白峰合戦古戦場(しらみねかっせん こせんじょう)
●所在地 香川県坂出市林田町
●別名 史跡三十六
●指定 坂出市指定史跡
●遺構 なし
●備考 石碑等
●探訪日 2016年11月12日
◆解説(参考資料 HP坂出市等)
今月投稿の聖通寺城(香川県綾歌郡宇多津町坂下・平山)で少し紹介しているが、南北朝期に細川頼之と細川清氏の戦いが行われた場所といわれている。
所在地は、以前紹介した崇徳天皇 白峯陵(香川県坂出市青海町)のある第81番札所綾松山洞林院白峯寺から西に降りて、雄山を右手にした林田町の田圃の脇にある。
【写真左】史跡三十六
白峰合戦古戦場の石碑
現地の説明板・その1
“史跡三十六(白峯合戦古戦場)
この地を三十六と云い、細川清氏と従士36人憤死の地と伝える。
貞治元年、南朝の将細川清氏、四国平定の命を受けて軍を興し東讃より進んで、白峯山麓に陣し、北朝の将細川頼之が鵜足津の陣に対した。
7月頼之策を以て急襲、清氏寡兵を以てよく奮戦するも及ばず、遂にこの地に死すことは「太平記」その他の史書に著すところである。
【写真左】「史跡三十六(白峯合戦古戦場)の看板
当時の遺構は未だ詳らかでないが先考よく地を按じて、ここ三十六を清氏戦死の地と定めて碑を建て累世その保存に意を用いたところである。
いにしえを こふれば悲し 血潮もて
草木染めしか 綾の広野は
信雄
その名三十六は、また民間信仰、あるいは条里制の遺跡ともいわれるが、ともに後世に残すべき所として、昭和34年11月3日坂出市史跡として指定されている。”
【写真左】白峰陵(白峯寺)より白峰合戦地を眺望する。
手前に見える山は雄山で、さらに西方には細川頼之・奈良氏が拠った聖通寺城が見える。
これとは別に、同合戦城に関する石碑が建っている。
碑文より
“三十六古戦場記念碑
建武中興の偉業破れ足利氏天下統一の実権を掌握するや南北両朝立って全国に其勢を競ふ
足利氏の武将細川清氏至誠豪勇の士夙に二代将軍義詮を補佐し屡々武功ありて重用せらる 然るに故ありて南朝に降り 後村上天皇の勅令を奉じ四国に勤王の義軍を興し一族と共に讃岐に入る
阿讃の兵忽ち数千其麾下に屈し 諸城を固め白峰山麓高屋城に陣す 綾北の郷士里人等多数馳せ参し北朝方の武将細川頼之の宇多津城に対峙す
【写真左】「三十六古戦場記念碑」の石碑
碑文にもあるように、敗れた清氏及び従士を供養したものである。
頼之知謀の将一挙に四国制覇の雌雄を決せんと奇策を以て高屋城を急襲す 清氏陣頭指揮すれとも寡兵及ばず遂に敵将伊賀高光に刺殺せられ多くの将兵里人戦死す 真に痛惜に堪えず時貞治元年7月24日と太平記に録す 爾来幾百星霜清氏以下忠臣将兵等多数の霊此地に眠る
松籟颯々として邑人の袖を潤す 文久2年正月北庄司冨家惣次郎の発起により五百年祭執行せられ以後毎年7月部落民奉仕供養し来る
大正2年9月薬師院前住職小田耕岳僧正奔走乃木将軍遠祖戦没地として碑石建立す 今や六百年を迎へ坂出市文化財に指定せらるるを機とし冨家友太郎等有志相議し林田町民多数の賛同を得て奉賛会を結成 懇に慰霊祭を厳修し此碑を建て後世に伝へむとす
昭和35年9月 建立
岡崎 敬 撰
◇◇◇ ”
細川頼之と細川清氏
南北朝の後半期室町幕府が樹立されていくが、このころ幕府将軍となる尊氏・義詮・義満らを支えていた一族の代表格が細川氏である。細川氏も足利氏の流れで、南北朝動乱期が始まる前は三河に本拠をもっていた。因みに、その場所は、現在の愛知県岡崎市細川町附近に当たる。
細川氏が飛躍的に歴史の表舞台に出始めたのは、以前にも紹介したように細川頼春の頃である(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)参照)。
頼春はこのころ阿波を本拠に備後守護も得て瀬戸内方面に力を誇示していた。さらに頼春の従兄弟・顕氏も畿内・四国方面を任され、4か国もの守護職を得ている。
【写真左】入口付近
史跡として祀られている場所は、三方は田圃などに囲まれているが、西側(写真左)には工場が建っており、目立たないところに設置されている。
なお、この位置まで幅員は狭いものの、簡易舗装の農道が設置されているので、普通車でも辿りつける。
