2010年12月15日水曜日

徳永城跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野中組)

徳永城跡(とくながじょうあと)

●所在地 島根県鹿足郡津和野町中曽野中組
●築城期 弘安5年(1282)
●築城者 吉見氏
●城主 岡氏
●標高 327m
●比高 60m
●遺構 郭 等
●備考 
●探訪日 2010年7月21日

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」等)
 前稿「吉見氏館跡」で触れた冨永八幡宮の東隣りに徳永城がある。
 訪れたこの日(2010年7月21日)は、吉見氏館跡が目的であったことや、時間があまりなかったこともあり、当城については登城していない。

【写真左】徳永城遠望
 本丸は右側の山になるが、左側の峰も城砦の遺構があると思われる。

 現地の簡単な説明板によると、築城期は吉見氏館が創建された時期と同じく、弘安5年(1282)となっている。築城者は吉見氏としているが、当初から吉見氏の一族であった岡氏が拠っていたのではないかと思われる。

 位置的に考えると、吉見氏館のある木園地区に入る手前の場所で、同館を守る番所的位置づけだったと思われる。
 また、もうひとつの役目は当城より北方にある「御嶽城」(同町中山奥ヶ野に所在する標高504mの山城)の支城・砦の役目もあったという。こうしたことから、小規模ながら重要な城砦であった。
【写真左】登城口付近
 整備されている風に見えたが、訪れたのが7月で、夏の真っ最中である。おそらく草丈が伸びて遺構の確認も困難だったと思われる。
 登城しなかったもう一つの理由は、今夏のクマの出没頻度が余りに多いため、断念したからである。

 ところで、この稿では番外編として、この地域に残るもう一つの近世史跡を紹介しておく。

岡 熊臣旧宅
●所在地 同町大字山下字清水前327番地
●指定 津和野町指定文化財

【写真左】岡熊臣旧宅

◆解説
 岡 熊臣(おかくまおみ)は、幕末に活躍した日本の国学者で、この地で生まれている。
 前稿「吉見氏館跡」で紹介した「冨長八幡宮」の神官・岡忠秀の子として生まれている。今稿「徳永城」と、冨永八幡宮とはわずか400mほどしか離れていない。

 徳永城の城主岡氏の一族が、富長八幡宮の神官も当時から務めていたと思われ、近世国学者の岡熊臣もその末孫であったと思われる。

現地の説明板より
“津和野町指定文化財 史跡「岡熊臣 旧宅」
     指定年月日 平成8年12月10日

【建物概要】
 現在の建物は、築後180年、宮大工によるものとされ、各所に特徴のある意匠が見られる。
「我が住む草の庵を桜のやどりとしもいう由は、今は昔おのがよつぎの親なりし治秀真人と聞こえしは、情けある人にて家の巡りに、名だたる桜木ども数多く求め植えられけり…」のとおり、当時は周囲に多くの桜の木が植えられ、文化12年から自宅で開いた塾も「桜陰館」と呼ばれていた。
 建物は、平成7年、岡氏より町へ寄贈され、平成8年12月、町文化財に指定、建物の修復整備が行われ現在に至っている。
【写真左】「桜陰館」の表札

【岡 熊臣 業績】
 岡 熊臣は、天明3年(1783)3月9日、鹿足郡山下村(現津和野町大字山下)で冨永八幡宮の宮司岡忠秀の長男として生まれた。はじめ忠栄、のち熊臣と称し、字は一朗、号には東嶺、桜廼舎などがある。

 本居宣長を師と仰ぎ、宣長の門人千家俊信、村田春門などに師事して国学を学んだ。
 熊臣が生涯に残した著作は、大著『日本書紀私伝』などを含め500巻以上、和歌も数千種に及び、今なお研究者に高く評価されている。また、教育に果たした役割も大きく、多くの先哲を輩出した藩校養老館の初代国学教授として迎えられ、国学を教育の基本に掲げ、学則を制定した。この養老館学則は、館教育の基本方針に留まらず、藩全体の精神的支柱になった。
 嘉永4年(1851)8月6日、津和野町官丁の官邸で68歳の生涯をとじた。
     津和野町教育委員会”

吉見氏居館跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野)

吉見氏居館跡(よしみしきょかんあと)

●所在地 島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野
●築城期 弘安5年(1282)
●築城者 吉見頼行(頼忠)
●標高 260m
●指定 町指定
●登城日 2010年7月21日

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」「島根県遺跡データベース」等)
 石見吉見氏関係では津和野町にある津和野城がもっとも知られているが、吉見氏が最初に石見に住んだ場所としては、今稿で取り上げる「吉見氏居館跡」がある。

【写真左】吉見氏居館跡に建つ碑
 下段の写真にもあるように、不揃いな棚田の奥にある畑地跡に建っているが、木製であるためか、文字も大分かすれている。













 所在地は、津和野城のある津和野の町から北西に伸びる「津和野田万川線(17号線)」を北上し、田尻四本松というところから分岐した津和野須佐線(124号線)にいったん入り、すぐに左(南西)に向かった木曽野(木薗)という山間部にある。
 ちなみにこの谷をさらに登って嘉年坂峠をこえると、長州(山口県)阿武郡に出る。
【写真左】居館跡
 当時の屋敷があったところの規模は約30aだったというから、現在の中規模な田圃一筆程度だったと思われる。
 写真にもあるように、背後は山に囲まれ、進入口である道路は、現在でも狭小な山道である。周辺には2軒程度の民家が建っているのみで、谷そのものも小さい規模だ。
 吉見氏が戦略的に考えて、あえてこうした辺境の地を選んだ理由がわかるような気もする。


 現地の説明板より

“木薗(木曽野)遺跡案内

 木園(木曽野)は、津和野町大字木部の南隅に位置し、中世津和野の歴史発祥の地である。南に鬼瘤山を控え自然の要害をなし、また、鶯の鳴く四季の風情豊かな里でもある。

 今から凡そ700年前、弘安5年(1282)源範頼の後裔吉見三河守頼行は、時の鎌倉幕府から沿海防備の命を受け、石見の守護として300町の地を給わり、一族13人、郎党36人と共に木部郷に入部し、ここ木園に居館をかまえた。

