勝山城(かつやまじょう) ・勝山御殿(かつやまごてん)
●所在地 山口県下関市
●探訪日 2009年10月25日
◆勝山御殿
●築城期 元治元年(1864)
●築城者 毛利元周
●遺構 館、石垣
◆勝山城
●別名 且山城
●標高 359m
●築城期 不明(永和年間)
●城主 永富上総介嗣光、相良民部少輔、内藤興盛、内藤隆世等
◆解説(参考文献「サイト:城格放浪記」「日本城郭大系14巻」等)
今稿は、前稿でとりあげた功山寺で義長が自刃する前、内藤隆世を頼った勝山城周辺を取り上げる。
【写真左】勝山三山(青山・勝山・四王司山)登山マップ
功山寺からは直線距離で約3キロほど北に向かった場所で、勝山城の東方にある「四王子山城」、南南西1.5キロにある「青山城」を含めた三山を、勝山三山と呼び、地元では多くの人に親しまれ、ハイキングコースとなっている。呼称の通り、三山とも山城である。
今回探訪したときは、功山寺が目的だったこともあり、時間がなく、これら三山の登城はできず、勝山御殿のみであったが、次回機会があれば、三山を登城してみたい。
幸い、「城格放浪記」さんが、これら三山をすべて登城し、詳細な写真を紹介しているで、御覧頂きたい。
【写真左】勝山御殿
勝山御殿は、ちょうどこれら三山が取り囲むほぼ中央部の麓に建っていた館跡で、建物は消滅しているものの、敷地周辺が整備されている。
幕末期に造られたもので、関門海峡において外国船との交戦が始まり、長府毛利藩主が在城していたそれまでの串﨑城が危険なことから、急遽造られたという。
文久3年(1863)6月28日に起工し、翌年正月に竣工させた。当時の石垣・石畳なども残り、御座の間、大書院室、御寝所などがあったという。
【写真左】勝山城遠望
勝山御殿から全景の勝山城は見られないが、頂部付近は見ることができる。
【写真左】青山城遠望
別名形山、面影山ともいい、形が富士山に似ていることから、「長門富士」ともいった。標高290m。
伝説では昔、青山城と隣の勝山城とが争った時、水利の乏しい青山城が破れ、夥しい屍がさらされた。周辺にそれらの墓が散在し、俗に「青山くずれ」の墓といって、これに触れば祟りがあるといわれ、里人たちはそれを恐れ敬われている。。
【写真左】四王司山城遠望
標高392mの山で、南北朝時代、厚東氏が拠った。
●所在地 山口県下関市
●探訪日 2009年10月25日
◆勝山御殿
●築城期 元治元年(1864)
●築城者 毛利元周
●遺構 館、石垣
◆勝山城
●別名 且山城
●標高 359m
●築城期 不明(永和年間)
●城主 永富上総介嗣光、相良民部少輔、内藤興盛、内藤隆世等
◆解説(参考文献「サイト:城格放浪記」「日本城郭大系14巻」等)
今稿は、前稿でとりあげた功山寺で義長が自刃する前、内藤隆世を頼った勝山城周辺を取り上げる。
【写真左】勝山三山(青山・勝山・四王司山)登山マップ
功山寺からは直線距離で約3キロほど北に向かった場所で、勝山城の東方にある「四王子山城」、南南西1.5キロにある「青山城」を含めた三山を、勝山三山と呼び、地元では多くの人に親しまれ、ハイキングコースとなっている。呼称の通り、三山とも山城である。
今回探訪したときは、功山寺が目的だったこともあり、時間がなく、これら三山の登城はできず、勝山御殿のみであったが、次回機会があれば、三山を登城してみたい。
幸い、「城格放浪記」さんが、これら三山をすべて登城し、詳細な写真を紹介しているで、御覧頂きたい。
【写真左】勝山御殿
勝山御殿は、ちょうどこれら三山が取り囲むほぼ中央部の麓に建っていた館跡で、建物は消滅しているものの、敷地周辺が整備されている。
幕末期に造られたもので、関門海峡において外国船との交戦が始まり、長府毛利藩主が在城していたそれまでの串﨑城が危険なことから、急遽造られたという。
文久3年(1863)6月28日に起工し、翌年正月に竣工させた。当時の石垣・石畳なども残り、御座の間、大書院室、御寝所などがあったという。
【写真左】勝山城遠望
勝山御殿から全景の勝山城は見られないが、頂部付近は見ることができる。
【写真左】青山城遠望
別名形山、面影山ともいい、形が富士山に似ていることから、「長門富士」ともいった。標高290m。
伝説では昔、青山城と隣の勝山城とが争った時、水利の乏しい青山城が破れ、夥しい屍がさらされた。周辺にそれらの墓が散在し、俗に「青山くずれ」の墓といって、これに触れば祟りがあるといわれ、里人たちはそれを恐れ敬われている。。
【写真左】四王司山城遠望
標高392mの山で、南北朝時代、厚東氏が拠った。
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