ところで頼春には兄の和氏がいた。彼もまた顕氏らとともに四国方面で活躍し、尊氏が室町幕府を開いた際には、その功が認められ引付頭人・侍所に任じられた。阿波・秋月城(徳島県阿波市土成町秋月)でも述べたように、晩年は阿波・秋月城に骨を埋めることになるが、そのあとを引き継いだのが弟の頼春である。
頼春は文和元年(1352)京都に乱入した南朝軍と戦い、洛中で戦死すると、同年顕氏もまた急逝した。これによって細川氏の勢いもここで途絶えるかに見えたが、それを再興したのが頼春の子・頼之である。
一方、和氏亡き後父の跡を継いだのが嫡男清氏である。聖通寺城(香川県綾歌郡宇多津町坂下・平山)でも述べたように、貞治元年(1362)7月24日、讃岐白峰山麓において幕府から清氏追討の命を受けた従兄弟頼之と戦い討死した。
【写真左】文久2年の銘が入った経塚
上掲した碑文にも書かれているように、江戸末期の文久2年(1862)に「北庄司冨家惣次郎の発起により五百年祭執行」した際の経塚。
冨家惣次郎は、この古戦場跡(史跡三十六)とは別に供養塔を建てている。それが下段の写真である。
清氏と佐々木道誉
ところで、清氏はなぜ幕府から追討の命を受けたのだろうか。延文3年(1358)4月、足利幕府を開いた尊氏が没すると、同年12月嫡男義詮が父の跡を継いで第2代征夷大将軍に任じられた。それに先立つ10月、義詮は細川清氏を執事に据えている。おそらくこのころから既に次の幕府内における人事を見据えていたのだろう。
【写真左】「惣次郎建(立)」と刻銘された石碑
史跡三十六から北西方向に200mほど畦道を進んだところに建っている。自然石に筆耕された文字で表に「惣次郎建」とあり、裏には「南無阿弥陀仏」の文字が読み取れる。
おそらく、文久年間に惣次郎がこの場所を最初に古戦場跡として比定し、石碑を建立したものだろう。
また、手前の四角い石柱の横面には冨家友太郎の銘がある。惣次郎の孫に当たる人物かもしれない。
そして義詮にとってもう一人信任の厚い人物を傍らに置いていた。佐々木道誉である。勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)でも述べているが、清氏が執事に任じられたとき、道誉は義詮からその内示を伝える役を行っている。
道誉は以前にも述べたように、尊氏の代から長らく重鎮として幕府の屋台骨を支えてきた人物で、このとき(延文3年)彼は63歳であった。清氏が執事に任じられたときの年齢ははっきりしないが、父和氏の生誕年から考えて40歳前後だったと思われる。
義詮にとって、清氏の執事補任はおそらく初代将軍・尊氏を支えていた道誉と同じような役割を期待してのことだったと思われる。そして経験の浅い清氏には道誉が補佐するという形を取りたかったのだろう。
しかし、新執事清氏は着任早々道誉と衝突してしまった。『太平記』によれば、加賀守護職の人選に当たって道誉が婿の斯波氏頼を推薦しようとしたら、清氏がこれを拒否して富樫氏に与え、さらには摂津守護職に道誉の孫を宛行うとしたら、清氏が元の赤松氏に返そうとしたりするなど、両者の行動は度々相容れぬものとなり、二人の争いは収拾がつかなくなってしまった。
そして、ついには清氏が義詮の調伏祈祷を行ない、叛逆の意思があると道誉が義詮に讒言し、それを信じた義詮は清氏追討の命を出した。
【写真左】「惣次郎建立」碑から「史跡三十六」を遠望する。
後方の左側には白峰の山並みが続く。
この田圃付近の海抜は2m余りなので、白峰合戦が行われたこの付近は、当時遠浅の海ではなかったかと考えられる。
従って戦(いくさ)の形態は「船戦」が主で、潮が引いた時のみ陸上戦となっていたのかもしれない。
追われた清氏
幕府から追われる立場となった清氏が最初に向かったのが当初領有していた若狭国である。その後和泉堺に向かい、南朝方となって一時京都に迫ったが敗れて、最後の領有地四国讃岐に逃れた。
讃岐に奔った清氏に対し、義詮は頼之にその討伐を命じた。上述したように清氏と頼之は同じ細川氏一門で従兄弟の間柄である。命を受けた頼之のこの時の心情はどういうものであったか分からないが、複雑な想いも多少生じたのではないかと推察される。