 頼行直ちに家士を地付け、兵士1千余人と共に開拓に着手する一方、鶴岡八幡宮や壷井権現、又処々に祖霊河内社と共に開発の祖を祀り、人心を安んじ、一方御嶽・茶臼・徳永に築城、猪の丸砦を構え、北の防備とした。

 永仁3年(1295)、津和野城築城縄張り、正中元年(1324)、2代直頼これを成就し居を津和野へと移した。その後も木園は祖霊を祀る地として大切にされた。


主な遺跡は次の通りである。
1、御所屋敷跡
  吉見頼行の邸跡で、今は水田となっている。

2、吉見の池
  吉見家の飲料水に利用したといわれ、池森家では後長く毎年元旦の若水として津和野の城へ献上したという。

3、鞭柳の碑
  10代城主隆頼公、山口へ参向の際、祖廟頼義社に詣で、その時柳の鞭の枝を土手に差し置き、生き継いだので鞭柳と名づけられた。数首の和歌が刻まれている。

4、頼義社(木園神社)
  源氏吉見家の祖霊社で、河内壷井権現を勧請、現在八幡宮に合祀され小社が建てられている。

5、源流寺跡と御塔
  吉見頼行の菩提寺源流寺跡と吉見家の墓、後、源流寺は津和野に移され、興源寺と改められた。


   平成元年2月 津和野町教育委員会 木部の歴史を守る会”
【写真左】居館跡に向かう途中の案内板
 上掲の説明板が、この写真にみえる足の部分だが、この場所で道が分岐していて 、どちらに向かうのかわからなかった。

 おそらく、この倒れた木製の案内板に矢印があったのだろうが、朽ち果ててしまっている。
 おかげで、この付近で相当時間を食ってしまった。


 上記の5に示した吉見家の墓とは、近くに頼行の奥方の墓と伝えられる宝篋印塔のことと思われるが、当日周辺を徘徊したものの、探すことはできなかった。

 ところで、以前取り上げた「津和野城」(2010年1月10日投稿)や、件の現地の説明板、また度々参考にしている「日本城郭大系14巻」などにもあるように、頼行が弘安5年、西石見の沿岸警備や、木園に来住したものと記されているが、「石見町誌・上巻」では、このことに疑問を投げかけている。

 これによると、弘安5年の西石見の沿岸警備(弘安の役)についたのは、頼行の父・頼忠で、さらに、恩賞としていきりなり300町(一説には500町)を宛がわれる状況ではなかったという。
 というのも、当時幕府は一町歩の田地もままならない状態で、戦後処理として先ず検地から始めなければならなかった。従って、恩賞の実施ができたのは弘安9年(1286)以降だという。

 また、説明板では津和野城の縄張を永仁3年(1295)としているように、築城竣工はそれよりさらに下った正中元年(1325)であろうとしている。
【写真左】冨永八幡宮の入口
  この階段付近に木製の碑があり、以下のことが記されている。
“郷中氏神の総社として祀る。弘安5年(1282)、吉見氏鎌倉鶴岡八幡宮を勧請して祀る”
 このことから、説明板にあった頼義社(木園神社)だと思われる。




 頼行の最期は、建武3年(1336)討死することになるが、逆算していくと、伝承とされている最初に功を挙げた弘安4年(1281)から50余年まで活躍していることになる。
 これは余りにも無理があり、確かに前半の活躍は父・頼忠のものと考えた方が妥当と思われる。

 ところで、この吉見氏居館跡は、拙稿「津和野城」でものべたように、津和野城が使用されてからも同地との往来は長く続いた。

【写真左】冨永八幡宮鳥居
 道路下の参道から本殿まではかなりの距離があるがあるが、その途中の広場などを含めると、かなりの規模になる。

 往時は相当参詣者があったのだろうとおもわせる雰囲気がある。

三宅御土居館跡(島根県益田市三宅町)

三宅御土居館跡(みやけおどい やかたあと)

●所在地 島根県益田市三宅町
●形式 居館跡
●築城期 平安時代末期~応安年間(1368~75)
●創建者 益田兼見
●規模 192m×85m
●遺構 土塁、掘立柱建物、柱穴、堀、その他
●指定 国指定
●標高 8m
●登城日 2010年9月12日

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」、「日本城郭大系第14巻」等)
 七尾城に拠った益田氏の居館跡とされているのが、当城より北西700m余りにあった三宅御土居である。
 近年までその築城期が応安年間(1368~75)ごろ、益田兼見によって創建されたといわれてきたが、平成2年度から行われてきた益田市の発掘調査によって、その時期がさらにさかのぼった平安末期のころと訂正されている。

【写真左】三宅御土居跡
 写真のように「おどい広場」と命名され、市民の憩いの場のような施設をつくりつつある。

 現地にはこれまでの発掘調査で明らかになった詳細な内容を、大型のパネル型説明板を設置して紹介している。
 また、益田氏の歴史を活かしたまちづくりをめざして、「七尾城通り」「おどい広場」といった愛称を命名している。

 これまで取り上げた「七尾城」と今稿「三宅御土居」、さらに紹介はしていないが、益田氏や雪舟と深いかかわりのある「医光寺」の3カ所をもって「トライアングルゾーン」と位置付けている。
 
 なお、つい最近まで三宅御土居館跡には、益田氏とゆかりのある「泉光寺」という寺院が建っていたが、発掘調査のため移転している。

 【写真上】左図:七尾城想像図、右図:三宅御土居想像図
 写真がいびつだが、全体の構図は判断できると思われる。左図では三宅御土居は、上部の益田川を渡った位置に描かれている。
 三宅御土居は、想像図にもあるように、全周囲に堀が巡らされ、東西には土塁が設けられていた。この土塁は下の写真にもあるように現在でも残っている。

