中津城(なかつじょう)
●所在地 大分県中津市二ノ丁●登城日 2005年10月10日
●形式 平城
●指定 市指定史跡
●築城期 天正16年(1588)
●築城者 黒田如水(孝高/官兵衛)
●備考 日本三大水城の一つ
●遺構 石垣・堀
◆解説
中津城に訪れたのは、5年前の2005年10月で、今のように山城を目的とした探訪ではなく、このころは、国東半島の六郷満山や耶馬渓の雰囲気や景色を堪能するためだった。そのため、この時撮った中津城の写真は、ついでに訪れたような気分だったので、枚数も2,3枚程度しか撮っていない。
【写真左】中津城その1
五重五階の天守と二重櫓(南東隅櫓跡)がある。
現在の中津城天守閣などは、模擬天守で、しかも当時実際に天守があったかどうかも不明とのことらしい。
昭和39年(1964)に現在の模擬天守が鉄筋コンクリートで造られている。当然歴史的建造物とは言えないが、当地に城を築いたというモニュメント効果はあっただろうと思われる。
【写真左】中津城前の広場
駐車場も兼ねた広場で、周辺には奥平神社などがある。
管理人にとって興味があるのは築城者であった黒田如水(孝高)である。特に秀吉の懐刀・軍師として有名だが、一方では藤堂高虎と同じく築城の名手でもあったという。
秀吉の天下取りに最大の知力と助言を与えたにも拘わらず、その代価としての報償は余りにも低いものだった。
秀吉が彼の非凡な才能に恐れていたためともいわれるが、あえてそれに甘んじ続けた如水の本意はよくわからないものの、遺訓を目にすれば、なんとなく彼の独立した精神世界が垣間見られる。曰く
“人に媚びず、富貴を望まず”
◆ところで、この中津城は現在売却する計画があるという。享保2年(1717)に入封し、明治維新まで続いた奥平氏の子孫が、それまで管理運営してきたが、入場者の激減により維持費の確保が困難となり、これ以上赤字経営を続けることが困難だというのが理由らしい。
【写真左】中津城その2
この場所から近くには福沢諭吉旧居・記念館もある。
また、このときは訪れていないが、中津城から東南500mほどいくと、合元寺がある。
この寺は通称「赤壁」と呼ばれ、如水が播磨からこの地に入封するとき、彼に従ってやってきた浄土宗西山派開山空上人が開いた寺である。
如水が天正17年に、前領主だった宇都宮氏との抗争を繰り広げた寺で、戦の際同寺の門前白壁に血痕が残り、度々塗り替えても赤い血の色が出てくるため、最後は赤色に塗り替えたという言い伝えがある。
地方の城郭で、民間業者が所有・運営しているところがどの程度あるのかわからないが、中津城に限らず、そうした状況は、おそらく同じような悩みと問題を抱えているのかもしれない。
そうした場合、一番いい方法は、地元自治体が代わってやるのが理想だが、今のように、自治体そのものが逆に民間に払い下げたり、指定管理などというような方向へ持っていく御時世なので、なかなかコトは簡単にはいかない。
◎関連投稿
中津城・城井神社(大分県中津市二ノ丁)
馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)
合元寺(大分県中津市寺町973)
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●築城期 天正16年(1588)
●築城者 黒田如水(孝高/官兵衛)
●備考 日本三大水城の一つ
●遺構 石垣・堀
◆解説
中津城に訪れたのは、5年前の2005年10月で、今のように山城を目的とした探訪ではなく、このころは、国東半島の六郷満山や耶馬渓の雰囲気や景色を堪能するためだった。そのため、この時撮った中津城の写真は、ついでに訪れたような気分だったので、枚数も2,3枚程度しか撮っていない。
【写真左】中津城その1
五重五階の天守と二重櫓(南東隅櫓跡)がある。
現在の中津城天守閣などは、模擬天守で、しかも当時実際に天守があったかどうかも不明とのことらしい。
昭和39年(1964)に現在の模擬天守が鉄筋コンクリートで造られている。当然歴史的建造物とは言えないが、当地に城を築いたというモニュメント効果はあっただろうと思われる。
【写真左】中津城前の広場
駐車場も兼ねた広場で、周辺には奥平神社などがある。
管理人にとって興味があるのは築城者であった黒田如水(孝高)である。特に秀吉の懐刀・軍師として有名だが、一方では藤堂高虎と同じく築城の名手でもあったという。
秀吉の天下取りに最大の知力と助言を与えたにも拘わらず、その代価としての報償は余りにも低いものだった。
秀吉が彼の非凡な才能に恐れていたためともいわれるが、あえてそれに甘んじ続けた如水の本意はよくわからないものの、遺訓を目にすれば、なんとなく彼の独立した精神世界が垣間見られる。曰く
“人に媚びず、富貴を望まず”
◆ところで、この中津城は現在売却する計画があるという。享保2年(1717)に入封し、明治維新まで続いた奥平氏の子孫が、それまで管理運営してきたが、入場者の激減により維持費の確保が困難となり、これ以上赤字経営を続けることが困難だというのが理由らしい。
【写真左】中津城その2
この場所から近くには福沢諭吉旧居・記念館もある。
また、このときは訪れていないが、中津城から東南500mほどいくと、合元寺がある。
この寺は通称「赤壁」と呼ばれ、如水が播磨からこの地に入封するとき、彼に従ってやってきた浄土宗西山派開山空上人が開いた寺である。
如水が天正17年に、前領主だった宇都宮氏との抗争を繰り広げた寺で、戦の際同寺の門前白壁に血痕が残り、度々塗り替えても赤い血の色が出てくるため、最後は赤色に塗り替えたという言い伝えがある。
地方の城郭で、民間業者が所有・運営しているところがどの程度あるのかわからないが、中津城に限らず、そうした状況は、おそらく同じような悩みと問題を抱えているのかもしれない。
そうした場合、一番いい方法は、地元自治体が代わってやるのが理想だが、今のように、自治体そのものが逆に民間に払い下げたり、指定管理などというような方向へ持っていく御時世なので、なかなかコトは簡単にはいかない。
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