財田城(さいたじょう)
●所在地 香川県三豊市財田町財田中
●別名 本篠城(もとしのじょう)、奥野城
●指定 三豊市指定史跡
●高さ 200m(比高80m)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 財田氏
●遺構 郭・土塁・馬返し・空堀・のろし台等
●登城日 3月14日
◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
香川県から南下して徳島県に入る道は何本かあるが、そのうち最も西側を走る道路としては国道32号線がある。別名阿波別街道とも呼ばれ、猪ノ鼻峠を境としてJR土讃線とほぼ並行して走り、近世に至ってから讃岐と阿波を結ぶ街道の一つとなった。
そして、讃岐側から阿波越えをする北麓には財田町(現三豊市)があり、32号線からおよそ1キロ余り隔てた本篠の谷に聳えているのが財田城、別名本篠城である。
【写真左】財田城遠望
北側から見たもの。
現地説明板より
“本篠城址
~本篠城の歴史~
本篠城は南北朝時代(延元年間)に財田左兵衛頭義宗が所領していたと言われています。かつて阿波・讃岐の交通の要路にある要害堅固の地を生かした天然の山城でした。
しかし、天正6年(1578)に、長宗我部元親が率いる土佐軍5,000の兵の侵攻を受けました。わずか200の兵の財田軍は城を中心に激しく抵抗し善戦しましたが、落城してしまいました。
山頂には、土塁・馬返し・空堀・のろし台など戦いの遺構も残っています。またふもとには財田和泉守常久の墓と伝えられる五輪塔も現存しています。
【写真左】「本篠城址」の看板
左上の隅には「地元の中学生が作った 魅力大発見!
財田の案内看板」
と書かれている。
伯母淵(おばぶち)
長宗我部軍の攻撃で落城したとき、伯母や女房たちが身を投げたといわれています。
作製:三豊市立和光中学校
3年 (5名)
協力:まちづくり推進隊財田 文化財保護協会
財田町写真同好会 関係自治会
設置:平成25年12月吉日”
【写真左】縄張図
これを見ると、長径(南北)×300m、短径(東西)100mの規模で、堀切や竪堀など5個所があり、中心部に主郭を置き、南側にも大きな郭(吐出部)を構えている。
この看板は北麓に設置されているもので、地元の中学生5名の名前が入っている。子供たちが主体となってこうした地元の歴史に興味を持ち、活動をしていることは頼もしい限りである。
【写真左】看板附近から遠望する
左側の山が財田城になるが、途中で右側には鮮やかな花が咲いていた。
財田義宗と小笠原義盛
財田城の城主は財田義宗といわれている。おそらく築城期も義宗が活躍した南北朝期と思われ、建武年間前後と考えられる。
●所在地 香川県三豊市財田町財田中
●別名 本篠城(もとしのじょう)、奥野城
●指定 三豊市指定史跡
●高さ 200m(比高80m)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 財田氏
●遺構 郭・土塁・馬返し・空堀・のろし台等
●登城日 3月14日
◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
香川県から南下して徳島県に入る道は何本かあるが、そのうち最も西側を走る道路としては国道32号線がある。別名阿波別街道とも呼ばれ、猪ノ鼻峠を境としてJR土讃線とほぼ並行して走り、近世に至ってから讃岐と阿波を結ぶ街道の一つとなった。
そして、讃岐側から阿波越えをする北麓には財田町(現三豊市)があり、32号線からおよそ1キロ余り隔てた本篠の谷に聳えているのが財田城、別名本篠城である。
【写真左】財田城遠望
北側から見たもの。
現地説明板より
“本篠城址
~本篠城の歴史~
本篠城は南北朝時代(延元年間)に財田左兵衛頭義宗が所領していたと言われています。かつて阿波・讃岐の交通の要路にある要害堅固の地を生かした天然の山城でした。
しかし、天正6年(1578)に、長宗我部元親が率いる土佐軍5,000の兵の侵攻を受けました。わずか200の兵の財田軍は城を中心に激しく抵抗し善戦しましたが、落城してしまいました。
山頂には、土塁・馬返し・空堀・のろし台など戦いの遺構も残っています。またふもとには財田和泉守常久の墓と伝えられる五輪塔も現存しています。
【写真左】「本篠城址」の看板
左上の隅には「地元の中学生が作った 魅力大発見!