【写真左】東側の土塁
 最近まで寺院であったことからこの東西の土塁跡にも墓石が並んでいる。 
【写真左】東側の土塁から西側の土塁を見る。
 西側の土塁は高さは、東側のそれとほぼ同じだが、長さはやや短い。
 中央部の青いビニールシートがある付近が元の寺院跡で、下段の写真のように数カ所にわたって発掘調査が行われている。 
【写真左】発掘調査現況
 シートに覆われていない個所には、元の寺院の礎石が残っている。
 また、東側の広場としてすでに整備された位置には、井戸跡がのこっている。
【写真左】西側の土塁から東側の土塁方面を見る。
 三宅御土居の形状は、上掲したように東西に長い敷地となっている。また、この写真で見える右側の住宅地との段差でもわかるように、南側下段は帯郭の形式を持たせた構造になっている。
 おそらくその郭のレベルが掘に接していることから、船着き場として兼用されていたのかもしれない。
【写真左】三宅御土居から南東方向に七尾城を見る。
【写真左】当時の堀の状況
 下段が北になるが、上段(南)の堀の幅は広い所で40m前後あったという。搦手は北になる。

 なお、これら外堀の水は益田川から大堰堤を設置し引き、外堀の西側に江湾水溝を伸ばし、益田川下流(当時は高津川との合流)に結んだ。

2010年12月14日火曜日

七尾城・その3(島根県益田市七尾)

七尾城・その3

 前稿から大分日数が経ってしまったが、今稿では七尾城・その3として、歴代益田氏の中から主だった人物を挙げておきたい。

【写真左】 七尾城本丸付近より益田市内を見る。
 手前の川は益田川で、左上の方にかすかに高津城跡(万葉公園)の丘陵が見える。



益田兼堯(ますだかねたか)

 呼称が同じものとしては、以前取り上げた兼高(かねたか)がいるが、兼堯の方は、第15代で、父は兼理である。幼名は益一丸、または松寿・孫次郎と称した。兼堯の子は、二男三女で、貞兼と兼久があり、貞兼が家督を継ぎ、三女は大内氏の家老・陶弘護、益田兼春、吉見信頼に嫁がせた。

 父である兼理は、永享3年(1431)7月16日、足利義教の命によって、大内盛見に従って出陣し、筑前国深江で討死する。大内盛見も当地で戦死した。その3ヶ月後である10月23日、幕府は大内盛見の遺領を大内持世に相続させ、大内持盛に長門を与えた。同じころ、益田家では兼堯が跡を継いだ。

 兼堯は特に当時の状況が許さなかったこともあり、彼の一生はほとんど転戦に明け暮れている。主だったものだけでも次のようなものがある。

(1)嘉吉・宝徳の乱
 嘉吉元年(1441)7月4日、幕府(足利義教)は兼堯に赤松満祐の追討を命じた。8月23日、兼堯は山名道作の配下に属して、作州高尾の城を落とし、細川持之から感状を受けた。
 宝徳3年(1451)の夏、兼堯は吉川経信と連合し、伊予国にわたって、河野刑部大輔孝通を助けるため、河野伊予守通治の討伐に向かった。これにより、管領畠山持国から戦功を賞された。

(2)匹見三葛の戦い
 以前取り上げた三隅城の稿で、益田氏が三隅氏と長い間抗争を続けてきたことを紹介したが、益田氏はこれとは別に、益田氏領の南方にある石見・吉見氏とも長く抗争を続けている。

◎関連投稿
嶽山城(大阪府富田林市龍泉)
【写真左】七尾城 の絵図
 登城口付近に設置されている。この絵図にもあるように、登城口付近である北西麓には、益田川から濠を造るため開削した跡が残っており、現在もそのあとを残す池がある。


益田元祥(ますだもとよし)

 元祥は益田氏第20代である。先代である父・藤兼(19代)の子で、母は石津頼経の子である。
 永禄11年(1568)1月30日、加冠し毛利元就から偏諱の「元」を受け、益田次郎元祥と名乗った。そして、その2年後の元亀元年(1570)2月9日、藤兼は元祥に正式に益田氏の所領をほとんど譲ることになる。

 この時の詳細な譲状が残っているが、これによると、地元石州(益田市地域)はもとより、長州の東部一円、及び防州の恒富保・厚東・東豊田、そして九州筑前国にまで領有し、一時的には雲州(出雲)の生馬郷(松江市)までを領有していた。

 このように、防・長・雲・石・築の五州まで及んだことは、同氏累代の中で最も所領規模が大きく、元祥時代が一番繁栄した時期とも考えられる。
 ただ、その後支配した領地は、次第に毛利氏の権力強化により削減され、毛利氏の家臣団として主従関係の結果、同氏四家老の一人として位置づけされていく。

 ところで、元祥の活躍で主だったものとしては、秀吉の四国征伐と、九州島津義久の討伐がある。
 秀吉の四国征伐とは、長宗我部元親との戦いである。天正13年5月、益田元祥は毛利軍に属し、6~7月にかけて、先陣として高尾城(愛媛県西条市永見土居:標高240m)に向い、7月13日金子氏(金子山城)に攻め入り奮戦した。

 九州の島津氏討伐(天正15年:1587)では、特に宇留津・障子ヶ嶽の戦いが挙げられる。
 香春岳城(福岡県田川郡香春町)に拠った賀来恵慶は、島津軍に属し、その子久盛は手兵2000を率いて宇留津(福岡県築上郡築上町にある平城)の城に拠った。毛利方は先に息子久盛の宇留津の城を攻め、久盛は倒れ、残兵は香春城へ奔った。
 このときの益田元祥の戦いぶりは「安西軍策」に記され、僅かの部下を率いて多大な戦果を挙げた。これにより、元祥は毛利輝元から感状を、元長(吉川)からは太刀一腰、馬八疋を贈られた。
【写真左】 水源池
 上記した堀跡で、益田水源池といわれ、公園となって市民の憩いの場として使用されている。






