある、筥崎八幡宮は、現在の福岡市東区箱崎にある日本三大八幡大社「筥崎宮」のことで、秋月荘という地名で同社の荘園になった紀元940年代は、天慶年間である。特に天慶3年(940)には、日本史の中で武士の先駆けとなった「平将門」が、平貞盛・藤原秀郷らによって討死する時期でもある。
なお、建仁2年、初代・秋月種雄氏の拠った古処山城は、この秋月城より約4キロほど北東部にある古処山(859m)にあり、天正年間まではこの山城を本拠としていた。残念ながらこの時は、この古処山城には登城していない。
幸い、サイト『城郭放浪記』さんが、2008年8月に当城に登城し、詳細な遺構写真を報告されているので、御覧頂きたい。
【写真左】秋月城長屋門
この門については、説明板より転載する。
“この門は、秋月藩主・黒田家の居城である秋月城の裏手門として使用されていたものである。老朽化に伴い、昭和62年から3年間、保存修復工事および発掘調査を実施した。
その結果、北棟のさらに北側に古い礎石が発見され、原形に近い形(北6間、南7間)での復元がなされた。
秋月城内で唯一現地に残る建物であり、秋月城の面影をもっともよく伝えている。
【写真左】梅園付近の紅葉
『梅園(うめぞの)』
長屋門を抜けると、梅園又は梅屋敷と呼ばれる館跡がある。これは藩主黒田氏の館跡で、秋月中学校内の表御殿と、一段高くなっている梅園側の奥御殿とに分けられていた。
この奥座敷には、発掘調査の結果、礎石や水路、井戸、厠などが残っており、明治維新当時の絵図画とほぼ一致することが確認されている”
【写真左】黒田家職制について
【写真左】垂裕(すいよう)神社本殿
梅園からさらに奥に行き、階段を上ると垂裕神社が祀られている。
現地の縁起より
“ここは、旧筑前の国、秋月である。
当社は、垂裕大明神(秋月黒田藩初代藩主・黒田長興公(1610~1665)を奉祀する。
長興公は、福岡藩祖黒田長政の三男として生まれ、幼年より温厚沈毅にして、英明の誉れ高く、父長政公に愛されていた。
1624年(寛永元年)秋月黒田藩五万石の城主として入府する(公は14歳)。
福岡宗藩と共に肩を並べて諸侯の列に就くことができたのは、長興公の偉大なる人物によるところが大であった。
1638年(寛永15年)島原の乱に際しては、(公は時に28歳)、幕命に従って諸藩とともに出陣、原城本丸攻略などに大きく戦功をあげた。
1859年(安政6年)東陽院殿(長興公)の200年祭典挙行にあたり、時の10代藩主・長元公(土佐山内家より養子)は、藩祖を祭神と仰ぎ、永く敬神酬恩し奉らんと勧請し、神号垂裕大明神を授賜された。
1873年(明治6年)この神社造営にあたっては、台地を開き道を造り、旧御館裏の空谷杉や、入府当時に植樹した大余の老松が用いられた。又、坂道の石段は士族の老若男女が総出でつくった故に、士族坂と呼ばれている。爾来、祭神の英明にあやからんと遠近から参拝者が多く、崇拝の社となっている。
時が移りて1947年(昭和22年)歴代藩主、島原の乱以降の秋月の乱、佐賀の乱、熊本神風連の乱、福岡の乱、西南戦争などに没した志士、国家のために忠誠をつくし殉崋なされし日清戦争、日露戦争、大東亜戦争などの戦没者、秋月町財政の功労者などの御霊が合祀される。
参道の黒門は、秋月氏時代(1203~1587)の古処山城の搦手門であったものを、長興公の秋月城築城の際に大手門とし、明治になって現在地に移されたものである(県指定文化財)
1999年10月
垂裕神社維持委員会”
●所在地 福岡県朝倉市秋月野鳥(秋月中学校)
●登城日 2008年12月3日
●形態 平山城(館跡)
●築城期 寛永元年(1624)
●築城者 黒田長興
◆解説(参考文献「サイト『城格放浪記』その他)
今回取り上げる秋月城は、山城ではなく、平山城または館・陣跡といわれたところである。
【写真左】秋月中学校
この中学校の敷地となっているところに、遺構として石垣、堀、黒門(後述する垂裕神社の神門で、古処山城の搦手門と伝わる)、長屋門などがある。
現地の説明板より
“秋月という地名は、正暦3年(992)9月20日に筑前国府宛に大宰府が出した官府によると、紀元940年代にこの地が筥崎(はこざき)八幡宮の荘園になったときに、秋月荘と名づけられたようである。