財田の案内看板」
と書かれている。
伯母淵(おばぶち)
長宗我部軍の攻撃で落城したとき、伯母や女房たちが身を投げたといわれています。
作製:三豊市立和光中学校
3年 (5名)
協力:まちづくり推進隊財田 文化財保護協会
財田町写真同好会 関係自治会
設置:平成25年12月吉日”
【写真左】縄張図
これを見ると、長径(南北)×300m、短径(東西)100mの規模で、堀切や竪堀など5個所があり、中心部に主郭を置き、南側にも大きな郭(吐出部)を構えている。
この看板は北麓に設置されているもので、地元の中学生5名の名前が入っている。子供たちが主体となってこうした地元の歴史に興味を持ち、活動をしていることは頼もしい限りである。
【写真左】看板附近から遠望する
左側の山が財田城になるが、途中で右側には鮮やかな花が咲いていた。
財田義宗と小笠原義盛
財田城の城主は財田義宗といわれている。おそらく築城期も義宗が活躍した南北朝期と思われ、建武年間前後と考えられる。
【写真左】迷走する。
財田城の左側(東)の山道を車で進んだが、登城口にあるという石碑などが見つからず、また時間的にも余裕がなく、結局登城を断念した。
どうやら、途中で分岐する地点で右に行くべきところを左に進んでしまったようだ。
このあと、一旦谷間の集落に降り、財田和泉守常久の墓に向かう。
財田城の左側(東)の山道を車で進んだが、登城口にあるという石碑などが見つからず、また時間的にも余裕がなく、結局登城を断念した。
どうやら、途中で分岐する地点で右に行くべきところを左に進んでしまったようだ。
このあと、一旦谷間の集落に降り、財田和泉守常久の墓に向かう。
財田城から南に凡そ20キロ向かった阿波の田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)でも述べたが、建武4年・延元2年(1337)、池田・大西城(徳島県三好市池田町上野)にあった小笠原阿波守義盛は、南朝に属して挙兵、北朝方の細川頼春と戦ったが利あらずとして和睦した。
この戦いで、当初義盛は大西城にあったが、その後讃岐山脈を越えてこの財田城に拠っている。同年6月のことである。
この戦いで、当初義盛は大西城にあったが、その後讃岐山脈を越えてこの財田城に拠っている。同年6月のことである。
しかし、当城に拠ってから一か月後、北朝方の軍門に下っている。おそらく、義盛が大西城から財田城に移る際、財田義宗が手引きをしていたと思われる。因みに、義宗の名は阿波守義盛から偏諱を受けたものだろう。
財田城での攻防
天正年間における長宗我部軍進攻前の永禄6年(1563)ごろ、阿波三好氏による讃岐制圧の動きがあった。
当時阿波にあった三好氏の中でも特に実休のもとで頭角を現してきたのが篠原長房(中鳥城(徳島県美馬市美馬町中鳥)・その1参照)である。
このころ、三好氏の主流であった三好実休(義賢)や十河一存らは畿内に出陣していたが、永禄4年、5年に一存や実休が相次いで亡くなると、長治が跡を継いだものの、実権は長房が握ることになった。
【写真左】財田和泉守常久の墓・その2
五輪塔形式のもので、「相伝 財田和泉守常久之墓 本篠城主也 天正六年長宗我部元親軍と戦い討死す
昭和62年4月建立 財田町教育委員会 川上老人会」と刻銘されている。
永禄6年、長房らは当初香川之景の拠る天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)に攻撃をしかけ、香川氏らは籠城の末同城を退城し、閏12月財田において大西衆(阿波大西頼武配下)と再び抗戦している。
因みに、三好氏の実力者であった長房は後の元亀3年(1572)、同族の篠原自頓の讒言によって主君長治から追われ、居城の上桜城(吉野川市)において、長子とともに自害することになる。
天正6年(1578)、長宗我部元親による讃岐侵攻が当地にも及んだ。説明板にもあるようにこの戦いは兵力の差は如何ともし難く、衆寡敵せず落城することになる。またこの戦いで、財田城の支城といわれる藤目城(観音寺市)もほぼ同時期に落城している。