 ただ、元祥にとってこの九州島津討伐の戦いは、決して晴れがましいことばかりではなかった。
 元祥の妻は吉川元春の娘であったが、天正14年(1586)12月25日、その元春が九州小倉の陣中で57歳の生涯を終えた。

 元春はその数年前には息子・元長に家督を譲り隠居していたが、秀吉の命によってやむなく出陣していた。死因ははっきりしないが、おそらく癌に冒されていたという。

 元春の死後、長子・元長がそのあとを引き継ぎ、益田元祥らは元長の指揮下に入った。天正15年6月、九州の平定がほぼ終了するころになって、今度は元長が急に病を発し早世した。日向(宮崎県)の都城で、秀吉帰洛の路を待っていたときであった。僅か40歳であった。
 元祥にとって、岳父(元春)と義兄弟の死は大きなショックであったと思われる。

 元長には実子がいなかったこともあり、しかも九州という陣地での出来事から、吉川家一門に動揺が走り、継嗣の議論が起こった。このため、宗家である毛利輝元と黒田如水が仲裁に入り、継嗣を弟の広家(経言)とした。そして、すぐに同月5日付で、下記の起請文を吉川家に諸将が提出している。その面々は以下の通り。
  • 益田右衛門佐元祥
  • 宍道備前守政慶
  • 天野民部大輔元弥
  • 周布左近太夫元城
  • 杉原弥五郎広亮
  • 湯 佐渡守家綱
  • 福屋左衛門尉元秀
  • 古志因幡守重信
  • 多賀彦三郎元忠
  • 都野弥次郎経良
  • 赤穴右京亮幸清
  • 熊谷豊前守元直
  • 佐波兵部少輔恵連
 これにより、吉川家の安泰が保たれたわけである。なお、この2日後の6月7日、秀吉は筑前国筥﨑(福岡市東区箱崎)で、諸将を会して、九州諸大名の封域を定めている。筥崎とは、おそらく「筥崎宮」のことと思われる。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに敗れた西軍側の益田元祥は、毛利輝元の家老として長門の須佐に移り、七尾城は300年の歴史に幕を閉じた。
【写真左】東尾根防塁群の一ノ段から西尾根防塁群との接続部(帯郭)を下に見る。

 東西防塁の接続点に馬釣井がみえるが、東尾根防塁群の下段の郭も尾根伝いに長く伸びている。

 【写真左】本丸付近
  現地の案内図では、一ノ段をまとめて本丸と定義しているが、幅はさほどないものの、南北に数十メートル伸びた構成をしている。

 この先にはかなりの高低差を持たせた切崖があり(7,8mはあるだろうか)、さらに南尾根防塁群へと続く。

 残念ながら、この南尾根防塁群は踏破していないが、相当起伏のある城砦のようだ。
【写真左】東尾根防塁群二ノ段から南方を見る。
 この場所から手前に下がって行くと、当時の登城ルートといわれる谷間にいけるが、現地は整備されていないので、省略した。

2010年10月9日土曜日

七尾城・その2(島根県益田市七尾)

七尾城・その2

●登城日 2010年9月12日

はじめに
 今稿では主に七尾城の主だった部分について、写真を交えて紹介したいと思う。なお、七尾城の遺構は、その規模・種類の多さなどから、今稿のみではすべてを網羅することはできない。
 予定としては、次稿で、室町・戦国期における益田氏一族の流れの中で補完したいと思う。

【写真上】益田市内の主な史跡配置図
 上部が日本海で、右に流れるのが益田川、左に流れているのが高津川である。
 「七尾城」は右下に図示されている。

【写真左】七尾城略図
 当城の麓登城口付近に設置されたもので、文字が小さいため読みづらいが、V字型の二つの尾根に造られ、大まかな構成としては、西尾根防塁群(図の下方の尾根)と、東尾根防塁群(図の上方の尾根)とで成り立っている。
 本丸の位置は、この図の右側にある。
【写真左】登城口から登って行く途中にある住吉神社の前の門
【写真左】本丸方向へ向かう道
 上記の門をそのまままっすぐ向かうと住吉神社本殿がある。
 七尾城に向かうには、その手前で左に鋭角に分岐した道があり、この道からつづら折りの経路となる。
 写真に見える尾根斜面は、「西尾根防塁群」のもので、本丸に向かわず真っすぐ行くと、この尾根先端部の尾崎丸まで向かうことになる。
【写真左】竪堀
 西尾根防塁群に見えたもので、登城途中にあるものとしては一番管理が行き届いている遺構である。 
【写真左】途中の分岐点
 西尾根防塁群の一ノ段といわれているところの中心部が、写真にあるように、左方面に向かう尾崎丸・千畳敷、右に向かうと、東尾根防塁群方面(本丸)との分岐点になる。
 最初は、右に向かった。
【写真左】三宅御土居遠望
 上記分岐点付近から少し北に進んだ「太鼓の壇」付近から見たもので、三宅御土居は、近いうちに取り上げる予定だが、応安年間(1368~75)ごろ益田兼見が創建したとされる益田氏の居館跡である。
 写真に見える左右の樹木間に設置されていた館で、左右の樹木は土塁跡であり、最近までこの中央部には寺院が建っていたが、益田市教育委員会による発掘調査のため、寺院は移転させている。
 なお、手前にみえる川は、益田川。
【写真左】厩の壇・その1
 太鼓の壇を過ぎると、広大な「厩(うまや)の壇」が見えてくる。南北56m、幅15mの規模で、騎馬で登城してきた武士たちがこの場所に馬をつないだといわれている。

