萩城(はぎじょう)
●所在地 山口県萩市堀内
●登城日 2008年11月21日
●別名 指月城
●形式 平山城/海城
●築城期 慶長9~13年(1604~08)
●築城者 毛利輝元
●遺構 石垣、土塁、堀
●指定 国指定史跡
◆解説(参考文献「日本城郭大系 14」等)
萩市は萩城を中心とした城下町として、山陰でも指折りの観光地となっている。築城期は江戸期に入ってから造られているので、中世山城ではない。しかし、麓の平城と、指月山山頂に詰の丸が構築されているので、他の天守閣を持った近世城郭とは少し形態・形状が違うということになる。
【写真左】萩城 指月公園案内図
毛利輝元が当地に入部する前は、石見(島根)津和野城主だった吉見正頼が晩年、この地を隠棲としていたようで、その頃は吉見氏の廟所と指月山善福寺があったという。
築城当時の概要は次の通りとなっている。
《構成》
●本丸(天守閣)
東西約200m×南北約145m、天守(五層)高さ14.5m、当該石垣高さ11m、郭塀回り528m、
●郭内
藩主邸宅、諸役所、櫓5カ所(西丸門櫓、本丸門櫓、月見櫓、台所門櫓、井上門櫓)、井戸12カ所
●二の丸
東西約278m×南北約106m、櫓13か所(北門櫓、山中櫓、三摩地院櫓、荒川櫓、紙櫓、三階櫓、時打櫓、塩櫓、青貝櫓、革櫓、妙玖寺櫓、潮入門櫓、東門枡形櫓)、井戸34カ所
【写真左】萩城水堀その1
●三の丸
東西981m×南北655m、総門3カ所(北・中・平安古):堀内
●詰丸
指月山山頂、本丸東西44m×南北36m、二の丸東西35m×南北36m、本丸・二の丸併せて土塀約288m、櫓5カ所、および2階櫓2カ所。
関ヶ原の合戦に敗れた輝元は、それまでの領地であった中国8カ国・112万石を没収され、改めて家康から、防長2カ国・36万9,411石を封ぜられた。
慶長8年、この防長2カ国の中から、新しく築城候補地を選定する。候補地としては、以前取り上げた山口の高嶺と、防府の桑山、そしてこの萩の指月山の3カ所が選ばれた。これをもとに幕府老中本多佐渡守正信、同上野守正純父子に伺いを立てる。その結果、当地萩が正式に通知された。
【写真左】萩城水堀
五郎太石事件
「日本城郭大系 14巻」によると、築城の始まった翌年(慶長10年:1605)、石垣の材料である石の盗石事件が起こった。
事件の元となった石とは、熊谷元直の担当箇所(二の丸東門入口北部)で、松の木の下に積んでおいた五郎太石(拳大の石)2,100余荷が、何者かに盗まれた。
熊谷一族の天野元信が捕まえた犯人は、益田元祥配下の人夫であった。このことから益田側に盗んだ石を戻す、あるいは償うようにと要求したが、益田家臣の栗山は、盗んだ1日分は償うが、その前に盗んだものは自分たちではないといい、対立が生じた。
このため築城作業は遅延し始め、しかもその頃は徳川秀忠が2代将軍に補任されるため、輝元は上洛する日程が迫っていた。輝元は処置を益田父子(玄蕃頭元祥とその子・修理亮景祥)に託し、4月2日に萩を発った。
【写真左】本丸跡その1
熊谷元直始め一族は繁栄し、毛利家家臣として忠節を励んだが、黒田如水との知遇を得た時、キリスト教に入信し、しかも心驕ることが多く、輝元の意に反することもあった。
7月2日、萩に帰ると輝元は兵を遣って一族(熊谷・天野・三輪・中原)の家を囲み、誅伐を加えた。このころ熊谷氏以外にも、キリスト教に入信していたものがいたらしく、輝元としてはこの機を待っていたとも考えられる。
なお、2007年ローマ教皇庁が、17世紀前半に江戸幕府の追害によって殉教した日本人カトリック信徒188人に対して、複者の敬称を与えるとし、現在の教皇ベネディクト16世が正式承認している。
【写真左】本丸跡その2
【写真左】詰丸のあった指月山遠望
登城路があるが、この日は時間がなく登城は断念した。
【写真左】奥の方にある志都岐山神社
毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳を五柱とし、初代から12代までの萩藩主を祀る。
●所在地 山口県萩市堀内
