2010年3月10日水曜日

杵築城(大分県杵築市杵築)

杵築城(きつきじょう)

●所在地 大分県杵築市杵築
●登城日 2008年12月4日
●築城期 明徳4年(1393)
●築城者 木附頼直
●城主 木附氏、前田氏、杉原氏、細川氏、小笠原氏、松平氏等
●別名 木付城、勝山城、臥牛城
●形式 平城(海城)、模擬天守

◆解説
 大分県別府湾の北部で、国東半島の南部に位置する杵築市の守江湾を望む位置に築城されている。現在は模擬天守となっているが、築城当初はおそらく海城として、砦形式のものであったと思われる。
【写真左】杵築城配置図
 上が北を示す。なお、この図は江戸期のもので、現在は天守東部、北部は干陸化され市街地となっている。




●現地の説明板より

杵築(木付)城について
 建長2年(1250)、大友親秀の六男・親重は、豊後国速見郡武者所として、八坂郷木付荘に封ぜられ、地名の木付を氏とし、竹ノ尾の高台に築城し、竹ノ尾城にいった。
 木付氏4代頼直のとき、城を現在地の城山に移築、応永元年(1394)9月竣工、木付城と名づけた。

 木付城を別の名を、台山城、臥牛城また勝山城とも呼ばれるが、台山とは八坂川、高山川の合流地点に突出した台地に由来し、臥牛は、台山の地形が牛の寝た姿に似ていることによる。勝山城のいわれは、木付16代鎮直の時代、島津義弘軍の攻撃を受けたが、天正15年(1587)2月、これを撃退勝利をおさめた武功にあやかるものである。
【写真左】杵築城遠望
 杵築城の北東部(パチンコ店)駐車場からみたもの。








 さて、文禄2年(1593)、木付氏滅亡後、藩主の交代相次ぎ、正保2年(1645)、松平英親が転封されてより、明治に至るまで松平氏の治藩下に栄えた。

 杵築の地名は、正徳2年(1712)8月、徳川6代将軍家宣下賜の朱印状に木付の文字が杵築と書かれたことによる。”



 杵築という文字が使われたのは、当城主松平(能見家)3代・重休(しげやす) (1691~1715)の時代で、 幕府の伺いをたてたのち、承認され杵築とされている。杵築という名が最も知られているのは、出雲大社(島根)の旧名である「杵築大社」であり、明治4年までこの名が使われている。

 「杵築」の語源は、「…を築く、あるいは建てる」というようなところからきているらしいが、豊後木付の漢字にこれが充てられたのは、たぶんに出雲杵築大社の名前も参考になっているかもしれない。
【写真左】杵築城入口の門








 なお、初代木付(大友)頼直が建てたといわれる竹ノ尾城は、現在若宮神社となっているところで、杵築城の北側を流れる高山川を2キロ余り登った宮司地区にある。ここは探訪していないが、『城格放浪記』さんのサイトで紹介されているので、御覧頂きたい。

【写真左】城内に安置された多数の古墓
 城内には写真にあるような多くの古墓が安置されている。

 木附氏、松平氏など杵築城に関わった武将の墓で、五輪塔形式のものや、宝篋印塔形式のものなどが整然と配置されている。

 これらのほとんどは、近在に分散していたものらしく、のちに当地にまとめられたものという。

 城郭内にこうした形でまとめられたケースは、意外と少ない。多くは菩提寺や祈願所などそれぞれに設置されているケースの方が多い。

【写真左】天守真下から見上げる
 模擬天守で、しかもRC造りで小ぶりな建物である。建物内には展示品が収められており、博物館のような内容だ。

 主な展示品としては、杵築藩主松平氏の具足・陣羽織をはじめとし、石田三成の兄・石田正澄が着用した兜がある。

 石田正澄は、関ヶ原の戦いにおいて、弟三成と同じく西軍として参加。佐和山城で小早川秀秋の攻撃を受け、父正継とともに当城で自害している。
 なぜ、彼の兜がここにあるのか 展示室に経緯が書いてあったかもしれないが、残念ながらメモをとっていなかったため、分からない。

【写真左】天守付近から西南方面を見る
 杵築城が設置されている台地は、写真にみえるような岩山が繋がった地形で、今月紹介した「臼杵城」周辺の地形・地質とよく似ている。


【写真左】天守跡から国東半島を見る。
 写真左方向をさらに進むと、六郷満山といわれる国東半島の山岳信仰のメッカに繋がる。
 



宮本武蔵について

 ところで、当地に宮本武蔵についての説明板があったので、転載しておく。

“宮本武蔵 杵築(木付)に

 慶長17年(1612)、関門海峡に浮かぶ巌流島で、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘を行ったとき、この試合の検分役を務めたのは、細川藩筆頭家老で、杵築(木付)城代の松井興長であった。

 決闘が終わって、門司城代沼田延元のもとにいた武蔵は、佐々木小次郎の門人たちに命を狙われたので、鉄砲組に護衛されて養父無二斎のいる豊後へ送り届けたと沼田日記に記されている。
「二天記」では、松井興長は、無二斎の門人であると記述されており、地元では、武蔵が杵築に来たのではないかと言い伝えられている。

杵築市観光協会”

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