【写真左】厩の壇・その2
 西尾根防塁群と東尾根防塁群をつなぐ郭段から撮ったもので、写真の奥が太鼓の壇側で、右に向かうと本丸(東尾根防塁群)がある。
【写真左】馬釣井
 先ほどの厩の壇から、東尾根防塁群に向かう途中の谷始点に井戸跡がある。案内板によれば、円形の割石積みの井戸で、直径1.2m、深さ4.5mだったという。
 位置的に厩の壇の附近にあることから、主に馬に飲ませる水のものだろうが、武士たちも飲料水として使っていたのかもしれない。なお、七尾城にはこれ以外に2カ所の貯水濠があったとされるが、具体的な場所は銘記されていない。

 なお、写真はないが、この東西尾根の谷筋が、大手と思われ、この東尾根防塁群の左側二ノ段斜面(帯郭)に、22m×5mの規模で礎石建物跡が発見された。倉庫の役目とした建物であったらしい。
【写真左】二の丸付近
 東尾根群に登る道の最初の到達点は、同群の「一ノ段」中央部にあたり、そこから南(右)に向かうと本丸に行く。
 二の丸の長さは、東尾根防塁群の中でも、その幅も含めもっとも規模が大きい。
 戦略的にもこの二の丸における位置は重要なものと思われ、多くの将兵が駐屯していたと思われる。
 二の丸の北端部ではかなり高低差(5,6m程度)のある堀切を持たせ、以下二ノ段、三ノ段、そして当該尾根群の最北端部の四ノ段まで約300m近くの長さに伸びている。
【写真左】二の丸から本丸方面を見る
  この写真は、二の丸から本丸方向を見たもので、本丸と二の丸の段差は1、2m程度でスロープ状になっている。同群尾根の縁は、原形が劣化しているものの、土塁状の痕跡が認められる。

 当時はおそらく、1m程度の高さがあったものだろう。なお、二の丸と本丸の境界部の幅は、意識的に狭められているような造りである。
【写真左】本丸側から北に二ノ丸方面を見る
 東尾根防塁群は全体に左右の斜面は切崖状になっている。
【写真左】本丸付近
 本丸を挟んで前後に礎石建物が発掘されたということから、これらはおそらく弘治2年(1556)、益田藤兼の代の修造と思われる。特に本丸最南端の礎石規模は、二ノ丸北端のそれと同等の大きさを持ち、郭幅いっぱいに建屋があったものと思われる。
【写真左】本丸跡から西方に益田市内を見る
 七尾城の本丸高さはさほど高くないものの、眺望は予想以上にいい。このため、西方からの動きは、この本丸からほとんど確認できたと思われる。
 東方は東尾根群の三ノ段や、四の段辺りから把握し、北方は西尾根群の北端である「尾崎丸」から見ていたのだろう。
 改めて七尾城の形状が、中世山城の城砦として独特のV字状の尾根を巧みに利用したものであることを感じる。

【写真左】千畳敷
 最初の西尾根防塁群に戻って、太鼓の壇の北部にあるもので、この位置から上に登ると当該遺構があるが、現状は時期が悪く、雑草が繁茂していて中までは踏破していない。
【写真左】七尾城から稲積城を遠望する。
 七尾城の西隣にある山城で、益田兼高が稲積神社を改修するため、山頂部を削平、平坦地(10a)を造った。

 その後、興国年間(1340~)、益田兼見の代になると、日野邦光が南朝方の三隅兼連らと呼応し、この城に拠って、兼見の居城である七尾城と対峙した。
 現地に行くと、七尾城と稲積城との距離が余りにも近接していることに驚く。稲積城は七尾城に比べ規模が小さいが、西に伸びた稜線とのつながりもあり、しかも、日野邦光が6カ月も持ちこたえたのは、さらに高津川西岸にあった高津城との連絡と兵糧の輸送が確保されていたからである。
 しかし、最終的には七尾城の兼見らによって、同城は落城(興国元年:1340年8月19日)、邦光は石見を去り、吉野(奈良県)に帰った。

2010年9月21日火曜日

鳶ヶ松城(島根県益田市乙吉)

鳶ヶ松城(とびがまつじょう)

●所在地 島根県益田市乙吉
●登城日 2010年9月18日
●築城期 建久3年(1192)ごろ
●築城者 御神本(益田)兼高
●標高 58m
●遺構 郭等
●備考 鳶ヶ山城、乙吉八幡宮

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」、サイト「島根県遺跡データベース」)
 益田氏が築城した七尾城は近日のうちに取り上げる予定(編集の関係で前後し、すでに「七尾城・その1」を紹介している)だが、今稿ではその益田氏が七尾城に入城する前、仮城として築城したといわれる「鳶ヶ松城」を取り上げる。

 ところで、当城について「島根県遺跡データベース」では、「鳶ヶ松城跡」としているものの、その呼称を「わしがまつじょうあと」としている。これは明らかな間違いで、「とびがまつじょう」又は、「鳶ヶ山城(とびがやまじょう)」である。

【写真左】鳶ヶ松城(乙吉八幡宮)遠望
 御覧の通り、現在は乙吉八幡宮が建てられているため、中段部には遺構はほとんど認められない。
 当日、本殿脇の他の合祀された祠の上付近に登ろうとしたが、足元が不如意のため断念した。

 壇ノ浦の戦いに戦功を挙げた御神本兼高は、その勲功により建久3年(1192)、支族増野兵部左衛門に迎えられ、大谷氏の祖藤原房友を伴い、浜田の上府から益田に移住してきた。

 七尾城は、その頃は当然築城されていないので、それまでの仮の城が必要になってくる。
 このため、乙吉村の鳶ヶ山に仮の城を築城した。

 七尾城が築城されたのが、翌年の建久4年春といわれているので、このことから鳶ヶ松城に在城したのは、1年程度と考えられる。
 当城の規模はさほど大きなものでなく、4,50m四方の小丘に造られた。