●登城日 2008年11月21日
●別名 指月城
●形式 平山城/海城
●築城期 慶長9~13年(1604~08)
●築城者 毛利輝元
●遺構 石垣、土塁、堀
●指定 国指定史跡
◆解説(参考文献「日本城郭大系 14」等)
萩市は萩城を中心とした城下町として、山陰でも指折りの観光地となっている。築城期は江戸期に入ってから造られているので、中世山城ではない。しかし、麓の平城と、指月山山頂に詰の丸が構築されているので、他の天守閣を持った近世城郭とは少し形態・形状が違うということになる。
【写真左】萩城 指月公園案内図
毛利輝元が当地に入部する前は、石見(島根)津和野城主だった吉見正頼が晩年、この地を隠棲としていたようで、その頃は吉見氏の廟所と指月山善福寺があったという。
築城当時の概要は次の通りとなっている。
《構成》
●本丸(天守閣)
東西約200m×南北約145m、天守(五層)高さ14.5m、当該石垣高さ11m、郭塀回り528m、
●郭内
藩主邸宅、諸役所、櫓5カ所(西丸門櫓、本丸門櫓、月見櫓、台所門櫓、井上門櫓)、井戸12カ所
●二の丸
東西約278m×南北約106m、櫓13か所(北門櫓、山中櫓、三摩地院櫓、荒川櫓、紙櫓、三階櫓、時打櫓、塩櫓、青貝櫓、革櫓、妙玖寺櫓、潮入門櫓、東門枡形櫓)、井戸34カ所
【写真左】萩城水堀その1
●三の丸
東西981m×南北655m、総門3カ所(北・中・平安古):堀内
●詰丸
指月山山頂、本丸東西44m×南北36m、二の丸東西35m×南北36m、本丸・二の丸併せて土塀約288m、櫓5カ所、および2階櫓2カ所。
関ヶ原の合戦に敗れた輝元は、それまでの領地であった中国8カ国・112万石を没収され、改めて家康から、防長2カ国・36万9,411石を封ぜられた。
慶長8年、この防長2カ国の中から、新しく築城候補地を選定する。候補地としては、以前取り上げた山口の高嶺と、防府の桑山、そしてこの萩の指月山の3カ所が選ばれた。これをもとに幕府老中本多佐渡守正信、同上野守正純父子に伺いを立てる。その結果、当地萩が正式に通知された。
【写真左】萩城水堀
五郎太石事件
「日本城郭大系 14巻」によると、築城の始まった翌年(慶長10年:1605)、石垣の材料である石の盗石事件が起こった。
事件の元となった石とは、熊谷元直の担当箇所(二の丸東門入口北部)で、松の木の下に積んでおいた五郎太石(拳大の石)2,100余荷が、何者かに盗まれた。
熊谷一族の天野元信が捕まえた犯人は、益田元祥配下の人夫であった。このことから益田側に盗んだ石を戻す、あるいは償うようにと要求したが、益田家臣の栗山は、盗んだ1日分は償うが、その前に盗んだものは自分たちではないといい、対立が生じた。
このため築城作業は遅延し始め、しかもその頃は徳川秀忠が2代将軍に補任されるため、輝元は上洛する日程が迫っていた。輝元は処置を益田父子(玄蕃頭元祥とその子・修理亮景祥)に託し、4月2日に萩を発った。
【写真左】本丸跡その1
熊谷元直始め一族は繁栄し、毛利家家臣として忠節を励んだが、黒田如水との知遇を得た時、キリスト教に入信し、しかも心驕ることが多く、輝元の意に反することもあった。
7月2日、萩に帰ると輝元は兵を遣って一族(熊谷・天野・三輪・中原)の家を囲み、誅伐を加えた。このころ熊谷氏以外にも、キリスト教に入信していたものがいたらしく、輝元としてはこの機を待っていたとも考えられる。
なお、2007年ローマ教皇庁が、17世紀前半に江戸幕府の追害によって殉教した日本人カトリック信徒188人に対して、複者の敬称を与えるとし、現在の教皇ベネディクト16世が正式承認している。
【写真左】本丸跡その2
【写真左】詰丸のあった指月山遠望
登城路があるが、この日は時間がなく登城は断念した。
【写真左】奥の方にある志都岐山神社
毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳を五柱とし、初代から12代までの萩藩主を祀る。
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