塔重山
ところで、財田城から東方の谷を隔てて、直線距離で600m余の位置には塔重山という標高268mの山がある。現在、その頂部には「たからだの里」という名の公園が造られている。
この山には元々青蓮寺という古寺があり、いまでは公園化されたためほとんど消滅しているが、南北朝期には二段の薬研堀などがあったといわれ、当山でも財田城の攻防に絡んだ戦が行われたと伝えられている。
【写真左】塔重山
最高所には展望台が設置されている。
【写真左】西側の段
公園化された際に加工された段なのか、当時のものか分からないが、当山も財田城と同じく東西両斜面は険阻である。
なお、薬研堀といわれる箇所を探索したが見つからなかった。
【写真左】北東方向を俯瞰する。
財田上といわれる区域である。
【写真左】北西方向を俯瞰する。
財田中といわれる地区で、残念ながらこの場所からは財田城は確認できない。左側の山があるため見えない。
【写真左】東方を俯瞰する。
【写真左】徳島方面を見る。
この山を越えると阿波(徳島)に至る。
【写真左】展望台から公園を見る。
北方を見たものだが、北側の峰先端部から先の植林された箇所に遺構があったのかもしれない。
◎関連投稿
昼寝城(香川県さぬき市多和)
天正年間における長宗我部軍進攻前の永禄6年(1563)ごろ、阿波三好氏による讃岐制圧の動きがあった。
当時阿波にあった三好氏の中でも特に実休のもとで頭角を現してきたのが篠原長房(中鳥城(徳島県美馬市美馬町中鳥)・その1参照)である。
このころ、三好氏の主流であった三好実休(義賢)や十河一存らは畿内に出陣していたが、永禄4年、5年に一存や実休が相次いで亡くなると、長治が跡を継いだものの、実権は長房が握ることになった。
【写真左】財田和泉守常久の墓・その2
五輪塔形式のもので、「相伝 財田和泉守常久之墓 本篠城主也 天正六年長宗我部元親軍と戦い討死す
昭和62年4月建立 財田町教育委員会 川上老人会」と刻銘されている。
永禄6年、長房らは当初香川之景の拠る天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)に攻撃をしかけ、香川氏らは籠城の末同城を退城し、閏12月財田において大西衆(阿波大西頼武配下)と再び抗戦している。
因みに、三好氏の実力者であった長房は後の元亀3年(1572)、同族の篠原自頓の讒言によって主君長治から追われ、居城の上桜城(吉野川市)において、長子とともに自害することになる。
天正6年(1578)、長宗我部元親による讃岐侵攻が当地にも及んだ。説明板にもあるようにこの戦いは兵力の差は如何ともし難く、衆寡敵せず落城することになる。またこの戦いで、財田城の支城といわれる藤目城(観音寺市)もほぼ同時期に落城している。
塔重山
ところで、財田城から東方の谷を隔てて、直線距離で600m余の位置には塔重山という標高268mの山がある。現在、その頂部には「たからだの里」という名の公園が造られている。
この山には元々青蓮寺という古寺があり、いまでは公園化されたためほとんど消滅しているが、南北朝期には二段の薬研堀などがあったといわれ、当山でも財田城の攻防に絡んだ戦が行われたと伝えられている。
【写真左】塔重山
最高所には展望台が設置されている。
【写真左】西側の段
公園化された際に加工された段なのか、当時のものか分からないが、当山も財田城と同じく東西両斜面は険阻である。
なお、薬研堀といわれる箇所を探索したが見つからなかった。
【写真左】北東方向を俯瞰する。
財田上といわれる区域である。
【写真左】北西方向を俯瞰する。
財田中といわれる地区で、残念ながらこの場所からは財田城は確認できない。左側の山があるため見えない。
【写真左】東方を俯瞰する。
【写真左】徳島方面を見る。
この山を越えると阿波(徳島)に至る。
【写真左】展望台から公園を見る。
北方を見たものだが、北側の峰先端部から先の植林された箇所に遺構があったのかもしれない。
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