 現在は乙吉八幡宮が祀られ、麓は住宅が密集しているため、遺構の確認は判然としないが、「益田市誌・上巻」によれば、本殿上部に土塁を残しているという。
【写真左】乙吉八幡宮本殿
 この写真の後部に本丸などがあると思われるが、小丘の割に切崖部分が多い。また、写真に見える本殿付近は郭跡であった可能性がある。
【写真左】本殿付近から南方に「稲積山城」を遠望する。
 おそらく当時は、頂上部から稲積山城の東方に七尾城も見えたと思われるが、現在は樹木に覆われ、本殿付近からの俯瞰しか確保できない。

七尾城(島根県益田市七尾)・その1

七尾城(ななおじょう)・その1

●所在地 島根県益田市七尾
●登城日 2010年2月7日、及び9月12日
●築城期 鎌倉期
●築城者 益田兼高又は兼時
●標高 119m
●備考 石見18砦
●指定 国指定
●遺構 郭、土塁、礎石建物跡、炉跡、井戸その他多数

◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」「益田市誌・上巻」その他)
 前稿まで取り上げてきた「上久久茂土居跡」「大谷城」「大谷土居跡」と深いかかわりを持つ中世石見の豪族益田氏の本拠城である。

 現地の説明板より

“国指定史跡 益田氏城館跡
七尾城跡
    指定 平成16年9月30日

 七尾城は中世400年間にわたり、西石見に勢力を誇った益田氏歴代の居城でした。
 この城は、七尾山全体に築かれており、北方を流れる益田川に向かって開く東西二つの丘陵を中心に、大小40余りの郭(平らな区画)を設けた県下屈指の堅城でした。

 現在でも、郭や敵の侵入を防ぐ堀切(尾根を断ち切った空堀)、土塁、馬釣井と呼ばれる石積みの井戸跡が残り、当時の姿をよくとどめています。
 南北朝時代にはすでに築城され、延元元年(1336)に、南朝方の三隅軍が「北尾崎之木戸」に攻め寄せた記録が、益田家文書に残っています。

 発掘調査の結果、戦国時代末期には、毛利氏の攻撃に備えて大改修され、城の中心部には礎石建物が建ち、益田氏の当主とその家臣が城内に居住していたことが明らかになりました。
 慶長5年(1600)、益田氏20代元祥が、関ヶ原の戦に敗れた毛利氏の家老として、長門国須佐に移ると、七尾城は廃城となりました。
   平成15年7月
      益田市教育委員会”


益田氏

 これまで同氏については、三隅氏関係の稿などで部分的に取り上げてきているが、ここで改めて記しておきたい。

 益田氏は、藤原鎌足を始祖としている。鎌足7世の孫で忠通が出て、忠通9世の末に定道が出た。この定道は鳥羽天皇の時代(永久2年・1114)6月、前任者藤原貞仲(長治2年・1105見任)の後を追って、石見国司となり、当初那賀郡伊甘郷大浜の三宅に居を定める(「伊甘山安国寺」2010年9月21日投稿参照)。

 定道は任期が過ぎても当地に残り、現在の浜田市にある上府村御神本に土着し、姓も藤原から「御神本(みかもと)」と改め、名を国兼と称する。

 御神本国兼が石見に下向した際、家臣であった大谷知房と章房父子は、共に上府に到着し、その後、知房は波子村を領して波子氏を称した。また章房は上府に留まった。同じく家臣であった藤原親重は、国兼によって姓を草野と改め、美濃郡仙道荘八幡宮の神主となる。以来草野氏は今日まで、神主として33世・900年もの長い間、東仙道の神主を務めているという。

【写真左】益田氏系図
 この系図は、いずれ取り上げる「三宅土居跡」に設置された説明板の一つで、益田氏始祖・国兼から始まって、20代・元祥(もとよし)まで記されている。





 長く続いた一族の系図については、ほとんどの場合、複数のものがあり、益田氏についても同じように見られる。

 一般的には、国兼から兼栄までを旧姓である御神本氏とし、4代兼高の代になって、益田氏を名乗るので、兼高から益田氏始祖となるが、本稿では、御神本氏時代も含め、国兼を益田氏初代と定義しておく。


兼高(4代)の活躍

 これまで、度々取り上げてきているが、益田氏の中でも特に4代兼高については、同氏の基礎を築いた人物として特に重要な武将である。

 兼高の時代は、いわゆる源平合戦のもっとも攻防の激しかったころで、しかも、このころ西国の武士はほとんど平氏に与する者が大半だった中で、兼高のみが源氏の下に馳せ参じた。

 元暦元年(1184)2月7日付の大江弘元から源義経に宛てた書状に、兼高の名が出てくる。

“さいこく(西国)の物(者)どもは、みなへい家に心をよせて、御方にそ(所)むきたるに、ごんのすけかねたか(権介兼高)が、一人ぬけいでて、御方にまいり、心ざしとててき(敵)のきわ(極)のたたかいして、かうみやう(高名)どもしたるよし、くわしくきこしめされ候…”

 文治元年(1185)3月24日、壇ノ浦の戦いにおいて源義経は平氏を滅ぼした。以前にも記したように、益田兼栄・兼高父子は、このとき義経の幕下として抜群の戦功を立てた。

 兼高の軍に従った者としては、高橋九郎左衛門、大谷(藤原)章房の子・右衛門太郎時章、草野惣吉郎、同九左衛門らで、向横田城(島根県益田市向横田)の城主・石川治部少輔頼恒もこの中にいた。


論功行賞によって安堵された所領地

 元暦元年(1184)11月、源頼朝の下文案による安堵状、及び建仁3年(1203)の梶原景時などの書状を整理すると、以下の領地が益田氏に与えられている。
  1. 美濃郡  匹見・丸茂別府・上津茂別府・益田庄・飯田郷安富・高津・長野庄得屋郷・弥富名
  2. 那賀郡  木束郷・永安別府・吉高・伊甘郷・良方別府・千与米名・阿刀別府・周布・小石見・益田庄内納田郷・同井之村
  3. 迩摩郡  温泉郷・宅野別府・加万
  4. 邑智郡  市木別府・長田別府・久富名・千与米名
  5. 安濃郡  鳥居別府・吉光
以上の領地は、現在の津和野町付近(鹿足郡)を除く石見国全土となり、広大な面積である。