しかし、頼之がこれを拒否すれば、父頼春が興した細川吉兆家は、2代目の頼之で廃絶される可能性がある。対する清氏は同氏本宗家の嫡流である。そして、下手をすれば細川両家が武家として表舞台から消えることにもなりかねない。このため頼之には、吉兆家としての立場を優先させた判断があったかもしれない。
またもう一つには、後に将軍を補佐する役職として執事から管領職が敷かれることになるが、そのライバルでもあった斯波氏や畠山氏らとの競争意識も手伝い、頼之は清氏討伐を受諾したともいえる。
高屋城
ところで、この戦いで清氏が陣を構えた城砦について、上掲の碑文に「高屋城」(下線)と記されている。別名「白峰城」とも言い伝えられているが、その所在地についてはいまのところ比定地が確定していない。この碑文に「白峰山麓 高屋城」と書かれていることを考えると、少なくとも白峰山より低い場所にあったと推察される。
【写真左】雄山(おんやま)
左側が古戦場跡で、東山はこの写真にはないが、この雄山の後ろに控えている。(後段の写真参照)
探訪したこの日、古戦場跡から周囲を見渡すと、東に二つの小規模な小山が見えた。南側にある山が雄山(おんやま)(H:140m)といい、これが高屋城かとも思ったが、調べたところ城砦としての遺構らしきものもなく、この山が高屋城であった可能性は少ない。
【写真左】白峰から高屋の町並みを俯瞰する。
白峰の尾根北端部には東山があり、雄山・雌山との間にある町が高屋町である。
この高屋町内にある市立松山小学校付近が上屋敷西・東と呼ばれている。
そこで注目したのが、雄山の東麓にある坂出市立松山小学校付近の地名である。ここには、「上屋敷西」「上屋敷東」及び「中屋敷」という地名が残っている。
「上屋敷」が東側にあって、「中屋敷」は西側の雄山側に位置している。このことから「高屋城」は現在の崇徳天皇白峯陵及び81番札所白峯寺側の尾根続きで北に位置する東山(H:168m)付近ではないかと思われるが、もちろん推測の域を出るものではない。
◎関連投稿
昼寝城(香川県さぬき市多和)
●所在地 香川県坂出市林田町
●別名 史跡三十六
●指定 坂出市指定史跡
●遺構 なし
●備考 石碑等
●探訪日 2016年11月12日
◆解説(参考資料 HP坂出市等)
今月投稿の聖通寺城(香川県綾歌郡宇多津町坂下・平山)で少し紹介しているが、南北朝期に細川頼之と細川清氏の戦いが行われた場所といわれている。
所在地は、以前紹介した崇徳天皇 白峯陵(香川県坂出市青海町)のある第81番札所綾松山洞林院白峯寺から西に降りて、雄山を右手にした林田町の田圃の脇にある。
【写真左】史跡三十六
白峰合戦古戦場の石碑
現地の説明板・その1
“史跡三十六(白峯合戦古戦場)
この地を三十六と云い、細川清氏と従士36人憤死の地と伝える。
貞治元年、南朝の将細川清氏、四国平定の命を受けて軍を興し東讃より進んで、白峯山麓に陣し、北朝の将細川頼之が鵜足津の陣に対した。
7月頼之策を以て急襲、清氏寡兵を以てよく奮戦するも及ばず、遂にこの地に死すことは「太平記」その他の史書に著すところである。
【写真左】「史跡三十六(白峯合戦古戦場)の看板
当時の遺構は未だ詳らかでないが先考よく地を按じて、ここ三十六を清氏戦死の地と定めて碑を建て累世その保存に意を用いたところである。
いにしえを こふれば悲し 血潮もて
草木染めしか 綾の広野は
信雄
その名三十六は、また民間信仰、あるいは条里制の遺跡ともいわれるが、ともに後世に残すべき所として、昭和34年11月3日坂出市史跡として指定されている。”
【写真左】白峰陵(白峯寺)より白峰合戦地を眺望する。
手前に見える山は雄山で、さらに西方には細川頼之・奈良氏が拠った聖通寺城が見える。
これとは別に、同合戦城に関する石碑が建っている。
碑文より
“三十六古戦場記念碑
建武中興の偉業破れ足利氏天下統一の実権を掌握するや南北両朝立って全国に其勢を競ふ
足利氏の武将細川清氏至誠豪勇の士夙に二代将軍義詮を補佐し屡々武功ありて重用せらる 然るに故ありて南朝に降り 後村上天皇の勅令を奉じ四国に勤王の義軍を興し一族と共に讃岐に入る
阿讃の兵忽ち数千其麾下に屈し 諸城を固め白峰山麓高屋城に陣す 綾北の郷士里人等多数馳せ参し北朝方の武将細川頼之の宇多津城に対峙す
