2010年3月19日金曜日

周防・若山城(山口県周防市福川)

周防・若山城(すおう・わかやまじょう)

●所在地 山口県周防市福川
●登城日 2008年4月11日
●築城期 文明年間(1470年代)
●別名 富田若山城
●標高 217m
●形式 山城
●城主 陶氏
●遺構 本丸・西の丸・蔵屋敷・空堀・石垣他

◆解説(参考文献「『日本城郭大系14 鳥取・島根・山口の城郭』新人物往来社」「益田市誌」その他)
【写真左】登城口に入る道に設置された案内板












 若山城の所在地は、以前、新南陽市といっていたところで、2003年に合併し現在の周南市となっている。

 山陽自動車道福川付近の北方300m付近にある山城で、地元では手軽なハイキングコースとしても利用されている。平成16年に日本ウォーキング協会という団体から「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に認定されたという。

 現地の二の丸・三の丸跡付近まで車で行くことができ、駐車場も完備されている。この日(2008年4月11日)訪れた時もかなりの人が登ってきており、ちょうど桜が咲き始め、眼下には周防灘が望めることから、ピークには賑やかな場所となるようだ。


【写真左】二の丸・三の丸跡
 現在駐車場となっているところで、遺構は大分消滅している。







 当城の概略については、現地に「陶の道を発展させる会」という団体が設置した詳細な説明板があるので、下記に転載しておく。


若山城悠久の歴史

 陶氏と若山城
 陶氏は、1350~1557年までこの地方を治め、若山城築城は1470年。
 9代目城主・陶晴賢が1555年10月1日、毛利元就との厳島合戦に敗れ、事実上滅亡する。
若山城での主な戦い。
  • 1551年8月 陶晴賢が主君・大内義隆打倒に蜂起
  • 1555年10月 杉重輔兄弟らが襲撃
  • 1557年2月 毛利元就の防長侵攻
それからの若山城
  • 昭和43年 福川青年団による新春登山および若山城公園化事業
  • 昭和48年 登山道開設
  • 昭和62年 若山城が山口県指定史跡を受け、保存協議会設立
  • 昭和63年 「全国の桜」を植樹


【写真左】若山城跡見取り図
 全体に東西に長く設置されている。


 中央部が本丸跡。右側の曲線が車で登ることのできる道で、右下の二の丸・三の丸が駐車場となっている。



  • 平成2年 「蘇れ若山城!防長の三武将(大内・陶・毛利)物語」、ジャンボ紙芝居の創作
  • 平成3年 NHK大河ドラマ誘致運動(若山城サミット開催)
  • 平成4年 三武将行列および合戦を町中の寺社で再現
  • 平成6年 城門および俳句碑設置
  • 平成8年 第1回「陶の道ウォーク」
  • 平成9年 大河ドラマ「毛利元就」が放映(35話で若山城が出る)
  • 平成12年 若山一夜城の築城
  • 平成16年 「陶の道・若山城登城のみち」を日本ウォーキング協会が「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に認定
  • 平成17年 陶晴賢公450年忌(復権祭)
  • 平成19年 若山城跡顕彰碑建立

陶の道を発展させる会”
【写真左】壇床(だんどこ)と呼ばれる場所
 この説明板の下段には「海からの攻撃を防いだ」とあるから、当時はこの麓まで海岸が迫っていたものと思われる。階段状に設置した形状なので、幅の狭い帯曲輪を何十段にも構築したものだろう。


 同じく、現地に当城の概要を示した説明板があるので、転載しておく。

“山口県指定 
 史跡 若山城
 昭和62年3月27日指定
周南市 大字夜市、大字福川

 若山城は、大内氏の重臣・陶氏の本城で、文明2年(1470)頃、陶弘護が石州津和野(現島根県)の吉見氏の侵攻に備えて築城したものと考えられています。

 この城は、連郭式城郭と呼ばれる中世山城の典型的特徴を示し、中心をなす本丸のほか、東西に伸びる尾根上を利用した郭や空堀、竪堀、壇床などの遺構がよく残されています。

 特に、本丸の北側斜面から東にかけて残る大規模な畝状空堀群(竪堀)は、中世城郭の遺構をよくとどめており、全国的にも極めて貴重なものです。
 山口県教育委員会 周南市教育委員会 昭和63年1月31日”
【写真左】本丸に向かう途中に設置されている鳥居
 刻銘を見ると明治33年とある。


 若山城は本丸・二の丸・三の丸と西の丸からなり、本丸は最も高い東部山頂にあり、西の丸は本丸の西部の山頂にある。

 本丸は東西34m余×南北20m余、面積500㎡とあり、二の丸は1a、三の丸198㎡(ただし現在駐車場)。西の丸は東西40m×南北15m、このほかに大小の郭が多数点在している。

 築城者である陶弘護陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)参照)は、弘房の長子である。応仁元年(1467)応仁の乱が勃発すると、西軍の山名持豊(後の宗全)に応じて大内政弘筑前・岡城(福岡県遠賀郡岡垣町吉木字矢口)参照)が山口を発つ時、父弘房も同行。弘護は幼年ながら周防の留守を預かった。


【写真左】本丸跡に立つ多くの石碑
 本丸は説明にあるように、さほど大きなものではない。

 現地にはいろいろな石碑や記念碑などが設置されているが、ここまで多くのものが建立されていると、少し、くどい感がしないでもない。もう少し整理してもいいのではないだろうか。



 翌応仁2年、11月弘房は京都の営中で急死。このころ大内政弘の伯父である大内教幸(道頓)が東軍細川勝元の誘いに応じて、応仁元年2月、赤間関で兵を挙げた(大内道頓の乱)。

 しかし、文明2年(1470)12月、周防国玖珂郡鞍掛山城(山口県岩国市玖珂町字谷津)において陶弘護に破られ、道頓は津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原)主・吉見信頼のもとに身を寄せた。

 この後文明3年に吉見信頼は、長州阿武郡嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)に進軍したが、ここでも弘護が防戦した。同年12月、大内教幸の軍を遂に破り、教幸逃れて豊前へ走る。弘護追走し、教幸は遂に馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)で自害した。
【写真左】西の丸跡
 規模としては西の丸の方が本丸より大きい。
 先ほどの多くの記念石碑を少しこちらに移してもいいと思うのだが…





 その後幾多の合戦を経たのち、文明10年吉見信頼は罪を謝し、大内政弘に和を請いこれを許された。

 しかし、その4年後の文明14年(1482)5月27日、山口築山館で大内政弘が催した宴において、吉見信頼は、突然同席していた陶弘護を刺殺し、信頼もすぐに内藤弘矩に討ち果たされた。一説には、大内政弘が計画したものといわれているが、真意のほどは分からない。
【写真左】西の丸付近から南方の周防灘を見る
 前方に見える島は黒髪島や仙島など。その手前は工場地帯だが、ほとんど埋め立てによる人工島なので、当時は件の2島や大津島だけが見えたものと思われる。
【写真左】蔵屋敷跡
 西の丸からさらに西に向かうと「蔵屋敷跡」がある。本丸の管理に比べると、余りの野放図状態で
びっくりする。



 倒木・枯木がそのままで、とても中に侵入することが不可能である。


 せっかく西の丸まで整備されているので、この蔵屋敷跡も当城の貴重な遺構として保存管理してもらいたいと思うのは管理人だけではないはずだ。



◎関連投稿
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