山に囲繞(いじょう)されたこの盆地は、外敵の侵入を防ぐには便利な土地である。従って昔から覇権を狙う者は、根拠地とした。遠くは、神功皇后が古処山に拠った羽白熊鷲を討たれた。下っては鎌倉幕府の2代将軍・源頼家が、原田種雄に建仁3年(1201)に秋月荘を贈ったので、種雄は秋月と称し、古処山城を中核に覇を張り、16代・385年間、天正15年の豊臣秀吉の九州征伐まで、盛衰の歴史を繰り返した。
ここの地名は俗に「梅園」という。黒田長政の死後、その三男・長興が5万石貰って分封され、秋月藩主となった。ときに元和9年(1623)のことである。以来、廃藩置県まで12代・246年間、黒田氏はここの館に住んでいたのである”
【写真左】石橋
写真の橋を渡った個所から先が現在の秋月中学校となっている。堀の遺構は江戸期の状態を保っている。
説明板の中にある、筥崎八幡宮は、現在の福岡市東区箱崎にある日本三大八幡大社「筥崎宮」のことで、秋月荘という地名で同社の荘園になった紀元940年代は、天慶年間である。特に天慶3年(940)には、日本史の中で武士の先駆けとなった「平将門」が、平貞盛・藤原秀郷らによって討死する時期でもある。
なお、建仁2年、初代・秋月種雄氏の拠った古処山城は、この秋月城より約4キロほど北東部にある古処山(859m)にあり、天正年間まではこの山城を本拠としていた。残念ながらこの時は、この古処山城には登城していない。
幸い、サイト『城郭放浪記』さんが、2008年8月に当城に登城し、詳細な遺構写真を報告されているので、御覧頂きたい。
【写真左】秋月城長屋門
この門については、説明板より転載する。
“この門は、秋月藩主・黒田家の居城である秋月城の裏手門として使用されていたものである。老朽化に伴い、昭和62年から3年間、保存修復工事および発掘調査を実施した。
その結果、北棟のさらに北側に古い礎石が発見され、原形に近い形(北6間、南7間)での復元がなされた。
秋月城内で唯一現地に残る建物であり、秋月城の面影をもっともよく伝えている。
【写真左】梅園付近の紅葉
『梅園(うめぞの)』
長屋門を抜けると、梅園又は梅屋敷と呼ばれる館跡がある。これは藩主黒田氏の館跡で、秋月中学校内の表御殿と、一段高くなっている梅園側の奥御殿とに分けられていた。
この奥座敷には、発掘調査の結果、礎石や水路、井戸、厠などが残っており、明治維新当時の絵図画とほぼ一致することが確認されている”
【写真左】黒田家職制について
【写真左】垂裕(すいよう)神社本殿
梅園からさらに奥に行き、階段を上ると垂裕神社が祀られている。
現地の縁起より
“ここは、旧筑前の国、秋月である。
当社は、垂裕大明神(秋月黒田藩初代藩主・黒田長興公(1610~1665)を奉祀する。
長興公は、福岡藩祖黒田長政の三男として生まれ、幼年より温厚沈毅にして、英明の誉れ高く、父長政公に愛されていた。
1624年(寛永元年)秋月黒田藩五万石の城主として入府する(公は14歳)。
福岡宗藩と共に肩を並べて諸侯の列に就くことができたのは、長興公の偉大なる人物によるところが大であった。
1638年(寛永15年)島原の乱に際しては、(公は時に28歳)、幕命に従って諸藩とともに出陣、原城本丸攻略などに大きく戦功をあげた。
1859年(安政6年)東陽院殿(長興公)の200年祭典挙行にあたり、時の10代藩主・長元公(土佐山内家より養子)は、藩祖を祭神と仰ぎ、永く敬神酬恩し奉らんと勧請し、神号垂裕大明神を授賜された。
1873年(明治6年)この神社造営にあたっては、台地を開き道を造り、旧御館裏の空谷杉や、入府当時に植樹した大余の老松が用いられた。又、坂道の石段は士族の老若男女が総出でつくった故に、士族坂と呼ばれている。爾来、祭神の英明にあやからんと遠近から参拝者が多く、崇拝の社となっている。
時が移りて1947年(昭和22年)歴代藩主、島原の乱以降の秋月の乱、佐賀の乱、熊本神風連の乱、福岡の乱、西南戦争などに没した志士、国家のために忠誠をつくし殉崋なされし日清戦争、日露戦争、大東亜戦争などの戦没者、秋月町財政の功労者などの御霊が合祀される。
参道の黒門は、秋月氏時代(1203~1587)の古処山城の搦手門であったものを、長興公の秋月城築城の際に大手門とし、明治になって現在地に移されたものである(県指定文化財)
1999年10月
垂裕神社維持委員会”
0 件のコメント:
コメントを投稿