【写真左】「三十六古戦場記念碑」の石碑
碑文にもあるように、敗れた清氏及び従士を供養したものである。
頼之知謀の将一挙に四国制覇の雌雄を決せんと奇策を以て高屋城を急襲す 清氏陣頭指揮すれとも寡兵及ばず遂に敵将伊賀高光に刺殺せられ多くの将兵里人戦死す 真に痛惜に堪えず時貞治元年7月24日と太平記に録す 爾来幾百星霜清氏以下忠臣将兵等多数の霊此地に眠る
松籟颯々として邑人の袖を潤す 文久2年正月北庄司冨家惣次郎の発起により五百年祭執行せられ以後毎年7月部落民奉仕供養し来る
大正2年9月薬師院前住職小田耕岳僧正奔走乃木将軍遠祖戦没地として碑石建立す 今や六百年を迎へ坂出市文化財に指定せらるるを機とし冨家友太郎等有志相議し林田町民多数の賛同を得て奉賛会を結成 懇に慰霊祭を厳修し此碑を建て後世に伝へむとす
昭和35年9月 建立
岡崎 敬 撰
◇◇◇ ”
(※下線 管理人による)
【写真左】「細川将軍戦跡碑」
この石造も清氏を供養したもので、右隣りのものは、大正2年頃、乃木大将を顕彰した際のもの。
南北朝の後半期室町幕府が樹立されていくが、このころ幕府将軍となる尊氏・義詮・義満らを支えていた一族の代表格が細川氏である。細川氏も足利氏の流れで、南北朝動乱期が始まる前は三河に本拠をもっていた。因みに、その場所は、現在の愛知県岡崎市細川町附近に当たる。
細川氏が飛躍的に歴史の表舞台に出始めたのは、以前にも紹介したように細川頼春の頃である(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)参照)。
頼春はこのころ阿波を本拠に備後守護も得て瀬戸内方面に力を誇示していた。さらに頼春の従兄弟・顕氏も畿内・四国方面を任され、4か国もの守護職を得ている。
【写真左】入口付近
史跡として祀られている場所は、三方は田圃などに囲まれているが、西側(写真左)には工場が建っており、目立たないところに設置されている。
なお、この位置まで幅員は狭いものの、簡易舗装の農道が設置されているので、普通車でも辿りつける。
ところで頼春には兄の和氏がいた。彼もまた顕氏らとともに四国方面で活躍し、尊氏が室町幕府を開いた際には、その功が認められ引付頭人・侍所に任じられた。阿波・秋月城(徳島県阿波市土成町秋月)でも述べたように、晩年は阿波・秋月城に骨を埋めることになるが、そのあとを引き継いだのが弟の頼春である。
頼春は文和元年(1352)京都に乱入した南朝軍と戦い、洛中で戦死すると、同年顕氏もまた急逝した。これによって細川氏の勢いもここで途絶えるかに見えたが、それを再興したのが頼春の子・頼之である。
一方、和氏亡き後父の跡を継いだのが嫡男清氏である。聖通寺城(香川県綾歌郡宇多津町坂下・平山)でも述べたように、貞治元年(1362)7月24日、讃岐白峰山麓において幕府から清氏追討の命を受けた従兄弟頼之と戦い討死した。
【写真左】文久2年の銘が入った経塚
上掲した碑文にも書かれているように、江戸末期の文久2年(1862)に「北庄司冨家惣次郎の発起により五百年祭執行」した際の経塚。
冨家惣次郎は、この古戦場跡(史跡三十六)とは別に供養塔を建てている。それが下段の写真である。
清氏と佐々木道誉
ところで、清氏はなぜ幕府から追討の命を受けたのだろうか。延文3年(1358)4月、足利幕府を開いた尊氏が没すると、同年12月嫡男義詮が父の跡を継いで第2代征夷大将軍に任じられた。それに先立つ10月、義詮は細川清氏を執事に据えている。おそらくこのころから既に次の幕府内における人事を見据えていたのだろう。
【写真左】「惣次郎建(立)」と刻銘された石碑
史跡三十六から北西方向に200mほど畦道を進んだところに建っている。自然石に筆耕された文字で表に「惣次郎建」とあり、裏には「南無阿弥陀仏」の文字が読み取れる。
おそらく、文久年間に惣次郎がこの場所を最初に古戦場跡として比定し、石碑を建立したものだろう。
また、手前の四角い石柱の横面には冨家友太郎の銘がある。惣次郎の孫に当たる人物かもしれない。
そして義詮にとってもう一人信任の厚い人物を傍らに置いていた。佐々木道誉である。勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)でも述べているが、清氏が執事に任じられたとき、道誉は義詮からその内示を伝える役を行っている。