益田氏の系図

 益田兼高以降の系図については、上掲の写真の通りだが、この系図では、7代兼長のあと、10代兼世までの2代の嗣子が表記されていない。
 史料によっては、7代を兼久とし、以降8代・兼弼、9代・兼弘、10代・兼方、11代・兼見とするものもある。

 写真の系図にもあるように、7代・兼長の右に兼久が記されているのは、兼長は三隅兼信の娘・阿忍と結ばれたが早世したため、実弟の兼久が益田氏を継いだためである。
 益田氏累代の城主については「益田市誌・上巻」にその活躍が列記されているが、最初に、南北朝期に活躍した益田兼見を取り上げたい。


【写真左】萬福寺本堂(国指定重要文化財)
 萬福寺は益田川の北岸にあり、南岸には七尾城がそびえている。

 当院は益田氏11代兼見(かねはる)が建立したとされている。
 



 先ず南北朝時代には、益田兼見が度々登場する。高津城(島根県益田市高津町上市)でも記したように、兼見は「石見北朝方」の代表格として、「南朝方」の高津長幸や三隅兼連らと戦っている。

 兼見は祥兼ともいい、記録によれば、兼見の時代に特に益田惣領家として、上掲した多くの領地を分割相続している。分割譲渡された庶子家は代が進むにつれて、独立心が強くなる。しかし、惣領益田家とすれば、できるだけ初期のころと同じように、益田一族の連帯を保持しようとする。

 兼見の「置文」には、執拗なまでの土地に関する契約と、益田本家と一味同心としての結びつきを強要したものが残っている。また、その背景には、南北朝動乱の動きが大きく影響している。

 永和4年(1378)、剃髪した兼見は祥兼と号し、長男の兼世に跡を譲った。それから13年後の明徳2年(1391)6月1日、前々稿で紹介した伊甘山安国寺(島根県浜田市上府町イ65)の住職を定め、4カ月後の10月14日、夭逝した。
【写真左】益田兼見の墓
 萬福寺から東へ100mほど行くと、墓地があり、 この奥の高い所に兼見の墓がある。

 これまでも度々石見南北朝期に同氏の活躍を紹介してきているが、現地に彼の足跡を記した説明板があるので、改めて転載しておく。

“益田市指定史跡

益田兼見の墓
(指定 昭和46年6月21日)

 益田兼見は益田氏11代当主で、山道庶子家から入って益田惣領家を継いだ知勇兼備の武将といわれています。
 兼見は、南北朝の争乱に伴い、暦応3年(1340)足利尊氏が派遣した石見の守護上野頼兼を助け、豊田城、高津城、稲積城、三隅城を攻略するなど、北朝方として石見の各地に転戦しました。

 その後、正平4年(1349)に尊氏の子足利直冬が九州に移って、南朝に帰順すると、兼見も南朝に転じましたが、直冬の死後正平19年(1364)に南朝方として石見に進出してきた大内弘世が幕府に降ると、兼見もまた弘世に従い北朝方として、三隅氏や福屋氏と戦いました。以後、益田氏は大内義隆がその家臣の陶晴賢に滅ぼされるまで大内氏に従属しました。

 また、兼見は強力な家臣団編成と、支配機構の整備にあわせ、三宅御土居を中心に益田平野の本格的な開発を行うとともに、萬福寺、崇観寺、医光寺(崇観寺のわき寺)、滝蔵権現(天石勝神社)など、寺社の創建にも力を注ぎました。

 中でも、兼見は時宗に帰依し、応安7年(1374)中須の安福寺を現在地に移転改築し、萬福寺と改め、自らの菩提寺としました。明徳2年(1391)に没し、萬福寺境内の椎山麓に墓が建てられましたが、昭和58年の豪雨災害復旧工事により、現在地に移設されました。墓石は、高さ約1.6mの五輪塔で、傍らにはひとまわり小さな父兼方の墓が並んでいます。
  平成8年5月  益田市教育委員会”
【写真左】益田兼見の墓から南方に七尾城を遠望する。

伊甘山安国寺(島根県浜田市上府町イ65)

伊甘山安国寺(いかんざん あんこくじ)

●所在地 島根県浜田市上府町イ65
●探訪日 2010年9月18日
●創建 和銅年間(708~714年)

◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」等)
 前稿まで益田氏関連の史跡を投稿しているが、益田氏が第4代・兼高の代に益田に移住する前の御神本氏時代に関する事項を記していないので、今稿では、主として上府地域(現浜田市)にある史跡を中心に紹介したいと思う。

御神本氏三代の墓

 藤原定道は、永久2年(1114)6月、前任者藤原貞仲のあとを受けて、石見の国司となる。任期が終わってもそのまま上府村御神本に土着し、名前も藤原定道から、当地の名をとり姓を御神本(みかもと)とし、名を国兼と改めた。
【写真左】安国寺山門
 当院はごく最近改修されたようで、本堂も含めほとんどの施設が新しい。







 国兼が国司として在任したのは4年間で、その後藤原盛重が来国し、その任を引き継いだ。したがって、国司として御神本氏が務めたのは国兼の代だけである。
 国兼のあと、子の兼実、孫の兼栄の代になると、公卿の門閥を捨て、武士として生きることになる。

 御神本国兼・兼実・兼栄の三代の活躍の場は、当時伊甘郷といわれた現在の浜田市上府・下府地域である。当然ながらこの地には、国府跡・国分寺跡などが残っている。

 今稿のタイトル「伊甘山安国寺」は、この上府町に所在し、当院には件の御神本三代の墓があり、「益田御廟」と伝えられ残っている。
【写真左】御神本氏の墓その1
 当院の本堂裏を少し上がったところの階段状になった墓地にある。
 形式は宝篋印塔のようだが、三基とも原形を留めておらず、部位が散在しているように見えた。
【写真左】御神本氏の墓その2
  「益田市誌・上巻」によると、三基の中の中央のものが、御神本国兼(益田国兼)のものだと記してある。
 現地の配列と状況を考えると、どれが中央のものか分からない。