道誉は以前にも述べたように、尊氏の代から長らく重鎮として幕府の屋台骨を支えてきた人物で、このとき(延文3年)彼は63歳であった。清氏が執事に任じられたときの年齢ははっきりしないが、父和氏の生誕年から考えて40歳前後だったと思われる。
義詮にとって、清氏の執事補任はおそらく初代将軍・尊氏を支えていた道誉と同じような役割を期待してのことだったと思われる。そして経験の浅い清氏には道誉が補佐するという形を取りたかったのだろう。
しかし、新執事清氏は着任早々道誉と衝突してしまった。『太平記』によれば、加賀守護職の人選に当たって道誉が婿の斯波氏頼を推薦しようとしたら、清氏がこれを拒否して富樫氏に与え、さらには摂津守護職に道誉の孫を宛行うとしたら、清氏が元の赤松氏に返そうとしたりするなど、両者の行動は度々相容れぬものとなり、二人の争いは収拾がつかなくなってしまった。
そして、ついには清氏が義詮の調伏祈祷を行ない、叛逆の意思があると道誉が義詮に讒言し、それを信じた義詮は清氏追討の命を出した。
【写真左】「惣次郎建立」碑から「史跡三十六」を遠望する。
後方の左側には白峰の山並みが続く。
この田圃付近の海抜は2m余りなので、白峰合戦が行われたこの付近は、当時遠浅の海ではなかったかと考えられる。
従って戦(いくさ)の形態は「船戦」が主で、潮が引いた時のみ陸上戦となっていたのかもしれない。
追われた清氏
幕府から追われる立場となった清氏が最初に向かったのが当初領有していた若狭国である。その後和泉堺に向かい、南朝方となって一時京都に迫ったが敗れて、最後の領有地四国讃岐に逃れた。
讃岐に奔った清氏に対し、義詮は頼之にその討伐を命じた。上述したように清氏と頼之は同じ細川氏一門で従兄弟の間柄である。命を受けた頼之のこの時の心情はどういうものであったか分からないが、複雑な想いも多少生じたのではないかと推察される。
しかし、頼之がこれを拒否すれば、父頼春が興した細川吉兆家は、2代目の頼之で廃絶される可能性がある。対する清氏は同氏本宗家の嫡流である。そして、下手をすれば細川両家が武家として表舞台から消えることにもなりかねない。このため頼之には、吉兆家としての立場を優先させた判断があったかもしれない。
またもう一つには、後に将軍を補佐する役職として執事から管領職が敷かれることになるが、そのライバルでもあった斯波氏や畠山氏らとの競争意識も手伝い、頼之は清氏討伐を受諾したともいえる。
高屋城
ところで、この戦いで清氏が陣を構えた城砦について、上掲の碑文に「高屋城」(下線)と記されている。別名「白峰城」とも言い伝えられているが、その所在地についてはいまのところ比定地が確定していない。この碑文に「白峰山麓 高屋城」と書かれていることを考えると、少なくとも白峰山より低い場所にあったと推察される。
【写真左】雄山(おんやま)
左側が古戦場跡で、東山はこの写真にはないが、この雄山の後ろに控えている。(後段の写真参照)
探訪したこの日、古戦場跡から周囲を見渡すと、東に二つの小規模な小山が見えた。南側にある山が雄山(おんやま)(H:140m)といい、これが高屋城かとも思ったが、調べたところ城砦としての遺構らしきものもなく、この山が高屋城であった可能性は少ない。
【写真左】白峰から高屋の町並みを俯瞰する。
白峰の尾根北端部には東山があり、雄山・雌山との間にある町が高屋町である。
この高屋町内にある市立松山小学校付近が上屋敷西・東と呼ばれている。
そこで注目したのが、雄山の東麓にある坂出市立松山小学校付近の地名である。ここには、「上屋敷西」「上屋敷東」及び「中屋敷」という地名が残っている。
「上屋敷」が東側にあって、「中屋敷」は西側の雄山側に位置している。このことから「高屋城」は現在の崇徳天皇白峯陵及び81番札所白峯寺側の尾根続きで北に位置する東山(H:168m)付近ではないかと思われるが、もちろん推測の域を出るものではない。
◎関連投稿
昼寝城(香川県さぬき市多和)
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