 さらに不可解なのは、同誌に掲載されている国兼の墓の写真を見ると、その周辺部が、この安国寺境内の景色と合致しておらず、下段に示す「下府廃寺塔跡」に設置されている宝篋印塔とほぼ同じで、この墓を「国兼の墓」としていることである。


 現地の説明板より

“伝 御神本三代の墓

 御神本兼高は、父祖以来四代石見国府庁役人として、この地に定住していた豪族である。
 寺伝によれば、兼高の祖・藤原定通(道)が、1114年(永久2年)石見国司として、伊甘郷上府の地に土着し、御神本国兼と称したといわれていた。

 この寺域にある三基の古墓は、国兼、その子兼実、孫の兼栄(かねひで)といわれている。
 兼栄の子兼高は、一の谷、壇ノ浦の合戦に石見軍を率いて源義経のもとで働いている。
 1184年(元暦元年)の源範頼の領地安堵状によると、所領は安濃邇摩、邑智、那賀、そして美濃の各郡にあり、特に後二者に多く、かつ国衙領に多くあって、有力な国庁権力者であったことを示している。
【写真左】安国寺境内の御神本氏三代の墓の下の段にあった宝篋印塔
 この宝篋印塔は一基で、特に説明板などはない。御神本氏に関係した武将のものだろうか。

 南北朝のころ、跡市の本明城及び今市の家古屋城を居城とした福屋氏、周布の鷹巣城にいた周布氏、三隅高城山にいた三隅氏等は、いずれも南朝方、足利直冬方として活躍し、益田氏は主として北朝方、足利尊氏方として戦っている。

 戦国の世には、一族は大内に従い、また、尼子の配下となるが、三隅福屋の二氏は早く滅び、周布氏と益田氏の末裔は、毛利に従って長州に移っている。
 当寺は、もと天台寺院福園寺であったが、益田氏によって禅院に改められ、足利尊氏これを石見の安国寺としたのである。なお、この寺にある「天邪鬼」は地方住民の信仰が厚い。
    2000年4月 記   安国禅寺”
【写真左】笹山城跡遠望
 安国寺の麓を流れる下府川を挟んで西方1キロにある山城で、この北麓に「下府廃寺塔跡」がある。

 笹山城については、南北朝時代、新田義氏や、日野邦光らが居城したと伝えられているが、それ以上の詳細な記録が残っていない。

 おそらく、当城はそれ以前の平安末期から鎌倉期にかけて、御神本氏と何らかの関係のあった城砦と思われる。
 ただ、当城と御神本氏がかかわったという明確な記録は、文献にも見えない。

 しかし、安国寺付近から下府川をさかのぼると、1キロ先には「八反原城」があり、さらに3キロほど行くと「龍ヶ城」という城砦もあるが、御神本氏が活躍した上府・下府の地理的環境を考えると、笹山城が御神本氏の居城であった可能性が高い。
【写真左】下府廃寺塔跡
 笹山城の北麓に設置されている。
 少し長いが、写真の説明板の内容を記す。

“国指定史跡 下府廃寺跡(指定名称 下府廃寺塔跡)

 この地に古代寺院跡があったことは、古くから知られ、国鉄広浜線(現在は市道下府上府線)建設の際、下府廃寺塔跡として国の史跡に指定された。

 その後、平成元年から平成4年に浜田市教育委員会により発掘調査が実施され、塔を東、金堂を西に配した「法起寺式」の寺院であったことが判明した。出土した瓦や土器から県内では最も古い白鳳時代末~奈良時代初め(7世紀末~8世紀初めごろ)に創建され、平安時代前半(10世紀)まで存続したものと考えられる。
【写真左】下府廃寺塔跡に見える宝篋印塔
 写真奥にある宝篋印塔の詳細写真は下段に載せているが、この写真の右奥に「笹山城」が位置している。
 この写真の奥に見える宝篋印塔が、前記した国兼の墓として「益田市誌・上巻」では紹介している。


 現在見られる礎石は、塔の中心柱を支える塔心礎で、柱をはめ込むための円形の窪みや、舎利を納める円形の穴が確認できる。

また、この塔心礎の周辺は、周囲に比べて一段高くなっており、塔の基段の痕跡を残している。
 塔は発掘調査の結果、7.2m(24尺)四方、基壇は13.2m(44尺)四方と推定され、その構造などから五重塔であったと考えられる。

 この塔から西側約6mには、金堂跡が発見され、基壇の規模は東西15.4m(51尺)、南北約13m、建物は4×5間で、中央に仏像を安置していたと考えられる。なお、講堂や中門、回廊などの施設は確認されていないが、地形などから寺域は約109m(1町)四方と推定される。

 出土した軒丸瓦の文様には、創建時のものと考えられるこの寺独自のものや、修理で使用された石見国分寺跡や、旭町重富廃寺、大田市天王平廃寺出土瓦に似たもの、さらに近畿地方の瓦文様に近いものなどが認められ、寺院を建立した豪族の活動範囲を窺うことができる。

 なお、ここから東約500mにある片山古墳は、石見地方を代表する7世紀の古墳で、この古墳の後継者が下府廃寺を建立したものと考えられ、これらは石見の古墳時代から奈良時代を考える上で重要な遺跡となっている。
  昭和12年(1937)6月15日指定
  平成13年(2001)3月 島根県教育委員会、浜田市教育委員会”
【写真左】下府廃寺塔跡にある宝篋印塔・その1
 刻銘された文字が風化のため、はっきりしないが、「石見国那賀郡伊甘郷」とあり、その左側には「寛延…」とも読める。寛延となると江戸期になるので、建立されたのは鎌倉・南北朝期でないということになるが…。

【写真左】その2